阪神・淡路大震災 Ⅲ | 気ままなtomoeのブログ

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 音譜こんにちは音譜今日は暖かく、暖房切って膝掛けで寛いでいます。

 なんか、暗いですが震災の事を簡単に書かせていただきますね。

 1日目は、わけも分からずその日の事を考えていましたが、私が住んでいた東灘区の山の手は
 電気が当日遅くに着きました。
 スイッチ入れたまま寝ていたので、夜中に電気がついて目が覚めました。
 その時は、「やっぱり夢だったんだ!」と思いましたが、隣には友人が、一部屋向こうには
 ご主人が見えたので、やっぱり夢ではありませんでした。
 
 前回書きましたが、夜中は余震で眠れず、朝はもちろん寝不足。
 でも、アパートを出る為に、貴重品と少しの下着を持って、近所の方には行き先をメモして、
 …実は、私の幼馴染でもある先輩のお宅にお世話になる事になり(関西同士は電話繋がらず、
 東京に電話して、母に連絡を入れてもらった)、そこの電話番号・住所を渡してきました。
 先輩は、即「お風呂を沸かして待っています」と言ってくれ、涙があふれそうでした。 

 私たちは、上下ジャージ(シャカシャカしてるやつ)を着て、下にいっぱい着込んで、線路を
 伝って歩く事を決めました。
 何時間も覚悟していましたが、東灘区~西宮と言うところまで徒歩で…!
 最初は線路の上は歩きにくく、少し荷物があるからすぐ疲れ、でも、頑張ろうと3人歩きました。
 
 やはり同じ事を考えている人たちは多く、心強かったです。
 しかし・・・二駅歩いた「夙川」と言うところから、警官の方が笛を鳴らして皆を道路に
 下ろしていました。
 「何故?」とみな思いますよね?
 先を歩いて分かりました。
 
 なんと夙川から先の線路は、ジェットコースターのように上下にうねっていて、
 捻じれたりしていました。
 こんなにも簡単に線路が曲がってしまうのか?
 と思うくらい、ゴムの棒を曲げたみたいになっていました。

 高架下の駐車場は、線路などに押しつぶされ、5階建てのビルが3階建てに。
 1階が駐車場の家は、みな潰れていました。
 そんな光景を見ながら、3時間かけて(普段は電車で15分)歩いて、
 阪急西宮からは動いている電車に乗り、ひとまず十三(じゅうそう)へ。

 友人夫婦とは十三で別れ、私は京都方面へ、友人夫婦とは「ホテルが見つからず、
 泊まるところがなかったら、連絡を貰い先輩宅へ合流」を約束して
 私は、京都河原町線と言う阪急電車に乗りました。

 私はそこで愕然としました。

 私は、昨日から歯も磨かず、顔も洗わず、お風呂も入らず居るのに、
 電車の中は、昼過ぎでもありますので、学生が学校からの帰りか、たむろって話していて、
 年配のご婦人たちは、綺麗に着飾って、阪急百貨店の紙袋なんか持っていて、
 何とも、ただ線が違うだけで異国の地に来たみたいに、昨日の大地震がウソのように
 普通に生活がされていました。

 もちろん、関西はどこも揺れましたが、東京で震度4とか5あっても、一時的に
 電車が止まるだけ…と同じなんですよね。
 
 多分私が被災者だなんて、誰一人気付かないと思います。
 私の恰好は、スウェットだから、テニスかスポーツクラブの帰りぐらいに
 見られているんでしょうね。

 私は、15分くらい電車に乗り、小さい頃に住んでいた町に降り、先輩宅へ。
 丁度、ご主人は単身で地方へ行ってらしたので、わたしの一人や二人大丈夫だって
 言ってくださいました。
 裏にある、先輩のご両親に挨拶をして、お風呂を頂きました。
 なんとホッとする瞬間!
 でも、先輩宅のお風呂のタイルはひびが入り、一部崩れていました。

 歩いていて、所どころですが、屋根のかわらが落ちていたり、塀が崩れていたりと
 震度4から5でも、被害はあったのです。

 私は一週間お世話になり、夫の居る所に行き、でも、帰国しても帰る所は無いので、
 夫婦で先輩宅にお世話になり、結局神戸に戻ったのは4月過ぎてからでした。

 同じアパートの世帯の方は、それぞれ、奥さまは殆ど実家に帰り、子供の居る方は実家の
 近くの学校に一時転校していて、女性の居ないアパートになっていたそうです。
 震災を受けた子は、他県では受け入れをしてくれたそうです。
 
 学校は、みな被災者が居る為勉強は出来ないし、運動場には仮設住宅が建ったり、
 私が通っていたテニススクールは、やはり仮設住宅が建ち春過ぎに戻ってもテニスは出来ず。
 
 一時夫と、改めて部屋の整理をしようと、2月に入り神戸に戻った時、
 自転車で夫に被災地を見てもらおうと30分ばかり歩きました。
 歩道橋から街を眺めたら、一軒家が殆ど火事で焼かれて、山の手なのに海が見えそうなくらい
 何も無くなっていました。
 私は見てきた場所ですが、夫は初めて実際に見る景色に、なんか目が潤んでいたような気がします。
 
 私たちは、余り人のいないアパートを(50世帯くらい)後にして、無事だった車に乗って、
 また先輩宅へ向かいました。
 この時も、国道2号線の両脇が真っ暗で、ガソリンスタンドの明りしかありませんでした。
 家の明かりの無い道路なんて初めてです。
 田舎の田んぼのあぜ道を走っているみたい。
 流石に涙が出ました。

 ほんと、今なんて贅沢して、15年前の事なんて忘れたみたいな生活をして、
 人間てなんて愚かと言うか、情けないものなのか…と思いますが、
 神様は、人間には苦しい事は少しでも忘れて、
 心が押しつぶされないようにしてくださっているのかしら?
 もちろん、完全に忘れているわけではないのですよ。
 でも、あの時は、形あるものはいつか無くなる…高級食器に対して…と思っていましたが、
 やはり、良いものを見て欲しくなっている自分がここに居ます。
 
 あれから、新潟や海外でも大きな地震で被害に遭われている方がいらっしゃいますが、
 あの時の苦しさや辛さは分かるつもりでいます。
 ほんと、自然の力には人間は絶対敵いません。
 でも、少しでも被害を小さくする事は出来ると思います。
 
 皆さんもいつどこで何があるか分からない時代。
 今を生きている事に感謝して、この不況の時代、頑張って生きていきましょう!
  
  ほんとは、今だから笑える話もあるのですが、またの機会に書かせていただきます。
  
  長い文章最後までお読みいただきありがとうございました。
  私のほんの少しの事ですが書きました。運よく皆さんに勇気を貰えた、
  友人たちのやさしさに感謝をしている私を見ていただけた事に感謝いたします。
 

     tomoe


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