死ぬこと以外かすり傷で生きてきた結果

死ぬこと以外かすり傷で生きてきた結果

夜中にポロポロと思うことやもやもや〜としたことをただただ書き出すだけのおはなし

「病み期」

「ネガティブモード」

「メンブレ」

「メンヘラ」


いろいろな言い方をするその現象は

突如として生活に入り込んでいる。

特に人科メスの人間は

周期的にやってくるあの期間には

起こりやすい現象だと思う。


それを乗り越えられるように

様々な努力があり、様々な工夫がある。


ただ、その時期に

どんな努力をしたって、どんな工夫をしたって

悪いことが最後にはついてきて元通りになる。

その努力した自分さえ、なんで無駄なことをしてしまったのかと

さらに沈むことだってある。


その時期が終わるのは

ほんの些細で単純なことが多いのにも関わらず。


なぜあんなに自分が悩んでいたのかわからなくなるほどに

あっけなく終わるような気がする。



あっけなく終わることがわかっているのに

またその時期はやってきて

早く終わることを今か今かと苦しみもがきながら待つのだ。


それはどんなに周りに人がいても

孤独感が拭えなくて、

どんなに明るい時間だったとしても

暗く前が見えない

どんなに優しい人がいても

素直には受け取れない

これらの全てが自分の望んだことではないからこそ

さらに沈んでいってしまう。




これはもうどうしようもないことなのだ。




どうしようもないことは頭ではわかっていても、、、という状態の中、どうしたら良いのかさらにわからなくなる。

このループから抜け出すことはきっとできないのだろう。


人間は結局1人で生きていくしかないのだ。


生きる上で必要なものは自分の意思が関わってくるのだから。



ただ少し一緒に生きたいと思える存在に

出会えることが人間には必要なのだ。


孤独感を少しでも拭うために。


そんな光に出会えように生きていかなければならないと私は思う。





喜怒哀楽の感情の中でエネルギーを1番使うのは

"怒"って感情らしい。


"怒"って感情が出ると

体が熱くなったり、顔が赤くなったり

何かを強くぶつけたりってするから

1番疲れると大学の講義で教えてもらった。


疲れる分持続することも難しいから

一過性の怒りという言葉ができたほどだ。


感情表現の苦手な人の多くは

怒るのが苦手な人。

さっき言ったみたいにエネルギーを使うから

そこまでエネルギーを使う方法を知らない。


でもそんな人も「怒る」という感情を持っているわけで。

自分でも「怒っている」と認識もする。

ただ、それを外に出すか出さないかの話。



じゃあ、「怒る」感情そのものが出てこない人はどういうことなのだろうか。



例えば

待ち合わせの時間に連絡なしに3時間遅れてきた

だとどうだろう。

ある人は1時間の時点で帰る、とか

連絡してからなしにする、とか

いろいろな行動はあれど「怒る」という感情が芽生えていることに間違いはない。


しかしながら自分は

「楽」という感情に特化しすぎた結果

待ち時間をどう「楽しむ」か、

という感情しか生まれてこない。


毎回遅刻してくる友人だったら

本を持っていく

自分もやらなきゃいけないことを済まして遅れていく

カフェで優雅にティータイムを過ごす

そんな「楽しい」打開策ばかりが浮かんできて

「怒」の感情は湧いてはこない


一見楽観的のような

楽しい人生だと言えるだろうが

実際はそうではない


その結果、「怒らない人」のレッテルが貼られてしまう。


「怒らない」から

何しても良い、まではいかなくとも

“大丈夫でしょ、あの人は怒らないし”

という心の余裕から

ぞんざいな扱いを受けるのである。


そこから「怒」の感情が出てくるのはまだ良い方で、

そこからそれを見ないようにして

自分までもぞんざいに扱いはじめる。


そうするうちに

“自分の感情はどこにあるのだろう”

