本部にゴキブリが出た日
PMC《ヤタガラス》本部。 午後十一時四十七分。 その日の夜間当直は、驚くほど平和だった。 海外支部からの緊急連絡なし。 要人警護任務の異常報告なし。 監視システム正常。 武器庫異常なし。 侵入者なし。 爆発物なし。 不審車両なし。 世界各地の紛争地帯を渡り歩いてきたヤタガラスの隊員たちにとって、それは珍しいほど静かな夜だった。 だからこそ。 その悲鳴は、本部全体を震撼させた。「ぎゃああああああああああああああああッ!!」 三階食堂。 女性事務員の絶叫。 直後、館内無線が一斉に騒がしくなる。『三階で悲鳴!』『襲撃か!?』『武装人数は!?』『負傷者確認!』『医療班を回せ!』『封鎖班、階段を押さえろ!』 わずか十五秒。 三階食堂前には、防弾ベストを着込み、自動小銃を携行した完全武装の隊員十二名が展開した。 先頭の古参隊員・榊が壁際に身体を寄せる。「内部状況不明。二名一組。突入する」 後方の隊員が頷く。「了解」「三、二、一――」 ドアが勢いよく開く。「ヤタガラスだ! 動くな!!」 銃口が室内を走る。 だが。 そこに敵はいなかった。 食堂中央。 椅子の上に立った事務員の美咲が、青ざめた顔で床を指差しているだけだった。「……どこだ?」 榊が低い声で尋ねる。 美咲は震えながら答えた。「で……出たんです……」「何人だ」「一匹です」「一匹?」「ゴキブリ」 沈黙。 十二名の屈強な男たちが、一斉に床を見る。 その瞬間。 冷蔵庫の下から。 黒い何かが。 カサッ。 と動いた。「うわあああああああッ!!」 榊が飛び退いた。「散開! 散開しろ!!」「速い速い速い!」「右だ!」「いや左!」「飛ぶぞ! 種類によっては飛ぶ!」「飛ぶとか言うな!!」 世界各地で銃弾を浴びながら前進した男たちが、食堂の出口へ殺到した。 数秒後。 室内には美咲だけが残った。「……え?」 廊下では榊たちが息を整えていた。 誰かが言う。「想定外だ」 別の男が深刻な表情で頷く。「近接戦闘における移動速度が異常に高い」「標的が小さすぎる」「遮蔽物を利用している」「しかも夜行性だ」 榊は無線機を握った。「司令室へ。緊急事態発生」『状況を送れ』「三階食堂に敵性生物一体」『敵性……生物?』「コードネームを設定する」 榊は少し考えた。「《ブラック・デビル》」 美咲が廊下から顔を出す。「普通にゴキブリでいいでしょう」「士気に関わる」「既に最低ですよ」 * 午前零時〇五分。 ヤタガラス本部地下作戦会議室。 普段なら海外任務、テロ対策、VIP救出といった案件を扱う部屋である。 巨大スクリーンには現在、三階食堂の見取り図が表示されていた。 赤い円。 表示文字。《対象推定潜伏地点》 冷蔵庫。 その周囲に隊員二十七名。 作戦指揮官の榊がレーザーポインターを握る。「標的は午後十一時四十八分、食堂北側冷蔵庫付近にて確認された」 スクリーンに監視カメラ映像が映る。 黒い点が高速移動する。「ここだ」 映像が止まる。 隊員全員が身を乗り出す。 一人が呟く。「小さいな……」「だから厄介なんだ」 榊は続けた。「体長推定四センチ。色、黒褐色。移動速度、高。飛行能力は現時点で不明」 空気が張り詰める。「飛ぶ可能性があるのか」「情報不足だ」「最悪だな」 通信担当の宮坂がノートPCを操作する。「ネット情報ではクロゴキブリの成虫は飛翔可能との記述があります」「読むな!」「余計な情報を入れるな!」「士気が下がる!」 榊が机を叩いた。「静かにしろ!」 全員が黙る。