再び“ここの人”、“日本の人” PART 1 | グローバルに波乱万丈




私は日本の家族とは絆が薄く、海外生活25年、一度も恋しく思ったこともないのですが、

渡米当時は、友達に会いたくて会いたくて、よく涙したものです。



私には友人知人がたくさんいました。


でも、私が渡米したのはスカイプやメールなど存在せず、日本への電話が一分200円近くした時代、

届くのに一週間以上かかるエアメールだけで、友達と縁を繋げていくには難しく、


その上、一年後には前夫の事故、植物人間状態の前夫の世話、日本の友達との交流どころではなくなり、

その後は、渡米までして幸せであるべきなのに、不幸な子持ち未亡人になった自分が惨めで、

友達と連絡を取る気持ちにはなれませんでした。



それに、里帰りしても、親に子供をみてもらい友達に会いに行けたわけでもなく、

気がつけば、あれだけいた友達とも、すっかり遠い縁になっていたのでした。




日ごろメールのやり取りもないのですが、日本に行けば会う友人が二人います。 


私の回顧録、「息子への手紙」 を読んで頂いてる方は覚えてらっしゃるか、

未亡人となり、アメリカで元義父のことの後、何処でどう暮らしていけばいいのかわからず途方に暮れていた時、

私と二歳だった長男を小さなフラットに迎え入れてくれた、当時ロンドン在住中だった高校時代の友人。


今ではあまり話の合う友達ではなくなってしまっているけど、あの時の彼女の優しさを今でも感謝し、

必ず、お土産たくさん持って会いに行きます。


彼女も、「ヤヤに美味しい物を食べさせてあげようと思って...」 と和食のお店を調べ、待っててくれます。
 



もう一人は、18歳の頃から知る学生時代の友人。 

隣の県の山口から車を走らせ、会いに来てくれます。


彼女とは突然、連絡が取れなくなり、今回は会えないと思っていたのですが、帰国寸前に連絡がつき、

会った時、涙を流しながら、


「ヤヤがブログに書いた回顧録を読んで、ヤヤが辛かった時、なんにもしてあげなかった私は、

自分をヤヤの友達と呼ぶ資格などないと思った... もう会えない、会うべきじゃないと思った...」


と話してくれました。


彼女はとても心の優しいピュアな心の人です。

当時、私は、同情されることで余計に苦しくなりそうで、誰とも連絡を取らなかったので、

彼女は私に起こったこと、二十数年後に回顧録を読むまで、詳しくは知らなかったのです。

それでも友達としての自分を責める、澄んだ心の持ち主です。


そんな彼女だから、必ず会いたいのです。





息子達に自分達のオリジンである文化を見せるため、たまには帰省してきましたが、

家族とは縁が薄いし、友人知人とも縁遠くなってしまい、会う友達も少なく、

私にとって日本はそれほど思い入れもなく、もう “帰りたい。” と感じることもない場所です。


日本よりも、随分、友達や知り合いが増えた20年以上暮らすこのフロリダの街や、

家族、親戚一族皆とのつき合いの友人が住む、オーストリアのドナウの支流沿いの古街の方が、

私を温かく迎えてくれる “母国” のようにさえ感じます。




でも、今回の日本での時間で、少し変化が起きたような気がするのです。



$グローバルに波乱万丈



つづく