「絶対BIGになってやる」。そう誓ったのは小学生の時。クリスマスイブでした。


今回の連載は新聞ですから、僕の半生を詳しくは知らない人もいると思うので、かつて「成りあがり」(1978年発表)という本でも触れた部分で簡単に当時を振り返ります。

 親父は俺が小学2年生の時に死にました。原爆の後遺症でね。おふくろは俺が3歳の時にいなくなったから、8歳で孤立無援。だから父方のおばあちゃんに育てられたんです。 一番のごちそうは、溶き卵に水としょう油とか混ぜてふかした茶わん蒸し。誕生日には卵を2つにしてくれて「永吉、ニワトリ2羽だと思って食え」って。心まで貧しくなるなという、おばあちゃんの教えはその後の僕の人生でずっと生き続けました。
そして迎えたクリスマスイブ。金持ちの息子に「お前こういうの食えないだろ」って、ケーキをちぎって投げられた。でも僕はやり返さず、そいつがいなくなった後で頬っぺたについたクリームをなめたんです。相手に殴りかかるより、クリームをなめたいと思った自分と、この境遇に次第に怒りが湧いてきた。だから自分に誓った。

「絶対、金持ちになってやる」と。

 

 

キャデラックは当時の日本人の憧れだったアメ車の最高峰。

あの頃の日本にあったハングリー精神と上昇志向の象徴だったが、その欲望をむき出しに語る人は少なかった。

特に1972年の音楽界は、ド演歌のぴんからトリオ「女のみち」が300万枚超の歴史的ヒット。若者の間では四畳半フォークの風が吹き始め、サブカルチャー的な扱いだったロックも「はっぴいえんど」など多くが商業主義を否定していた時代。

矢沢の言葉に反感を持つ人が出るのは自然なことだった。 それが、多くの若者に共感を呼ぶこととなったのはなぜか――。

革ジャン&リーゼントで初期衝動全開で吠える矢沢の強烈な引力はさることながら、この言葉そのものに鮮烈な魅力があり、それはキャデラックの使い方にあった。ハイライトは大衆向けタバコの代表格。それを最高峰のアメ車に乗って、たった10メートル先のタバコ屋に買いに行きたいという思考に、記者がキョトンとしたのも無理はない。

しかし、この不合理な夢の描き方こそがロックンロールを体現しており、「成功」とは何かをこれほど無邪気に、反骨心丸出しで、誰もが映像で思い浮かべられる言葉で表現した人はいなかった。

 

 

「最初、散々な目に遭う。2度目、オトシマエをつける。3度目、余裕」

 バンド「キャロル」の解散から5カ月後の1975年9月末。

ソロデビューの全国ツアーを京都会館からスタートした。

でも半年前まで完売だったチケットが全く売れない。

ラメの服着てバラード歌う姿に客も驚いたんだね。

メタクソ言われて。ラストの東京公演、中野サンプラザ(76年1月)もブーイングが起こる屈辱だった。

 

 

「怖いから必死で探る、調べる、計算する。臆病はある種、俺にとってはレーダーなんだ」

 自分から臆病って打ち明けられるようになったのは、いつ頃からかなあ。僕は心のウンと奥底のところがビビり屋ですから。なぜだ、大丈夫か、どうする!?というセンサーの感度が高いんだと思う。

 だってほら、僕は昔から新聞をよく読むでしょ。1面から3面記事、スポーツもエンタメも株価も見る。マーケティングなんてしないけど、世の中の流れだけは知っておきたい。テレビも報道番組だけじゃなくワイドショーだって見る。

 

 ミーハーなんですよ、僕は。みんながイイって言ってるものは、なぜイイのか知りたい。だから誰かに「いい鍵盤弾きがいるよ」って教えてもらったら、「面白い詞を書くヤツいるよ」って聞いたら、すぐに飛びつく。それが当時まだ世間的には無名だった坂本龍一(70)であり、5年前に他界された作詞家の山川啓介さん(享年72)だった。

 

 

