上杉謙信の後を継いだ上杉景勝

1578年 謙信が亡くなると上杉景虎と対立する。

 

御館の乱

景勝と後継者は実は決まっていたのだけど、派閥があり、景勝に反対するものが景虎を担いで戦いがおこった。

景勝が勝つ。

血みどろの戦いとなり、多くの同胞や姉を失う。母からも絶縁される。

 

信長との対立

織田勢の柴田勝家に魚津城を総攻撃される。落城した後 春日山城へと来ると思ったが、本能寺の変がおこり、

上杉景勝は免れる。しかし多くの家臣が失われたことになった。それ以来、家臣を守ることを第一にするようになる。

 

秀吉へと臣従

秀吉への接近へ 越後の民と上杉を守るため

戦国という世を終わらせたかった。

 

秀吉から越後から会津へ国替えさせられる。

91万石から120万石へ天下で三番目となる。

秀吉の狙いは、東北や徳川を抑えさえたかった。

 

秀吉が亡くなると、政治力のある五大老でもあった景勝は家康に狙わることになる。

 

景勝は、神指城をつくろうとしていた。経済文化を考えて会津で生き残ろうとしていた。

しかしこのような動きに謀反のきざしとありと、家康に告げ口をするものがいた。

 

すぐに上洛せよと家康から言われる。弁明しなければ会津を滅ぼすと警告する。

 

直江兼続は、返信する。

 すぐには上洛できない。

 理由、告げ口した者への避難

 告げ口の誤りを正すこと

などと書状を出す。

 

家康の理不尽な要求になぜのまないといけないのかと拒否する。

 

家康は会津征伐に向かうことになる。

 

しかし家康のもとに三成ら西軍が挙兵したという知らせが届く。

会津征伐を中止する。しかし景勝にはまだ会津の背後に敵として、最上義光、伊達政宗がいた。

身動きがとれなかった。

 

1600年9月15日

直江兼続は最上を攻撃

山形の長谷堂合戦 関ヶ原と同じタイミング

北の関ヶ原と呼ばれる。

 

関ヶ原では、西軍が1日でやぶれることから、その知らせが届いた9月20日に景勝は

味方がいないことを知る。勝つことがあり得ないことを知る。

戦うことは多くの家臣を失うことになる。

撤退を決意

 

戦うことよりも家臣たちを生かせる道を選んだ。会津120万石から米沢30万石となってしまう。

 

大坂冬の陣では、最後の武将として活躍をみせる。

大坂勢を総崩れにする。

 

初代米沢藩主として生きる。

上杉家は江戸時代も受け継がれ、明治は伯爵上杉として名を残す。

 

この上杉家は、あの赤穂事件にも関係している。これは、私が他の番組で知ったもので

吉良上野介義央の実子が四代米沢藩主の上杉綱憲だった。

 

1702年12月14日 赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日 上杉綱憲は父のために援軍を送ろうとしていた。

しかし幕府老中から出兵差し止め命令を受けることになる。上杉綱憲は援軍を送ることができなかった

という話を聞いた。このことはあまり知られていないらしい。