今さらながらですが、本当に変わった音楽でした。

とらえどころなく、ふわふわしていて、流れていく、切れ目がない音楽。

一度、演奏会形式といいますが、セミステージ形式で、人形が役を演ずるという形で見たことがありました。

また、その時とは心に残るものがずいぶん違ったように思いました。

 

以下ネタバレのような内容を含みます。

まだ3回公演がありますので、お気をつけて……

しかし私もゲネプロレポートという文章を読んでいったのですが、あまり印象には影響はなかったように思います。

わかりにくい部分が、かえって理解できたところがあったかもしれません。

 

今回は全て人間が演じるのですが、メリザンドの場合は。彼女の「たましい役」(と言って良いのでしょうか)が出てくるのです。

最初は彼女が本当に考えていることとか、やりたいことを代わりにやっていたように思いますが、臨終の場面では、実態のない「たましい役」の方がベッドに横たわり、他の方に見守られているのです。そして歌手が演じている実態の方が見えないたましいの役になっているのです。

ちょっと最初それがわかりづらいかったのですが、いつの間にかそれに順応していっているのです。

不思議なことですが………

その最後の場面には、ゴローに殺されてしまったはずのペレアスも「たましい」となって浮遊(ステージに出ている)しているのです。

この、浮遊している時の歩き方も、今のこの場面は実態のある部分か、ない部分かの区別をつけているようにも思うのですが、良く分かりません。

 

そしてステージが分割されているのも、この切れ目のない音楽の進行を妨げないように工夫されているように思いましたが、なんだかその分割された構成を見ていましたら、4コマ漫画の枠に見えてくるから不思議です。

場面が展開して、ストーリーが運ばれていくのです。その進行に従って半分幕で見えなくなったりするのです。

 

結構そんな場面転換や、複数の人間が同じステージ上でまるで関係ないと思われる動きをしていて、それがなんらか繋がっていくというこのステージを楽しむことができたように思います。

 

ペレアスとメリザンドの関係はどうであったのか、結局曖昧で最後までよくわからないままメリザンドが死んでしまうことになっていたと思うのですが、今回の演出では、もう下着姿のお二人に漂う雰囲気はもうゴローが考えていたようなものだったのであろうと思われるのです。

 

ゴローが一番訊きたかったこと………生まれた娘は、だれの子どもであるのか?

他にある演出よりももっと直接的に分かりやすく語っているようにも思えるのですが。

 

しかし、考えていたほど、一昨日見たMETの《ランメルモールのルチア》のような生々しさがなくて良かった………

もともとのお話が、よくわからない場所、よくわからない事情、曖昧な感じの音楽だからでしょうか?

 

生々しい感じというよりは、ぼんやりした照明の中で、どうなっているの?と考えているような印象を持ちました。

 

この茫洋とした流れの中に浸ることができたように思います。

 

このステージの演出のケイティ・ミッチェルさんへのインタビューがプログラムに載っていますが、そのインタビューのタイトルが「メリザンドが見た夢の世界」なのです。

メーテルリンクの原作を、ドビュッシーが解釈して音楽をつけて、この方が新しい解釈を付け加えてステージに したという過程がよくわかりました。

 

今回の新しい解釈にはあまり抵抗感がなかったのは、やはりこの音楽がもともと持っている浮遊感があるからでしょうか。

はたまた、一昨日に見たライブビューイングと知らず知らず比べてしまうからでしょうか。