 矢沢永吉は一気に成りあがった成功者とのイメージを持つ人も多いが、一足飛びにスターの階段を上り詰めたわけではない。

 最初の「散々な目」を象徴したのが、観客が前列しかいなかった佐世保公演。

矢沢は「リメンバー佐世保」のスローガンを掲げ、翌76年4月から新たに全国津々浦々を縦断する9カ月間のツアーを敢行。

ヒートアップした観客が警備員とケンカになるなど熱狂的な状況に「矢沢のライブは危ない」と使用拒否する会場も出てくるなど、こうした評判も含めて矢沢の名前は全国にとどろいていった。

 

 

「時間よ止まれ」は熱狂的な暴走族ファンを従える不良の音楽のシンボルだった矢沢永吉(72)が、音楽家としてクリエーターとして卓越した才能を持っていることを世の中に示した転換点となった。 

コンサバティブな顧客層が中心だった資生堂からの依頼。

対極にあった矢沢の起用自体が衝撃だった。

女性が自己主張できる社会に変わりつつあった中、インパクトある新たな女性像の提案を矢沢の音楽に託した。 指定された条件はバラード。矢沢はここで今の気鋭の作曲家たちも驚く斬新なコード進行を使い、メロディーの高低差はないのに口ずさみたくなる、それまでのヒット曲にはなかった独創的な曲を作り上げた。

 

 

極貧の少年時代に味わった屈辱を機に生まれた「絶対BIGになってやる」という誓いの言葉は、野心むき出しで芸能界に現れた矢沢永吉を象徴した。

「BIGになる」という極めて抽象的で、日常で使うと眉をひそめられかねない言葉が、なぜ成功を夢見る若者たちの指針となったのか。

それは矢沢が日本のロックシンガーで初めて長者番付1位(歌手部門)になるなど、感覚的だった「BIG」を生々しく体現したからだろう。

実際1978年に発表し、100万部を超える大ベストセラーとなった初の著書「成りあがり」にも副題に「How to be BIG」とある。そもそも「成りあがり」だって本来は卑下する言葉なのに、矢沢が放つとどんな言葉でも昇華される。誰もマネできない、矢沢の唯一無比のパワーだ。

 

 

今からちょうど50年前。ロックバンド「キャロル」でデビューした時。

あの頃のボクはいつも怒ってました。きっと怖かったんです。

「どうしよう…オレ大丈夫かな、本当にできるのかな」って弱い自分が出てくる中、自分で自分をけしかけていたんですよ。それが全てのエネルギーだった気がします。

 

それだけボクは怖がりだった。だから、なんでも物語にしちゃおうと。

そうすればヤルしかなくなると思ったのかな。

でも、それでよかったよね。そこまで描けるんだもん。 確か「週刊平凡」だったかなあ。初めて取材を受けた時、オレもとうとう雑誌社から取材受けるようになったよって喜んだわけ。 

すると「矢沢クン?」ですよ、当時は。「矢沢君。芸能界で歌手になったけど、どのへんまで夢を見てますか?」って。あっ!いい質問するなって思って「10メートル先のタバコ屋にキャデラックで行って、ハイライトをピュッと買えるくらいの男になりたいです」。

 

 

ソロアーティストとして史上初めて国立競技場(東京)で単独ライブを行う。

国立競技場での単独公演は、建て替え前を含めても過去6組しかおらず、全てグループやバンド。

ソロは矢沢が初めてで、国立競技場に立つアーティストとして最年長記録も打ち立てる。コロナ下で冷え込むライブ市場にも大きな刺激を与えそうだ。

国立競技場に新たな歴史を刻む公演は、50年の節目を迎えた記念ツアーの一環。東京を皮切りに福岡、大阪と3大都市のスタジアム、ドームを巡り、ツアータイトルは「MY WAY」だ。事務局によると、全国スタジアム&ドームツアーは27年ぶり。こうした大規模ツアーは「最後になり得る」(関係者)との覚悟で矢沢は臨む。

 

国立競技場の最大収容人数は8万人。真夏の夜、大観衆の視線は1人のロックンローラーに注がれる。新たな歴史の扉が開く瞬間が今から待ち遠しい。