篠田 桃紅 展

 

〜篠田桃紅は、文字の形にとらわれない水墨抽象画という独自のスタイルを確立し、現在まで常に新しい表現に挑戦し続けてきました。

自然や時代の変化の中に漂いうつろう「とどめ得ぬもの」に寄り添い、そこに見出した一筋の「墨いろ」の線は、無限の広がりを感じさせるリズムを奏でます。〜   

                                                                                      

とのこと………

 

この展覧会がこちらで開かれることを知った頃に、彼女の訃報を聞いたように思いました。

「あれ?今度展覧会が開かれる方だよね……」

彼女の作品や生き方に興味は持っていましたが、あまり積極的に知ろうとはしていなかったように思います。

100歳を過ぎても現役でいられるということは、すごいと思いつつ、新刊のお知らせなどで見かける彼女の写真が美しすぎて、何か人工的な作為を感じていたのかもしれません。

 

そこでこの機会に彼女の作品を見ておきたいと思ったのです。

 

1913年、中国の大連生まれで本名は満州子。

またそのものズバリというお名前をつけたものです。

お父様の影響で「書」を始められたそうです。「桃紅」という雅号をつけられたのもお父上であったとか。

 

この展覧会の最初にこんな文章がありました。

〜「鑑賞者の想像を狭める」という桃紅先生のお考えにより、作品名や、制作年などの情報は設置しておりません。

桃紅作品には、墨で書かれた文字も多数ありますが、その文字が読める人は無意識に「何と書いてあるか」を読んでしまいます。そしてその情報による先入観が生じてしまいます。

「何が書いてあるか」よりも「描かれた線の美しさ」をご覧いただき、みなさまおひとりおひとりの眼と心で作品を自由に想像し、ご鑑賞ください〜

 

とのこと。

 

最初に作品解説と作品リストとを渡され、作品には番号しか書かれていないのです。

 

そこで、今回はそれらを読まずに、「線の美しさ」「墨の色の深さ」「偶然が織りなす世界」というふうにあげられていた視点に従って作品を拝見することにしました。

 

題名から想起するものもなく、ただひたすら作品を見る、感じるという世界です。

 

そして、その線の潔さ、迷わずに引かれた、描かれた、迷いのなさのようなものに思いが至りました。何か突き詰めたこれという線。

線を描く、その時までは自分の中で推敲なさるのだとは思うのですが、描くときは一気に書かれたと思われる線。

 

後年挑戦したリトグラフに、自分で最後に書き足されるそうで、その描き加える絵は同じものでも、少しずつ描き加えられたものの違いが分かるように、並べて展示してありました。

 

その描き加えられた線がその作品にとって、必要なものなのです。

当然一枚一枚違った作品になります。

 

彼女の制作している写真を連続して写している映像があったのですが、その流れの中で当たり前ですが、同じアトリエの場所で、彼女だけが年をとっていくのです。

まだ若くて生き生きした表情の写真が、段々と同じ場所で制作していく彼女が年をとっていくのです。深い表情になっていくのです。

 

天晴れな人生だったのだなあと思います。

 

〜歳を取ると体の対応が鈍る。精神的な対応は深くなる。〜

 

1913年、ストラビンスキーの〈春の祭典〉の初演された年に生まれて、今年逝った107年間。

「これでおしまい」という本を思わず買って、読んでみました。

なんだかこの方の歩んだ人生を見ていく展覧会のようでもありました。