「重要なのは一つ。奴を本部外へ出すことだ」 若手隊員が手を挙げた。「殺害では?」「……可能なら」「可能なら?」「俺は潰したくない」 小声。「感触が嫌だ」「分かります」「分かる」「俺も嫌だ」 全員が頷いた。 そこへ食堂担当の美咲が腕組みして言う。「スリッパで叩けば終わりじゃないですか」 男たちは一斉に彼女を見る。 その視線には明確な恐怖があった。「君は何を言ってるんだ」 榊が真顔で言った。「敵との距離が近すぎる」「ゴキブリですよ?」「だからだ」「銃持って戦場行く人ですよね?」「戦場では敵がこっちに向かって飛んでこない」「銃弾は飛んできますよ」「論点が違う」 美咲はため息をついた。 榊は作戦図に向き直る。「これより《オペレーション・ブラックアウト》を開始する」「名前だけ格好いい」「第一班。偵察」 三名が立つ。「小型ドローンで冷蔵庫周辺を確認」「了解」「第二班。監視」 四名。「暗視装置、赤外線カメラ、動体センサーを設置」「了解」「第三班。封鎖」 六名。「食堂出入口、換気口、廊下を確保。逃走経路を限定する」「了解」「第四班」 榊が少し間を置く。「殺虫剤」 全員が第四班を見る。 第四班の隊員二名は、防毒マスクを手にしていた。「なぜ防毒マスク?」 美咲が訊く。「念のため」「市販品ですよ?」「安全管理は重要だ」「……もう好きにしてください」 最後に榊は低い声で言った。「接敵した場合、独断で追うな」「了解」「単独行動は禁止」「了解」「そして何より」 全員が息を飲む。「奴を見失うな」 その時。 会議室の扉が開いた。「……何してるの?」 九条ホオズキだった。 寝間着代わりのラフな服装に上着だけ羽織り、髪も少し乱れている。 本部内の騒ぎで起こされたらしい。 ホオズキはスクリーンを見る。 三階食堂見取り図。 部隊編成表。 赤い矢印。 包囲線。 想定逃走経路。《TARGET:BLACK DEVIL》 ホオズキの眉間に皺が寄った。「敵襲?」 榊が立ち上がる。「いえ」「テロ?」「いえ」「不審者?」「違います」「じゃあ何」 榊は真剣な顔で答えた。「ゴキブリです」 五秒。 ホオズキは無言だった。「……寝るわ」「代表!」「自分たちで何とかしなさい」「指揮をお願いします!」「嫌よ」「代表!」「嫌」「士気が!」「ゴキブリ一匹で士気を失うPMCなんて解散しなさい」 ホオズキはそのまま扉を閉めた。 * 午前零時二十二分。 偵察開始。 三階食堂前。 照明は落とされ、暗視装置を装着した隊員たちが並んでいた。 先頭には手のひらサイズの小型偵察ドローン。「ドローン1、離陸」 ヴン。 小さな機体が床すれすれを飛ぶ。 操縦担当がモニターを見る。「冷蔵庫へ接近」「映像は?」「良好」 ドローンが冷蔵庫脇へ進む。 全員がモニターを凝視する。 床。 壁。 コード。 埃。「対象なし」「さらに奥へ」「了解」 機体が低く潜り込む。 静寂。 そして。「あ」 操縦担当が言った。「いた」 全員の顔が引きつる。「どこだ」「冷蔵庫の奥。配線の横」「映せ」 ズーム。 画面中央。 そこに。 いた。 黒い。 艶のある。 例の生物。「確認」「対象確認」「ブラック・デビル確認」「距離約二メートル」「殺虫班、準備!」 殺虫剤を持った二名が前へ。 榊が手を上げる。「待て。焦るな」 その瞬間。 モニター内でゴキブリが動いた。「動いた!」「こちらへ来る!」「ドローン後退!」「後退!」 操縦担当がスティックを倒す。 だがゴキブリは速い。「距離五十センチ!」「四十!」「三十!」