山本覚馬は、会津藩士で、砲術家。妹は大河ドラマでもやっていた新島八重

鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれた。

 

1862年 京都守護職 松平容保に従い京に上り、黒谷本陣で西洋式軍隊の訓練と、洋学の講義を

おこなう。

 

1864年 長州藩が御所を攻める禁門の変で功績をあげる。しかしこの禁門の変で眼病を患い失明する。

 

1868年 鳥羽伏見の戦いでは、京に残り薩摩藩にとらわれ幽閉される。

会津藩は多くの犠牲者がでる。朝敵とみなされて会津藩は攻撃される。

 

幽閉中に管見という建白書を口述筆記して薩摩藩主に上程 西郷らが敬服する。もともと優秀な人材であったから

粗末に扱われず、待遇がよかったらしい。

 

1870年 京都府から誘いを受ける。

京都は、禁門の変により町中が火災で中心部が焼けてしまった。

天皇が東京に行ったことにより危機に陥っていた。

 

自分が禁門の変に参加したことにより火事をおこしたことで責任をかんじたのではと番組では言っていた。

 

京都再興に力を注ぐことになる。

西洋技術を入れ、西陣織の発展に力を入れる。

ひな祭りの文化がすたれたときに日本人だけに売るのではなくドイツ人に売るなどの考えを提案する。

 

学校教育に力を入れる。女子の教育に特に力を入れる。

初めての女子の公立学校をつくる。裁縫、手芸、英語など

新島八重を呼び出し指導者に抜擢

 

産業振興

石鹸、ガラス

 

京都博覧会で外国人に見せる。外国人を呼ぶこむ。京都の物品を見せることで外国人に売れることを

考える。

 

同志社大学を新島襄とともにつくる。

この地は薩摩藩邸があったところで、幽閉されていたところ。

ここが山本覚馬にとって考える原点になったのではないかといっていた。