と思い始めるのだ。

そうやってどんどんわからなくなって

表現できないまま過ごしていく


気づかない人もきっといる

でも気づいている人ももう手遅れ

1つの感情を元に戻すことができるのか、


まだ経験値が足りない。




「後悔」

してしまったことに対して、後から悔やむこと


今でも心残りのあること

「後悔」してしまっていること

0の人は存在しないと思う


どんなに考えて行動しても

自分にとっては後悔なくても

周りの反応や変化で後悔してしまうこと

世の中にはたくさんある


正解なんてどこにもない


じゃあ「後悔なく今を生きる」ことは無理なのだろうか。



父はよくいう言葉がある

「自分は明日死んでもいいように生きている」



そんなこと可能なのだろうか。

やりたいことがたくさんあって

こうすればよかったと思うこともたくさんあって

今日もできなかった、

こんなことしちゃった、

と思わない日はない。




それは「正解」なのかわからずに。




それなら、いっそのこと割り切ってしまう。


やりたいことは

今すぐにやりたいことじゃなかった、

今の自分がやりたいことじゃなかった


できなかったことは

今日がする日じゃなかった


こんなことしちゃったは

しょうがないことだった



そうやって割り切れてしまえば

世界はもっと生きるのが楽で。

そう考えることと

実際にできることはすれ違う。


頭の片隅にでもその考えをおいて

少しでも楽な気持ちを持てたら

いいと思う。



よく議論になるこのテーマ。

究極の二択を考えることが多いのではないだろうか。

 

 

愛し合ってるけどお金のない生活

関係に愛はないけどお金のある生活

 

どちらを取りますか?

 

 

しかしながら、この質問は実はお金か愛情かっていう選択の話でないのだ。

だってどちらも婚姻関係になっていて

どちらも愛情を求めている。

 

結局愛情という言葉の意味が広すぎて

知らないところで勝手に愛情を求めてしまっているということだ。

 

友達という関係も友情という一種の愛情。

 

後者を選んでお金を何に使うのか分からないが、

友達と旅行に行くとか

推しのライブに行くとか

趣味に使うとか

結局一緒に行動する相手がいないと何も始まらない。

 

愛情って言うのは切っても切れない所に存在しているのである。

 

『仕事と私どっちが大事なの』

って言葉もそうだ。

 

生きていくために必要なことと

共に生きていきたい人かどうかを比べるのはなにか論点がずれている。

 

 

人は当たり前に愛情を受け取りすぎていて

それが愛情なのかどうか分からなくなってしまうのだ。

 

だからこそ、お金では何でも買えるって考えに至ってしまうのである。

 

当たり前にそこにあるものじゃないこと

自分の今置かれている状況が愛情に溢れていること

もっと自然に分かるような簡単なことはないのだろうか。

それを探して今日も私は生きている。

 

響きが似ている言葉たちだが、

言葉の使い方的に

“いじめ”は悪いことで

“いじり”は悪いことじゃない

っていうイメージがある。

 

 しかしこれは行われていることは対して差がなくて。

この言葉はいじりでこの言葉はいじめっていう境界がない。

だからとても誤解しやすい行動となる。

 

 


また自身の体験談だが、

高校生の時"いじられる"ことが多かった。

仲のいい友達とふざけ合って

馬鹿にされる対象になることが多い

所謂"いじられ役"というやつだ。

最終的に私のことを馬鹿にして会話が終わることが多く、

突然ふとすごく辛くなった。

"いじり"だと思っていたものもだんだんエスカレートしていき、

ちょっとしたふざけ合いから

ちょっとしたあざや擦り傷が増えていった。

 

それは確かに"いじり"で

お互いが許容していると思っている範囲での

ただのふざけ合いだったはずだったはずなのに、

辛さはどんどん増えていき、

ついには

この人たちと話していると、

「私はまたケガが増えてしまう」

とさえまで思った。

強制的に何かをやらされているとか

一方的に攻撃を受けているわけじゃないのに

"いじられ役"から"いじめられ役"の気持ちになった。

 

これは相手にとって"いじり"の範囲でやっていることが、

自分にとっては"いじめ"の範囲に重なっている部分だったってことだと認識し始めた。

 

最初はお互いに楽しかったはずなのにも関わらず。


 

 

共通認識はずっと一定ではない。

だってお互いの仲は一定ではないから。

一緒に居れば居るほど深まるものであり、

仲が深まったから"いじり"の許容範囲が広がったわけではない。

そこをはき違えないようにしないといけない。

 

 

ちょっとしたいじりだったはずなのに

相手にとっては違った。

"いじめ"のはじまりはそんな簡単に起こるのだ。

 

相手が自分のことをどう思っているのか、

相手がどういう風にコミュニケーションを取るのか、

しっかり理解して信頼関係の上で初めて"いじれる"のだと思う。

 

それを分かっていない相手にやるのは"いじめ"であり、

楽しいものではないはずなのだ。

 

 

心の傷は完治するものじゃない。

だから考えてコミュニケーションを取らなければならない。


考えて答えが出なくても、

考え続けなければならない問題なのだ。