昨日何気なく出てきた本がありました。
出てきたと言ってもこれは私が購入して、少し読み始め、そのまま途中になってしまった本だったのだと思います。
それにしてもその存在ををすっかり忘れていたように思います。
中をちょっと読んで見ると、なるほどこういう内容のものをちょっと読んだことがあるなあと思い至りました。
しおりが挟まっていたページは村上春樹さんの、「翻訳することと、翻訳されること」という文章のページでした。
(自分の過去の作品を読み直すことはないそうなのですが、「翻訳された」過去の自分の作品だけはお読みになるそうなのです)
〜自分の作り出した文章世界が他の言語システムに入れ替えられることによって、僕は僕自身との間に一つ乖離を作ることができたような気がして、それで結構ホッとするのだ。〜
という文章のところでしょうか………
シリーズ文化交流 という名前で出版された6冊の本の5冊目で、2000年の4月に出版された本でした。
もともと国際交流基金が編集し刊行していた機関紙の特集記事を、その原稿のまま書籍として再編集したものとのこと。
何しろそんな出版されて20年以上経っている本が何故、気になったかというと、そのしおりが挟まっていた村上さんの記事と、先日、和歌や、俳句、近代詩に曲をつけた歌のコンサートで、その短い和歌や俳句は、歌として音楽として成り立っていくのか………と感じたことが、チョット頭に残っていたのかもしれません。
その本の中に、
「俳句は英訳できるのか」ー俳句という営みの本当の意味を考えるためにー
という上田真 スタンフォード大学アジア学部教授の方が書いていらっしゃる文章が目に止まったからなのです。(その当時の紹介ですから、20年以上経った今はわかりません)
その中に、詩人 萩原朔太郎の書いた「俳句は翻訳できない」と題したエッセイの一節が載っていました。
〜季語を生命とする俳句の情感は、日本の伝統的な季節感に深く根付いているから、風土の全く異なった土地で生まれ育った欧米人には欧米人には理解が困難であろうことは、容易に想像できる〜
しかし、現実は俳句の英訳は実に多く出版され、またよく読まれている とのこと………
英訳の量からいうと、俳句は日本文学のジャンルの中でも最もポピュラーだと言えるのではないかとのこと。
いくつかの教科書会社から転載許可を求められたり、自分の写真集に使いたいとか、音楽にしたいから許可がほしいという手紙もきたそうです。
しかし、次の項に、「英訳できない俳句」とのものがありました。
全く英訳されていない俳句のことについてに触れているのです。
「日本語で書かれたものを翻訳する技術の大半は、何が翻訳できないかを知ることにある」とドナルド・キーン氏が語った言葉が載っているのです。
その言葉に、NHK+で拝見した、指揮者 小澤征爾さんの追悼の番組の言葉が重なります。
「西洋音楽が根ざさない、アジアの国の自分がどこまでその西洋音楽を理解することができるか、死ぬまで実験を続けているのです」
表面だけでなく、音楽の深いところにあるものは通じあえるものがあるのではないかと、自分は思っているけれども……
と語っていました。
楽譜を読むということの一つの方法に関して、やり方に関しての言葉がなんともいえず、何気ない言葉なのですが、胸に沁みました。
作曲家の意図を読み取るその方法について。
もちろん指揮者は、オーケストラで演奏されるものを振るわけですから、規模も大きいし楽器のパートもたくさんあります。
しかし楽譜を読むという点に関しては、全ての音楽にも及びます。「歌」の場合ももちろん同じです。
歌詞、リズム、音型、和音など様々な要素をどう考えていくか、そしてどうやって歌って行ったら良いか。
うーん、ドナルド・キーンさんの言葉が改めて浮かびます。全てのことを翻訳することはできないのだ、まずそのできないものがなんなのかということを、知ることが肝心なのだ……という風に聞こえます。
表面的には理解できないことがいっぱいあるのだけれども、最も深いところでは理解できることがあるのではないか ということを、生涯を通して実験し続けた小澤征爾さん。
昨日は、何か心に残る言葉がいっぱい私に語りかけてきた日でした。