MET.ライブ・ビューイング 23ー24年シーズンの最後の演目となりました。
5月にこのグリゴリアンのリサイタルを、A、B プログラムをどちらも聴きに行きました。
実際にMET の歌劇場で《蝶々夫人》を歌ったすぐ後に日本に来てリサイタルをするというスケジュールだったのだと思います。
それで大いに迷った挙句、、Aプログラムのプッチーニプロと、BプログラムのR・シュトラウスプロも両方聴きたいと思ったのです。
この方は、もちろん歌うことはお上手なのですが、もしかすると演技力が桁外れに優れているのではないかと思うのです。
この方の真価は、ステージにあるように思いました。
人形の子どもを相手に突っつきあったり、こんな仕草が自然に出てくる方はちょっと初めてのように思いました。
幕間のインタヴューで、オペラでは自分がその役柄になりきるのだと話していました。様々なオペラの自分の役柄を完全に頭に入れてそれを具現化するとのこと。
ちょっとした動き、表情、そして、あんな仕草がでてくるのですね。
演出家からそういうオファーが出ていたのかもしれませんが、それがごく自然に出てくる方なのです。
この演出自体は、以前拝見していて、私は2回目です。
前回は、文楽の人形をイメージしたのかと思った黒子3人で扱うお子様の人形や、その他の人形2体に目を奪われたり、鮮やかすぎる着物や、日本髪などに気持ちが捕らわれてしまっていたことがよくわかりました。
前回は人形の動きにちょっとびっくりしたように思いましたが、今回は、なんだかもっと近しい気持ちになりました。
何しろ、扱いが上手でいらっしゃる。
物珍しさより、何故子どもを人形にして演技させたのか?
ということに今回考えが至りました。
お子さまが演技することはリアルな人間の段階では、どうしても無理があって限界があるわけです。
大人のように、演出やその状況に沿った演技にはどうしても限界があるのです。
しかし、この《蝶々夫人》で心の機微に触れるポイントを握っているのはこのお子様のように思うのです。
今回、少し距離を保ってこのオペラを眺めてみましたら、日本の伝統に基づいたステージ設定や、衣裳ではなく、象徴的な形で扱っていることに考えが至りました。
まるでちょっとおとぎ話の世界のような。
そういう世界であれば、あんな着物の派手な色合いも、髪型も、魔法のように動く障子も、折り紙のような鳥が飛ぶことも全て一つに集約されているのです。(まるで神主さんのような女衒のゴロウも………)
蝶々さんのまるで東南アジアのフォルムの洋服もなるほどね……と思うのです。
着物は実は裾がすぼまって着こなすところに美しさがあるのですが、外国の方が着物を着ると裾が広がってしまって、仕草も歩き方も座り方も、違和感になってしまうのです。
スズキさんが、いつも座るときに裾を重ねようという仕草をなさるのですが、それが本当に大変そうでした。(体格もあるのだとは思いますが………)
しかし、元々タイトになっているスカートならば、裾が拡がってしまうことはないので、姿形が着物の楚々とした形になるのです。
何故あんな形の洋服にしたのかと前回は疑問だったのですが(ベトナムか、タイのお話に見えてしまって……)今回2度目にして初めてわかりました。あの洋服の立ち姿の方が美しく見え、演技者の歌手の方も楽なのではないかって………
外国の方がイメージした、その頃の日本は、「不思議の国のアリス」のようにトランプの兵隊だったり、様々な動物が信じられない形で、話をしたり………というファンタジーの世界だったのだと言っているようでした。
ヤマドリさんのあのいでたちで、生活することはほぼできません。
きっと、考え方は「不思議の国日本」だったのですよね。
それが徹底していて、変にリアルなものを持ち込まないので、この演出として納得いくものだったのかもしれません。
日本というリアルな国ではなく、リアルな世界は、ピンカートン、シュアープレス、ピンカートンの奥様なのです。衣裳でそれがよくわかりました。
演出のミンゲラさんが、「見ている方を大いに泣かせたいと言っていた」と衣裳デザイナーの方が言っていました。(中国の方でした)この方は今回も号泣したと言っていました。
今回、私自身ファンタジーな世界と思いつつ、グリゴリアンや、テテルマンの熱演に目尻に涙が滲んだのですから。