警察病院の裏は、何時もの事ながら閑散としていた。
 一方通行の道路に他の車が通ることは滅多にない。用のある者しか知らないし来ない場所なのだ。ツグオは車から降りると、何時ものように入ろうとするが、カードが戻ってきて、赤い灯が点滅しAIに拒否される。
「長井ハジメという人物は存在しない」と伝えている。
 それが、何を意味しているのか、こんな所に這入っている者の身内なら誰にでも判る。長井ハジメは、既にこの世の人ではない可能性が濃い。素早く言えば亡くなったのだ。最後に会ったのが、およそ2年前、あれから一度も面会していなかった。
 忘れていた訳ではない。K高校の校長に飼われていた間、自由が利かなかった訳でもない。では、何故か。理由は父親に会うのが嫌だったから。
 中学生だった頃のツグオは、父親に会いに行く度に、心の中で何度も叫んでいた、こんな処に来たくない。それが本心だった。
 牢屋のような病院へ近寄るのが、嫌で、嫌で仕方がなかった。
 当時、兄が家に戻らなくなって、たった一人の父親を頼るしかない状況で。だが、あの小太郎という男に一千万貰った途端、ツグオの生活は一変、誰にも頼らなくていいという安堵感、もう亡霊の如く思える気味の悪い父ちゃんに会いに行こうという気持ちは無くなった。家族なのに残酷な息子だとしても、言わなければ誰にもバレやしない。
 汚く臭く醜い物、気持ちが極端に落ち込む事、見たくなかったし関わりたくなかった。
 ツグオは病室の中に幽閉されている父ちゃんを見捨てたのだ。
 しかし、今回ツグオは父ちゃんに会いに来た。矛盾している。
 ツグオは現実を突き付けられた犯罪者のように、蒼白になって膝を崩してうな垂れた。隣に立った田部が前を向いたまま聞いて来た。

「此処は犯罪者だけの病院ですね。誰が入っているんですか。長井さん」
「俺の父ちゃんだよ……もう、死んじまった」
「え、そんな……! 俺が中に行って詳しい事聞いてきます!」
「無駄だよ。とっくに荼毘に付されて無縁仏の墓に納められてるよ」
「長井さん……」
「俺、父ちゃんに報告したい事があったんだ……」

 田部はキラキラするツグオの肩まである黒髪を見下ろしている。
 そのうち、ツグオは小さく震え始め、嗚咽を堪えていたがとうとう泣き出した。
 座り込んでいるツグオは田部の膝を軽く抱いている。
 田部が何度も声を掛けるが、ツグオは泣きじゃくるだけだった。
 うち、田部は妙な気分になっていく。今まで、同性にそんな気持ちを抱いた事など一度もない、説明のつかない感情が湧き、足の先から己の体を突き抜ける想いが込み上げる。田部は座り込んでツグオを強く抱きしめると、その涙で濡れた頬を両手で優しく包んで唇を重ねた。
 その時、ポタリと雨粒が落ち始め、黒雲が辺りを暗くしていく。
 薄目を開いたツグオは、クスリと笑い、田部の強引で力尽くによる攻めに素直に応じる。周りは霧が霞んで、まるで何もかもを排除するかのような雨は大きな粒となり落ち続け、何処から見ても恋人らを全身びしょ濡れにする。それでも、二人は離れなかった。

*〇*〇* 

 午後になって、田部とツグオは映画の製作会社と出演者の記者会見が行われるホテルのロビーに着いた。そこに二人を待っていた蓮が呆れたような顔でツグオに着替えるよう命令する。ツグオは蓮と一緒に一室に入った。
 クローゼットを開くと蓮はツグオに向かって言った。

「この中から洋服を選んで着替えをするんだ」
「このままじゃ駄目なのか」
「そうだ、君はこれから何処かへ遊びにでも行くような恰好をしているぞ。見栄えのいい白いスーツに着替えるんだ」
「……分かった」

 雨に濡れた後、裏町の雑貨屋で仕入れた物で着替えを済ませた田部とツグオだった。その時の店主の驚いた様子が頭に浮かんでツグオは苦笑いする。
 蓮は、壁に背中を付け立ったまま腕組みして、ツグオを見ている。ただ、それだけなのに、憂いを帯びたような、映画のワンシーンのような、そんな雰囲気を醸していた。
 ツグオは、蓮の金色の瞳に呑み込まれそうになるのを避けるように、窓の方を向いて着替えを始める。

「鳥の男……」
「え……!」
「何を驚くんだ。鳥の男は、今回の映画のタイトルだ。君の兄、長井ハヤトを主人公にして脚本を私が書いた。台本は読まなかったのか」
「……興味が湧かなくて」
「今は女子の事で頭がいっぱいか……」
「そうじゃありませんよ。何で、そんな事訊くんですか」
「君の年頃には私も恋をしていたよ。叶わない恋だったけどね」
「相手は……ふ、まさかスミレとかいう女ですか」
「……一途だったな。今も気持ちは変わらない」
「凄い女だな。蓮さんを振るなんて……」
「この世には望んでも叶わない事がある……」

 ツグオがシャツのボタンを留め終えると、いつの間にか蓮が後ろに立っていて、いきなり背中から腕を回してツグオを抱きしめた。それは一瞬の事で、蓮はすぐにツグオを自らの方に向かせると、慣れた手付きで丁寧にネクタイを結んでくれる。
 息がかかるくらいに互いの顔は接近しているのに、マネキンでも相手にしているよう、蓮の心の中は読み取れない。なら、試しに訊いてみる。

「昨夜、華って子が俺と結婚したいって言ったんです。あれって……」
「ははは、華は長井ツグオが気に入ったようだな。だが、君は承諾したそうじゃないか。一目惚れか、しかし、もう逃げられんな。ははは……」
「笑い事じゃないですよ。あの、き、キイノに会わすという条件だった!」
「キイノ……?」

 ツグオは咄嗟に、事実を誤魔化す為にキイノの名前を出した。
 目の前の蓮は急に怒りに満ちた顔をする。

「キイノは駄目だ。諦めろ!」

*〇*〇*