かなり前から、場所はあったが、まともな日記は初めてです。
せっかくなので、書きます。
1・17は父親の誕生日でもある。
だが、阪神淡路大震災が起きた日でもある。
前日にはウォシュレットを購入し、自分で取り付け、明日から使おうとして寝た。
ところが、突然ドンッ!とする揺れで、目が覚めた。「えっ??」とおもったら、おもいっきり家の中がユサッ、ユサッと大きく揺れた。
いつも電気をつけて寝ているので、その大きな揺れを間近に見てびっくりした。
古い家なので、うちだけだろうと思ったら、町中たいへんな事になっていた。
住んでいた家は全壊だった。僕以外は泊まりで出かけていて、一人で寝ていた。
いつも寝ている位置には当時としてはかなり重い32型のテレビがゴロンと転がっていた。
いつもの場所で寝ていたら、大怪我もしくは死んでいたかもしれない。
その日に限ってそこでは寝ていなかった。
なぜか天井からは水が大量に落ちてきた。
照明の根元からモワーッ煙が出たので、急いでブレーカーを落とした。
火事も起こすとこだった。
後日、ブレーカーを入れてもまだ煙が出てきたので、また落とす事にした。
もちろん家の中はぐちゃぐちゃになっていた。
その散々たる家の中は、ショックから家に手はつけれず、それよりももっと被害の大きい神戸にバイク隊で救援に走った。
救援をしに行くことにしたのだが、精神的には家の中の散々な様をみるよりも、そこに行くことで逃げていたのかもしれないとも思える。
神戸までの道のりのヒドイ有り様を目の当たりにしながら、数台で走った。
その光景は家の中にいてTVの中の小さい様子を見るのではなく、景色全体が悲惨な様相だった。
そして全国から寄せられる物資の運搬、仕分け、即席お風呂の番をしたり、いろんな活動をしたりして、人の暖かい気持ちをすごく感じた。
父親も会社までの道のりが通れたので、会社から水を大量にもらってきて、近所に配ってたりしていた。
兄弟の中で唯一家族全員の誕生日を覚えているのだが、父親の誕生日だった事はすっかり飛んでしまい、後日そういえばその日はと、思い出した。
その後、仮設住宅に住んでいました。
仮設住宅に入る前は、市からの紹介で一般の有志の方が申し出て頂いた家で、大阪市天王寺区の鶴橋で、安く貸していただきました。場所は住んでた市からは、かなり離れていました。
1月に震災を受けて、6月にやっと2000番台まで周り、順番が来て入ることの出来た公園の中にある仮設住宅でした。
引越しも終えて一時期とはいえ、やっとゆっくり気を落ち着けて家の中に居た時、小学生らしき少年の声が聞こえました。
「あ~あ、前はここでサッカー出来たのになぁ~・・・」
・・・素直な少年の正直な声でした・・・。
事情はわからないとはいえ、やるせない気持ちがしました。
そしてそこは公園の中なので、12世帯しかありませんでした。
そこに住めないと思ったのか、空いているところもあり、寂しいものでした。
そしてだんだん引っ越していくところも出てきて、寂しいものです。
そういえば、今住んでいるところは、地震がおきてから、まさか引っ越してくるとは思いもしなかった。
そして地震後、「あれ?そういえば、何でここに住んでるんだっけ?」何年かは、そういう気持ちは消えなかった・・・。
せっかくなので、書きます。
1・17は父親の誕生日でもある。
だが、阪神淡路大震災が起きた日でもある。
前日にはウォシュレットを購入し、自分で取り付け、明日から使おうとして寝た。
ところが、突然ドンッ!とする揺れで、目が覚めた。「えっ??」とおもったら、おもいっきり家の中がユサッ、ユサッと大きく揺れた。
いつも電気をつけて寝ているので、その大きな揺れを間近に見てびっくりした。
古い家なので、うちだけだろうと思ったら、町中たいへんな事になっていた。
住んでいた家は全壊だった。僕以外は泊まりで出かけていて、一人で寝ていた。
いつも寝ている位置には当時としてはかなり重い32型のテレビがゴロンと転がっていた。
いつもの場所で寝ていたら、大怪我もしくは死んでいたかもしれない。
その日に限ってそこでは寝ていなかった。
なぜか天井からは水が大量に落ちてきた。
照明の根元からモワーッ煙が出たので、急いでブレーカーを落とした。
火事も起こすとこだった。
後日、ブレーカーを入れてもまだ煙が出てきたので、また落とす事にした。
もちろん家の中はぐちゃぐちゃになっていた。
その散々たる家の中は、ショックから家に手はつけれず、それよりももっと被害の大きい神戸にバイク隊で救援に走った。
救援をしに行くことにしたのだが、精神的には家の中の散々な様をみるよりも、そこに行くことで逃げていたのかもしれないとも思える。
神戸までの道のりのヒドイ有り様を目の当たりにしながら、数台で走った。
その光景は家の中にいてTVの中の小さい様子を見るのではなく、景色全体が悲惨な様相だった。
そして全国から寄せられる物資の運搬、仕分け、即席お風呂の番をしたり、いろんな活動をしたりして、人の暖かい気持ちをすごく感じた。
父親も会社までの道のりが通れたので、会社から水を大量にもらってきて、近所に配ってたりしていた。
兄弟の中で唯一家族全員の誕生日を覚えているのだが、父親の誕生日だった事はすっかり飛んでしまい、後日そういえばその日はと、思い出した。
その後、仮設住宅に住んでいました。
仮設住宅に入る前は、市からの紹介で一般の有志の方が申し出て頂いた家で、大阪市天王寺区の鶴橋で、安く貸していただきました。場所は住んでた市からは、かなり離れていました。
1月に震災を受けて、6月にやっと2000番台まで周り、順番が来て入ることの出来た公園の中にある仮設住宅でした。
引越しも終えて一時期とはいえ、やっとゆっくり気を落ち着けて家の中に居た時、小学生らしき少年の声が聞こえました。
「あ~あ、前はここでサッカー出来たのになぁ~・・・」
・・・素直な少年の正直な声でした・・・。
事情はわからないとはいえ、やるせない気持ちがしました。
そしてそこは公園の中なので、12世帯しかありませんでした。
そこに住めないと思ったのか、空いているところもあり、寂しいものでした。
そしてだんだん引っ越していくところも出てきて、寂しいものです。
そういえば、今住んでいるところは、地震がおきてから、まさか引っ越してくるとは思いもしなかった。
そして地震後、「あれ?そういえば、何でここに住んでるんだっけ?」何年かは、そういう気持ちは消えなかった・・・。