【私の世界】――螺旋① 出会い


 あああああ、暑い!
 汗だくだよ……。

 大学に入学して早三カ月。夏休みを目前にした授業のダルさと言ったらない。
 駅からすぐの校舎。といっても、徒歩十分はかかる。周りは田んぼや山ばかりで遮るものが少ないから、割りと近いと錯覚するのかも。
 何にしろ照りつける日差しの中、それだけ歩けば全身汗でべたべたなのだ。
 授業なんて受ける氣が失せてしまう。

 それでも夏の田園風景は好きだった。
 涼しい風が吹くわけでもないが、青い空に緑の絨毯、高くそびえる稜線とふわふわの雲がゆっくり流れる時間。
 季節は短いが、何度でもやってくるこの瞬間に自分の生を重ねているのだ。


「ゆず葉~!」
「あ、利佳子《りかこ》」
 校舎側の方から彼女は走ってくる。利佳子は私と同じ一年生。学部はちがうけど、高校の時からの友人だ。

「おはよう」
「暑いね~」
 そう言って利佳子は指先で顔を仰いだ。これから一緒に講義を受けるのだ。学部がバラバラでも、一年生は共通の必修科目が多い。

「ゆず葉、もう文学部のクラス慣れてきた?」
「う~ん。まあ、ぼちぼちかな。利佳子は?」
「話せる子は増えてきたよ。外国語学部って、みんな無駄にコミュ力高いから」

 学部ごとでクラス分けされる授業もある。私は利佳子みたいに、すぐ誰とでも仲良くなれるわけではなかった。文学部に入学する子たちも、たぶんみんなそうなんじゃないかな、と勝手なイメージを持っている。

「夏休み中にクラスの子たちと、BBQか海行こうって話になってるけど、ゆず葉もくる?」
「へえ、楽しそうだね。行きたいけど、一人面倒くさいのがいるからなぁ」
「面倒って……颯馬《そうま》くんのことか」

 駅から校舎へ向かう途中の並木道、日陰に潜りながら歩いていく。この並木は大学の敷地内に続いている。もう散ってしまったけど、入学式では薄桃色の桜が満開だった。
 今は新緑から少しずつ深い緑に色づいた光が、私たちの足元をくすぶっている。
 蜃気楼の中で、鳥のさえずりが聞こえてくる。

「そういえば最近、颯馬くん元氣してる?」
 利佳子が私の顔を覗き込んでくる。
「颯馬《そうま》? 元氣だよ。関西の方でお仕事頑張ってるみたい」
「そっかぁ。夏休み入ったら私も連絡してみようかな」
 幼馴染の颯馬と私。利佳子は高校から一緒になって三人でよく遊んだ。
 卒業してから会う機会が減ったので、彼女も氣になっているようだ。

「あいかわらず颯馬くん、毎日連絡してくるの?」
 ニヤニヤする利佳子。
「さすがに毎日はないよ。今日は『ちゃんと大学行ってるか?』ってメッセージは来てたけど……」
「あははは、さすが颯馬! ゆず葉の保護者だよね」
「もう、他人事だと思って〜。面倒くさいんだからね、颯馬。時間があれば毎日家来てさ、親みたいに勉強のこと交友関係のこと管理してくるんだから。やっといなくなって、清々したよ」
「でも、寂しいでしょ?」
 利佳子が得意気な顔をする。私たちのことカップルだと思って、疑わないんだ。
「全然そんなことない。遠くに行ってくれて良かった」
「愛だな~」
「だから、そんなんじゃないってば!」
 利佳子は「おほほほほ」と楽しそうにスキップし始めた。

 大学の敷地に入ってしばらく木陰を歩いていると、先ほどは氣にならなかった鳥のさえずりが、かすかな言葉として聞こえてくる。 
 ――大事な人、 近くにいる
 え?
 鳥さん、何か喋ってた。 声聞こえたの、久しぶりかも。
 大事な人って、誰のこと?
 動物の話す言葉がわかってしまう時があった。自分でも不思議だが、それは子どものころからそうで、周りにそんなふうに動物や植物の言葉を理解する人は誰もいなかった。

 鳥の声に向けてしばらく足を止めていると 、
 利佳子が突然、
「あれ? なんだろう ?」
 並木道が終わった先に図書館がある。その隣には第二校舎が並んでいるが、その辺りに女子や男子の小さな人だかりがみえた。 利佳子はそれに向かって小走りで近づいて行ってしまう。 

 道の途中で立ち止まっていた私もそちらへ一歩進もうとしたが、さきほど歩いてきた方角から誰かが走ってくる様子が見えた。
 私はそのまま、全然知らない彼が近づいてくるのをなぜかじっと待っていた。男性は目の前まで走ってくると、両膝に手をついて背中でゼエゼエと呼吸した。かぶっていたキャップはその時脱いで、左手で持ちながら下を向いたままだ。
 駅からずっと走ってきたのだろう、なかなかその荒い息は治まらない。

「大丈夫ですか?」
 思わず声をかけてしまう。
 下を向いた彼の額からは、地面にポタポタと汗がしたたり落ちている。 私はすぐに鞄からハンカチを出して彼に差し出した。
「あの、良かったらこれどうぞ」
 すると彼は上半身を起こし、今度はサングラスを右手で外した。
 外したサングラスをキャプの内に入れ、空いた手でハンカチを受け取りながら、
「ありがとう」
 うれしそうな笑顔を見せてくれた。
 その表情は、私の呼吸を忘れさせるものだった。
 チャーミングで、爽やかで、色氣のにじむ彼の容姿は、見た者の視線を離さない。どこまでもその瞳に飲み込まれてしまいそうだ。
 いまだかつて感じたことのない、豊かで、温かく、繊細な雰囲気。目の前の彼に、すっかり魅了させられてしまう。

 ハンカチで額や首周りの汗を拭うとその人は、
「第二校舎ってどこだかわかりますか?」
 と、尋ねてきた。
 男の人に初めて抱くほのかな感覚が、一気に現実へ引き戻される。
「あ、あそこに図書館があって、その隣が第二校舎です。ちょうど人集りができている辺りです」
 あわてて答えた。
 男性は、ふうっ、と一息つくと、
「あそこか、良かった。間に合った」
 独り言をつぶやいて安堵している。私は、キラキラしているその瞳にまた夢中になった。遠く(たぶん第二校舎のあたり)に視線を送っていた彼が、急に私をみつめて、
「君、一年生?」
「は、はい……」
「名前は?」
「八木《やぎ》 ゆず葉です」
「そっか。ハンカチありがとう」
 そう言って、持っているハンカチを自分の顔のあたりまで持ってきて「これ」と示しているようだった。
「授業がんばってね」
 最後にやさしそうな笑みを浮かべてくれたのが、まるでスローモーションにみえた。投げかけてくれる視線が、永遠につづいてくれれば……そう思えた。
 彼はサングラスをかけ、キャップをがぶり直し、ハンカチを握ったまま走り出してしまう。向かう先は、人集りのある第二校舎にちがいない。あの人がそばにいた間だけ、涼しい風が吹いていたのかもしれない。
 一人残された途端に、胸の内が熱く鼓動している氣がした。
 まだ木陰の道は、長く長く続いている。