「逃げろ!」「ドローンです!」「いいから逃げろ!!」 次の瞬間。 ゴキブリが飛んだ。「飛んだあああああああああ!!」 本部三階に男たちの絶叫が響いた。 操縦担当がパニックになり、ドローンが壁に衝突。 墜落。「ドローン1、ロスト!」「人的被害は!?」「なし!」「対象は!?」「見失いました!」 榊の顔色が変わった。「……何?」 暗視装置の隊員が周囲を見る。「いない」「食堂内にいません!」「廊下は!?」「確認できず!」 榊が無線へ叫ぶ。「全館警戒! 対象が封鎖線を突破した可能性あり!」 館内放送が鳴る。『警戒レベルを引き上げます』 美咲が呆然とする。「本当に館内放送使った……」 * 午前零時四十分。 状況は悪化していた。 ゴキブリは食堂から消失。 ヤタガラス隊員五十名が本部内を捜索。 一階ロビー。 二階事務室。 三階会議室。 四階宿直室。 廊下の隅々に動体センサーが置かれ、暗視ゴーグルを着けた男たちが無言で歩く。「クリア」「こちらもクリア」「給湯室クリア」「トイレ確認」「男子クリア」「女子は?」「俺は入れない」「美咲さん呼べ」「嫌です」 美咲は即答した。「自分たちでやってください」「女性用だぞ」「ゴキブリは性別気にしません」「それもそうだ」 一方。 ホオズキは四階の執務室で仕事をしていた。 寝るのを諦めたらしい。 机の上には書類。 その奥の廊下を、暗視装置をつけた隊員二人が匍匐前進していく。 ホオズキは顔を上げた。「……何してるの?」「床面確認です」「立って見なさい」「死角が」「あなたたち、明日訓練二倍ね」「何故です!?」「暇そうだから」 隊員たちは無言で立ち上がった。 そして、その時。 ホオズキの机の横。 カサ。 音がした。 ホオズキが視線を落とす。 黒い物体。 壁際。 ゴキブリ。「……」 ホオズキは無言。 ゴキブリも停止。 互いに見つめ合う。 数秒後。 ゴキブリが動いた。 ホオズキの足元へ。「…………」 ホオズキが椅子の上に乗った。 静かに。 非常に静かに。 そして内線電話を取る。「榊」『はい、代表』「いたわ」『どこです!?』「私の部屋」 無線の向こうで何かが倒れる音。『全班! 四階へ! 代表執務室! 対象確認!!』「静かに来なさい」 直後。 廊下から数十人分の足音。 ドドドドドドドドドドドド。 ホオズキのこめかみに青筋が浮く。「静かにって言ったでしょうが!!」 扉が開く。「代表、ご無事ですか!」「見れば分かるでしょう」 ホオズキはまだ椅子の上に立っていた。 榊は一瞬だけそれを見る。「……代表も苦手なんですね」「撃つわよ」「失礼しました」 ゴキブリは机の下へ移動。 隊員たちが包囲する。「殺虫班!」「前へ!」 二人が殺虫剤を構える。「射線クリア!」「対象確認!」「噴射!」 シューーーーーッ!! 大量の殺虫剤。 ゴキブリが猛然と走る。「効いてない!」「追え!」「机の裏!」「右へ行った!」「いや左!」「飛ぶぞ!」「飛ぶって言うな!」 ゴキブリが壁を駆け上がる。 一同が後退。 そして。 飛翔。「うわああああああああああ!!」 屈強な男たちが一斉に伏せる。 誰かはホオズキのデスクの下に潜り込んだ。 誰かは書棚の陰に隠れた。 榊はなぜか防弾盾を構えた。 ゴキブリは空中を旋回し―― 床へ落ちた。 動かない。 静寂。「……やったか?」 誰かが言った。 ホオズキが怒鳴る。「それ、絶対言っちゃ駄目なやつでしょう!」 その瞬間。 ゴキブリが動いた。「生きてる!!」 再び大混乱。 ホオズキは額を押さえた。