藤原不比等という名はよく聞いていたが何をしていた人が覚えていなかった。

大宝律令をつくった人というのを思い出した。

 

大化の改新の645年以後から平城京遷都の710年くらいだろうか?

 

この時代は百済が滅ぼされて、かなり朝鮮半島も争いの多い時代でいつ日本も攻められるか

不安な時代だった。

 

そんな時、藤原不比等は、独自の律令をつくるという国家の基本法を作ることを目指した。

唐と対峙するためだ。国の基盤をきちんと整備することで対抗するということだろう。

 

律が刑法、令が行政法となる。

 

大宝律令の整備をして古い体制の政治や社会からの脱皮、土地は私有は認めず、耕作地は口分田としてあたえる。

税制、戸籍、地方行政の仕組みを作る。

 

大上天皇と形をつくる。いわゆる前の天皇が今の天皇を補佐するという感じ。

地位は同等らしい。

 

また大宝律令の整備だけでなく、国史の編纂もした。

 

日本書紀には、天照大神は持統天皇をモデルにしてつくられたものといっている。

藤原不比等が主導したものではと番組では言っていた。

 

天孫降臨にも不比等の思いが込められている。持統天皇と孫の文武天皇を重ね合わせている。

 

天照大神は自分の孫を地上に降臨させる。藤原不比等は、文武天皇を意識して血筋がずっと続くように

きわめて政治的意図に基づいて編纂している。

 

701年に文武天皇が崩御され、その子の首皇子が7歳。この時から不比等の目的は首皇子を皇位につける

ことが目的となる。

その間に文武天皇の母が、女帝の元明天皇として即位する。

 

710年 平城京の遷都は元明天皇の時だった。

 

724年 首皇子は、聖武天皇となる。

しかし、不比等はその4年前に亡くなり見届けることができなかった。平城京という最大の舞台を用意していた。

 

太極殿において聖武天皇が即位する。大勢の貴族がひれ伏すというのが藤原不比等が目指したものだった。