初日のこの日がなんと、3・11の日であるということは気がついておりましたが、2:46を国立劇場へ行く電車の中で迎えました。

そっと心の中で手を合わせておりました。

 

午後早めに出なくてはならなかったので、もう一月の段階で、この3・11は1日お休みを頂こうと思っておりました。

そのために、卒業式の歌の練習が最初からこの日はどうかと言われていたのですが、早めに初めて、後は通し練習で補う形に計画を変更していただいていたのです。

 

私にとってなぜかこの演目は特別なものなのです。

 

ワグナーの作品の中で《リング》は特別なものなのです。

考えてみると、彼の作品の中で一番聴いいている回数が多いのはこれなのです。

《タンホイザー》よりも《ローエングリン》よりも《さまよえるオランダ人》よりも《トリスタンとイゾルデ》よりも、考えてみると多いと思うのです。

 

この滔々と流れる音楽の中に身を置くことが何よりも贅沢だと感じるのです。

その長ーい時間の流れの中に身を置くことの「これでもか」という駄目押しのような感じというものが特別なのでしょうね………

 

16:30に始まって、21:45ぐらいまで休憩ももちろん含まれますが、これを聴き通すことは気力と体力がいる問題です。

できればこの1日は聴くことに専念したいと考えたからです。

 

そうやって身構えていて丁度良い重さなのです。

そうやって聴く方も準備をしていたこの演目ですが、最後までキャストが決まらず、ちょっと心配なことでした。

で、とうとうジークムントを2人で分け合うという結果となったからです。

まあこのことを別にすれば、見終わって、聴き終わって残った印象は「1日をかけて聴いて良かった」というものでした。

女声の、ジークリンデとブリュンヒルデの活躍がかなり大きく、フリッカの藤村さんはもちろんのこと小林さん、池田さんのこの3人の力とヴォータンのミヒャエル・クプファー=ラデツキーの力が本当に良いバランスを保っていて、満足度が高かったのだと思います。

 

座席も今回はいつもより一つ低い階で、2Lでした。

大野さんの指揮ぶりやオーケストラの演奏ぶりもよく見え、しかもいつもより舞台に近い位置でしたので、それもあったのかもしれません。

この《ワルキューレ》がどうなってしまうのかと正直、実はあまり期待できないという気持ちが強かったのです。

 

心配の最も強かったもの……それは2人のジークムントでしょうか……

 

この作品の1番最初に歌うのはジークムントです。

しかし、今回嵐の中に聴こえてきた声は、プロンプターの方の子音のよく効いた声だったのです。あれ?と思った後にジークムントの声が……

特にLの側によく聴こえたのでしょうか。

その後も、まず影の声が聞こえてから歌手の声というタイミングがよーく聞こえておりました。溢れるようなドイツ語。キャスト変更 などなど、大変な要素がたくさんあったからなのだと思いますが、最初この影の声が先導していく形が最初かなり気になってしまいました。

 

私は小林さんを生でお聴きするのは、初めてのように思います。

今まで、ダブルキャストのところで、別な日であったりしていたのだとお思います。

この方のジークリンデは素晴らしかったと思います。

自然に流れる豊かな声が、この方のお声であったのと、シャープな音楽の流れで、一幕目が展開されていたように思いました。

 

なぜ、ジークムントがギリギリまで決まらなかったのか。

なぜ、2人で幕ごとに歌い分けることになったのか……

 

いろいろなご事情があるのだと思うのですが、やはり一幕めのジークムントはお声がジークムントのお声ではないように思うのです。声だけ聴いているとイタリアオペラのように思えてしまうのです。声の質からいいましたら2幕めの方の方がジークムント的のように思いますが、1幕めのヘルデンテノール的なお声が出にくいとかとのご事情があるのでしょうか?

きっとこの幕ごとに歌い分けるというご事情の裏には、何事かあるのかとは思いますが、やはり気持ちとしてはお一人の方が歌い通していただきたかったように思うのです。

女声の方々の歌唱力、演技力は心を打つものがありました。

ブリュンヒルデの池田さんもなぜか巡り合わせで、初めてお聴きする形だったのだと思います。

出だしこそ高音の部分で力が入っているのかなという部分がありましたが、この方のブリュンヒルデであったればこそ、あのヴォータンと渡り合い、最後の幕の高まりがあったのだと思います。

 

そして藤村さんのフリッカが出てきた時、「ジークムントとヴォータンと何故、どこが違うのか……」などと考え始めていた時だったのです。日本人の歌手との違いは、もしかすると中音域か……などと考えていた時、彼女の声が聴こえてきたわけで、彼女の低い音域から高い音域までの音質の揃った声の響きを聴いて、ああだからこの方は「世界」という舞台へ行くことができたのだなあと感じたのです。

その後は、この役柄や、話の展開に集中できたのですから……

 

声の出し方やその他に気がとられるということは、その作品に集中できない要素がある時なのだと、近頃とても強く感じることなのです。

 

今回、後半になるにしたがって集中力が増していったことは確かです。

やはりヴォータンの力が大きいかな……

語っていても、立っていても、悲しさが溢れる最後の幕は、女声陣とヴォータンの拮抗した力の均衡が保たれていたように感じたのです。

 

日本人女声歌手の力がここまできているのですね。