回顧録: 息子への手紙 14 | グローバルに波乱万丈

Dear MY SON、

夫を葬った後、悲しみに浸り続けているわけにはいきませんでした。 

低所得者用のアパートに住み、アメリカ政府からの母子家庭の手当て、フードスタンプ(食料配給券)で生活はできたけど、そんなふうに生きていくのは嫌だった。 

アパートの向かいの部屋には、二十歳前後の若い母親と赤ちゃんが住んでいました。 手当てで生活していたのでしょう。 働いている様子はなかったわ。 厚化粧で、いつもの下着が見えそうなくらい短いスカートをはいて、違うボーイフレンドが出入りしていたわ。 私はそんな人達との生活は嫌でした。 貴方がそんな人達の子供達と育つのは嫌でした。 

義父母も、私と貴方をどうしたらいいのか考えていたのでしょう。 義父には離婚した弟がいました。 彼の再婚者の候補に私があげられたようで、断れず、仕方なく食事に行くことになりました。 15歳くらい年上で全然私のタイプではなかったし、英語があんまりしゃべれないふりをして、わざと会話がはずまないようにしたわ。 

義父にこんなことを言われました。 「日本人女性と遊びたい男はたくさんいる。 でも、結婚したい男はそんなにいないだろう。」 義父は何を思ってそんなことを言ったのかしら。 

人口のほとんどが白人のその街では、その頃はまだアジア人への偏見が強く、アジア人を含めて白人以外の人種は学校や職場でいじめや差別の対象となっていたの。 義弟が先生から“JAP”(日本人の蔑称)と呼ばれ、泣いていたこともありました。 その上、その宗派では婚前交渉は最大の罪のひとつで、男の人も女の人も結婚まで清純でなけらばならないという決まりがあるの。 きっとそういうことで、あの宗派の人達は若くに結婚するのでしょう。 だから、子持ちで、すでに25歳の日本人の私は、いい再婚なんか期待しないほうがいいという警告だったのかも。 

再婚など考えてはなかったけど、私は父親のいない貴方が哀れでかわいそうでね。 貴方を可愛がってくれる義父母、義弟妹がいるその街で、暮らし続けるつもりでした。  宗教は嫌だったし、その街には友達と呼べる人は一人もいかなったけど、貴方のためにはそれが一番だと思ったの。 

でも、そんな状態が居たたまれなく、日本へ少しの間帰ったの。 日本にいる間、私が出かけている時、実家にアメリカから弁護士が電話してきたようでした。 電話の理由を知るのが怖く、義理の両親に電話もせず、どきどきしながら弁護士がかけ直してくるのを待ったわ。 後から聞いた話、前夫の死因に疑惑を持った調査員が私を探していたらしく、義父が弁護士を立てたのでした。 私が居ないので査問できないし、調査員の人は前夫が入院していた病院に行ったそうです。 そこで、看護婦さんやドクターが私のことを話してくれたらしいの。 若い日本人の奥さんが生まれたばかりの赤ちゃんを連れて毎日通い、必死で看病していたと。

家族や友人の怪我や病気を悲しむ人達を、見慣れているはずの看護婦さんやドクターなのに、二年近く経っても私のことを覚えていてくれました。 それほど印象的だったのでしょうね。 「こんなに悲しいケースは今までになかった。」と、調査員の人は調査を打ち切ってくれたそうです。 死因は“内臓不全”として登録されました。

看護婦さんやドクターの証言がなかったら、私は刑務所に行っていたのかも知れません。 貴方はどうなっていたのでしょう。 本当にありがたいことです。 その時たまたま日本に居たということでも救われたのでしょう。 これも、前夫が貴方と私を守ってくれたのかもね。

続きは次の手紙で...


Love、MOM


追伸 

皮膚の色や目の形、国籍や信じる神で人を判断してはいけません。 偏見や差別、とても悲しいこと。 人の心を見れあげることのできる人でいてください。 I love you with all my heart, and I will always love you no matter what. You are my son forever and ever.