地震の後、アメリカのテレビ局のレポーター達は、悲劇を報道するためにどっと日本に流れ込んだ。
彼らは、世界の悲劇の映像をアメリカのお茶の間に届ける。
欧米からは、人々が泣きながら抱きしめ合う姿。
アラブの国々からは、人々が手を振り上げ、天に向かって叫ぶ姿。
他のアジアの国々からは、人々が気絶寸前の様子で泣き喚く姿。
そして、今、日本の東北から、
人々がこんな状況に置かれながらも、取り乱すことなく、不満不平を喚き散らすことなく、平静にしている姿。
「辛いのは自分だけじゃない。」と自分に言い聞かし、耐えている東北の人々の姿。
アメリカでテレビを観ている日系人には、その辛抱強さが切ない。
でも、レポーター達は、視聴者の涙をそそるようなドラマチックな映像がほしいのだろうか、通訳を通して、時々、非常識な質問を被災地の人達に質問している。
地震後、四日目くらいだったろうか。
屋根の破片を持ち上げ、逆さになった車の中を覗き、生存者を探す自衛隊の人達に、
「まだ生存者がいると思うのですか?」
私はテレビの前で、
「いると思うから、いると信じているから、頑張ってくれているんじゃない。 バカ!」
質問された若い自衛隊の人は質問には答えず、無表情でうなずき、作業を続けていた。
入院している人達のネームリストの中に、行方不明の家族の名前があることを願いながら、病院の前に張られたテントに並ぶ長い列。
列の中の、母親の生死がわからない青年に、
「もし、お母さんの名前がリストになかったら、どうするのですか?」
私の頭の中で、その青年と息子がダブり、レポーターに平手打ちを食わしてやりたかった。
質問された青年の顔が一瞬映り、違うシーンが画面に映された。
もしかしたら、その青年が私の代わりに平手打ちを食わしてくれたのかも知れない。
ならいいのだが、礼儀正しい日本人、それはないだろう。
青年はそんな無神経な質問に当惑し、その映像はカットされたのだろう。
避難所にいる5、6歳の可愛い小さな女の子に、紙切れに用意した日本語を読みながら、
「コーワカッタデースカー?」
私は、
「怖かったに決まってるじゃないの!
“怖かったですか?”じゃなくて、“怖かったね。”と肩を抱いてあげてよ。 可哀相に。」
白人のレポーターは、自分が日本語をしゃべっているのを観てほしかったのかも知れないが、通訳の人を通して、もっと優しいの言葉をかけてあげてほしかった。
女の子に「コーワカッタデースカー?」が通じたのかどうかわからないけど、とり合えずなのか、うなずいていた。
きっと、レポーター達は、泣き喚く他の国の人達にはそんな質問はしないだろう。
日本人からの感動的な反応を期待して、そんなことを聞くのだろうか、
平気そう見えるから、そんな非常識なことを聞いてもいいと思うのだろうか。
東北の人達は辛抱強い。
厳しい、長い冬を、不満も言わずじっと耐えるように、この惨事も、平静な表情の下で必死で悲しみ、苦しみを堪えている。
アメリカ人のレポーター達にはそれが見えないのかも知れないが、もっと思いやりをもって、接してあげてほしい。