アイーダの初日と重なってしまって迷った公演でした。
このコンサートはこの日しかありませんし、今までのでターフェルさんは、文化会館の小ホールの歌曲のコンサートでした。
今回はオペラでは《トスカ》のスカルピオも歌われることになっています。
本日は《ニュルンベルクのマイスタージンガー》が上演されるですが、ワグナーには出演されないのですね………
しかし今までの春祭でもピアノ伴奏でさまざまな軽妙、洒脱な歌を歌われたりしていたので、この方の歌われる能力はどこまであるのだろうと思っていました。
今回はフルオーケストラの伴奏で、しかも同じステージの上で歌う方はお一人だけで完全にその歌の世界を作ってしまわれるのです。
この日の曲目は前半がワーグナーで、後半は《オテロ》のイアーゴのアリアという、彼のバスバリトンの声を堪能させていただけそうなプログラムでしたし、それこそイアーゴのアリアを悪魔的に歌われたすぐ後に、舞台の端にスタンバイしていたピアノに向かって、自分で合図を送り、いとも簡単に次の曲を初めてしまうのです。
それからあとはミュージカルナンバーが続きました。
それをまたいとも自然に、すっと歌われるのです。
それぞれの曲の特徴を捉えて、もちろん歌い分けるのです。
これがまた、何気なく自然にその曲の人物になりきるわけです。
このプログラムの中でかなりズシンと胸に来たのは、前半最後の曲目 ヴォータンの別れ〈さらば、勇敢で気高いわが子よ〜魔の炎〉だったように思います。
彼の本気のワーグナーを聴いたという感じでしょうか。
歌いながら、ゆっくり動くだけなのですが、もうそれはヴォータンが悲しみ、悩みながらも、愛する娘を岩山に眠らせ、その周りをローゲに言いつけて炎で囲ませて守るという場面です。
その圧巻の歌声を、ただただ聴いているだけなのですが、その音楽とともにその場面が浮かび上がるのです。もう完全に父親の悲しみが伝わってくるのです。
近頃ワーグナーの《リング》から離れているせいか、彼の歌が凄いのか、
何か涙が出てきそうでした。
彼のゆっくりした動きは、ちゃんと計算されていて、このフレーズでここまでいく。
この部分で立ち止まって、一度振り返る。そして曲の終わる前に舞台の袖に入る。
こういう動きがぴったりとしていて、もうピチッとしたタイミングな訳です。
これは自分で長年の間に積み重ねられた経験というものの重みなのでしょう。
何気ない動きのようですが、すごい………
この何気なさが身体から自然に溢れてくることが素晴らしいのです。
後半のヴェルディの《オテロ》から音楽劇《三文オペラ》に変わる時の鮮やかさは彼独自のものでしょう。
ボイトの《メフィストフェレ》の〈私は悪魔の精〉の中で、(別名口笛のカンツォーネ?)指笛を鳴らす時には鋭い音を会場中を響かせて、その音で包んでしまうのです。
こんなことが自在にできる人は他にいないのではないでしょうか。
彼の姿を見ていると、なぜかわからないのですが、ウェールズの血というものを感じるのです。
ウェールズ出身で、今は亡くなってしまった友人のことを思い出すのです。
彼がアンコールの一曲目に歌ったウェールズを懐かしむ歌は、字幕でちゃんと出てきましたので予定されていたものなのだと思いますが、最後はウェールズで眠りにつきたいという歌詞でした。
その歌を聴きながら、彼女に連れて行ってもらった山や川などの風景が浮かび、なんだか目がうるんできてしまいました。
一流の歌手の重みをズシンと感じたコンサートでした。
【プログラム】
《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕への前奏曲
《ニュルンベルクのマイスタージンガー》〈リラの花がなんとやわらかく、また強く〉
《タンホイザー》〈おおやさしきわが夕星よ〉
《ローエングリン》第3幕への前奏曲
《ワルキューレ》ヴォータンの別れ〈さらば勇敢で気高いわが子よ〉〜〈魔の炎〉
休憩
《マクベス》序曲
《オテロ》〈行け!お前の目的はもうわかっている〉
《三文オペラ》〈メッキー・メッサーのモリタート〉
《メフィストフェレ》〈私は悪魔の精〉
《キャンディード》序曲
《南太平洋》〈魅惑の宵〉
《キャメロット》〈女性の扱い方〉
《屋根の上のバイオリン弾き》〈もしも金持ちだったなら〉
もしかしたら一階のど真ん中に、本日の指揮者ヤノフスキさんらしき方が 休憩前までいらしていたような気が………よくわかりませんが………
昨日は、東京交響楽団 沼尻竜典 指揮でした。
本日は、NHK交響楽団 マレク・ヤノフスキ 指揮です。
うーん、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》聴き比べになってしまいました。