5月の歌曲研究会の例会が緊急事態宣言が出て、延期になりました。
その延期になった例会が、来週です。
伴奏法がテーマの講座なのですが、今度の7月のコンサートの出場者の中から希望を募って受講者を決めました。(6月の例会はこのコンサートのリハーサル。7月の例会はこのコンサートの本番なのです。このコンサート関係で、研究会の例会3回分が関わってくるわけです)
5月例会は、連休の終わった辺りに設定されていたのですが、1ヶ月延期になりましたので、またそれからも少しずつ、できなかったことを積み重ねてはきました。
もう少しで、掴めそうな技術的なものはあるのですが、「こうかな?」と思うと、するっと抜けてしまって、もどかしいかぎりです。
自分の練習の時に「こうやってごらんなさい」と言われたことをやってみるのですが、そこで歌えたものが、レッスンでは再現できなかったり、それは違うと言われたりの繰り返しです。
「毎日、毎日、自分でこうやったらこうできる」ということが自分で納得できるまでやってみてはいるのです。
それが定着できるまでは物凄い時間がかかるわけです。
何故なら、それとは違う歌い方を何十年もしてきているからです………
教えていただいて、直ぐにできるものでは無いのです。
私の場合、自分がそれまで信じて歌ってきたことと、今とかなりの隔たりがあるのですから……
ぼんやりしていると自分が心地よいと思う方向へいつのまにか変化していってしまうのです。
しかし、以前の自分と今の自分と決定的に違うのは、「そんなこと言っても、直ぐにはできないとか、今の私にはできません 」とか言っても、努力する方向が見えているということでしょうか。
今の自分にはできないけれども、こちらの方向でこうやっていけば、できるだろうという予測がたつのです。
どちらを向けば良いか、という方向がわかっているということは、どちらを向けば良いのか皆目見当がつかなくなっていた時と比べて、より具体的ですし、そこに到達できる可能性を秘めているわけですから、ありがたいことなのだと思います。
それに大きいことは、実はお弟子先生は年齢的に、私と変わらないということなのです。
見本として出される声に近づきたいと思うのですが、それができない自分に年齢的なことで、言い訳ができないわけです。
「もう若くないので、できないのだ」という言い訳はできないのです。
「ひたすら自分が言われたようにやっていないだけなのだ」
「自分のやり方が、どこか間違っているのだ」
いくらやってもできないのだという時には、何か自分に言い訳をしたくなるのですが、もうひたすら自分ができないことに対して、毎日毎回取り組むしかないのです。
実は昨日、例会前の最後のレッスンでしたので、こってりと絞られました。
「自分としては、かなりなヒントを挙げているのに、あなたが自分でそれを取り入れていけない、いかない、ことができない原因ですよ」
とおっしゃって、かなりしつこく、できるまでやるというレッスンでした。
2時間半は、レッスンしていたでしょうか。
途中、お話も交えてはいましたが、膝をはじめ、精神的にもかなり疲れました。
そこまで徹底して、ダメ出しがくると、落ち込む反面、「こうやれば本当に良くなるのですね?」という居直りにも似た気持ちになってくるのです。
もう、一種の戦いの様相を呈してくるのです。
自分がこういう風に歌いたいという、曲想がどうのということを忘れて、ひたすらその示された方法をやってみるのです。
そうやって実際にこれかなというところで歌えるまで、徹底してやり直しをするわけです。まさに執念と言った言葉が、ぴったりの光景でした。
そのうちどれだけを、人の前で歌う時に使うことができるのでしょうか。
もうあとは運動と同じで、また毎日それが再現できるように練習するしかありません。
一週間後の例会の様子は、会員に映像配信されますので、自分でも自分の振り返りができるように思います。
掴めそうで、掴めないものがいつ掴めるようになるのか、まだまだわかりませんが………