安城市の史跡めぐりでの矢作川下流域の1500年前の歴史探訪も大変興味あるお話を平岩さんよりお聞きして少し勉強したくなりました。今、埋蔵文化財センターでの土器つくり教室のボランテアしていますと古人の生活、文化の面影を知るうえでも興味が深まった気がします。二子古墳を後にして、堀内貝塚、円光寺、菩提寺そして戦国時代に尾張と三河の勢力争いの前線基地としての桜井城址に行きました。この辺りに来ますと大河ドラマの一場面に登場するためか最近では歴史本を片手にした若い女性の姿が多く見られるとのこと。ガイド泣かせとまでは行かないけれど「その年は何年ですか」「分家の誰ですか」といった細かな質問もされるとのことでした。
この時代にはお城と言えば石垣や天守閣と言った造りではなくせいぜい堀をめぐらし土手盛りをしてありその中央に萱葺きの建物があり城主以外の下級武士は土間での寝泊りをし、足軽は屋外に筵をかぶって寝ていたのではないかとの説明がありました。面白いことにドラマではそこまでの時代考証をしていないので「皆さんはそうした所まで注意してみて頂くと面白いのではないでしょうか」とおっしゃっていました。お昼は歴史博物館で昼食をとり、最後のコースである本多忠高碑、安城市場神を見ました。
そして、最後の安祥城址に着きました。この地がいかに激しい攻防戦があったのか思い知らされたのでした。この後は頂いた資料を書き添えておきます。
天文9年(1540)に織田信秀が安祥城を奪い、城代として織田信広(信長の兄)を起きました。しかし、天文18年に今川軍の攻撃によって落城し、信広も捕らえられ、当時織田方の人質になっていた竹千代(徳川家康)との人質交換をへて、今川の将が城を預かることになります。桶狭間の戦いで西三河から今川が撤退すると信長と家康の「清洲同盟」が結ばれました。これにより安祥城は廃城となり、松平、織田、今川の西三河前線基地攻防の地として歴史を閉じました。 この安城の地で300年の徳川幕府の歴史が始まったことを皆様に知って頂きたいと強く思いました。
この時代にはお城と言えば石垣や天守閣と言った造りではなくせいぜい堀をめぐらし土手盛りをしてありその中央に萱葺きの建物があり城主以外の下級武士は土間での寝泊りをし、足軽は屋外に筵をかぶって寝ていたのではないかとの説明がありました。面白いことにドラマではそこまでの時代考証をしていないので「皆さんはそうした所まで注意してみて頂くと面白いのではないでしょうか」とおっしゃっていました。お昼は歴史博物館で昼食をとり、最後のコースである本多忠高碑、安城市場神を見ました。
そして、最後の安祥城址に着きました。この地がいかに激しい攻防戦があったのか思い知らされたのでした。この後は頂いた資料を書き添えておきます。天文9年(1540)に織田信秀が安祥城を奪い、城代として織田信広(信長の兄)を起きました。しかし、天文18年に今川軍の攻撃によって落城し、信広も捕らえられ、当時織田方の人質になっていた竹千代(徳川家康)との人質交換をへて、今川の将が城を預かることになります。桶狭間の戦いで西三河から今川が撤退すると信長と家康の「清洲同盟」が結ばれました。これにより安祥城は廃城となり、松平、織田、今川の西三河前線基地攻防の地として歴史を閉じました。 この安城の地で300年の徳川幕府の歴史が始まったことを皆様に知って頂きたいと強く思いました。