「もういい」 椅子から降りる。「代表!?」 ホオズキは机の横に置かれていたスリッパを手にした。「何を!?」「終わらせるのよ」「危険です!」「どいて」「しかし!」「どきなさい」 隊員たちが道を開ける。 ゴキブリが壁際を走る。 ホオズキが追う。 止まる。 スリッパを振り上げる。 隊員全員が息を飲む。 そして。 バン。 一撃。 終了。 世界が止まったような静けさ。 ホオズキはティッシュを数枚取り、死骸を包み上げた。「……はい」 ごみ箱へ。 終了。 隊員たちは呆然としていた。 誰かが呟く。「……終わった?」「終わったわよ」「本当に?」「確認する?」「いえ」 榊がゆっくり敬礼した。「代表……さすがです」「何が」「単独近接戦闘で対象を制圧」「ゴキブリ叩いただけよ」「我々にはできませんでした」「でしょうね」 ホオズキは部屋を見る。 墜落したドローン。 殺虫剤。 暗視装置。 動体センサー。 防弾盾。 完全武装の隊員三十名。 そして自分の執務室に漂う殺虫剤の匂い。 ホオズキは静かに尋ねた。「今回の作戦に使った装備、総額いくら?」 沈黙。「榊」「……」「いくら?」「概算で」「うん」「二百八十万円ほど」 ホオズキの目が細くなる。「ゴキブリ一匹に?」「……はい」「ドローン壊したわよね?」「はい」「勤務中の隊員五十人動員したわよね?」「はい」「監視システムまで一部切り替えた?」「はい」「で」 ホオズキがごみ箱を指す。「最終的にスリッパ?」「はい」 長い沈黙。「全員」 隊員たちが背筋を伸ばす。「明日の朝六時、グラウンド集合」「……はい」「完全装備」「はい」「二十キロ走」「代表」「何?」「敵性生物との交戦直後ですので、休養を――」「四十キロにする?」「二十キロでお願いします」 * 翌朝。 ヤタガラス本部の掲示板に、新しい文書が貼られていた。《本部害虫対策規定》 一、食堂および給湯室の清掃徹底。 二、生ごみ放置禁止。 三、害虫侵入経路の定期確認。 四、害虫発見時は市販殺虫剤または捕獲器を使用。 五、偵察ドローンの使用禁止。 六、暗視装置の使用禁止。 七、防弾装備の使用禁止。 八、作戦会議の開催禁止。 九、害虫一匹に十名以上の人員を投入しないこと。 十、困った場合は代表を呼ぶ。 その最後の一文だけ、赤ペンで修正されていた。《十、困っても代表を呼ばないこと》 その下にホオズキの署名。 そしてさらに小さな文字で。《十一、ゴキブリを“ブラック・デビル”と呼ぶことを禁止する》 榊が掲示板の前で呟いた。「正式名称、廃止か……」 隣の若手が神妙に頷く。「仕方ありません」「強敵だったな」「はい」 二人はしばらく黙った。 その時。 食堂から美咲の声が聞こえた。「あっ」 二人が振り向く。「どうした?」「いや、何でも――」 カサッ。 榊と若手の顔が固まった。 美咲が冷蔵庫脇を見る。「……もう一匹います」 三秒後。 本部中に非常ベルが鳴り響いた。「全員戦闘配置ィィィィィィ!!」 四階執務室。 コーヒーを飲んでいたホオズキは、天井を見上げた。 非常ベル。 廊下を駆け抜ける数十名の足音。『対象確認! 三階食堂!』『封鎖班、急げ!』『殺虫班どこだ!』『ドローンは禁止されてるぞ!』『じゃあ棒の先にスマホ付けろ!!』 ホオズキは静かにカップを置いた。 そして呟いた。「……解散しようかしら。この会社」 その日。 PMC《ヤタガラス》は、創設以来二度目となる最高警戒態勢へ移行した。 一度目は、大規模武装勢力による本部襲撃。 二度目は。 ゴキブリだった。