大坂天満の生まれ 今川氏の末裔といわれる。大坂東奉行所与力
陽明学者 知行合一という考えがあり、身についた知識は、行動にうつさないと
意味がないという考えがある。
1833年に天保の大飢饉がおこる。東町奉行 跡部良弼が例年以上の米を江戸に送らせる。
跡部良弼は、老中水野忠邦の弟である。
大塩は激怒する。 いわゆる江戸幕府を先にしっかりさせる江戸ファーストか、地元大坂ファーストかの違い。
大塩は、大坂をないがしろにされたことで反乱のきっかけとなる。
庶民をないがしろにする役人に鉄槌をくだす。
不正や汚職のすべてを記した建議書を秘かに江戸の老中らに送る。
大塩平八郎の乱がおこるが、8時間で終わってしまう。
軍事的に負けることはわかっていた。政治的に戦うことを期待して1カ月潜伏していた。
建議書が届けばどうにかなると思うが、潜伏先を突き止められてしまう。
建議書は、大坂町奉行の命令で未開封のまま戻されることとなった。箱根の山中に捨てられてしまう。
その後、発見されて写し出された。
大塩の考えは、「政治は民のためにするもの、役人の目を覚まし、政道を正せねばならぬ。」
であった。
幕閣には建議書は届かなかったが、幕府を震撼させるものだった。
忠臣蔵のように自分たちのことではなく、民衆や学者が立ち上がるというのが幕府にとって恐怖だった。
利他の思いというこの熱い思いが、30年後に幕末の志士たちを動かすことになる。
大坂の町が5分の1焼けたにも関わらず、大塩を悪く言うものはいなかった。