BS11での偉人、敗北からの教訓で小早川秀秋をやっていた。

関ヶ原で史上最大の裏切り者といわれるようになったのはなぜか?

 

小早川秀秋は秀吉の養子であった。北政所に育てられた。秀頼が生まれることにより

、立場が変わってしまった。

 

そのため、毛利輝元のおじ 筑前国の小早川隆景の養子になる。

 

小早川隆景の養子になることにより、秀頼の支えとなること期待される。

筑前国は朝鮮出兵の拠点とされ、慶長の役の総大将に任される。

 

関ヶ原では、突如寝返ったように言われていたようだけど、実はそれは現在では

否定されているようだ。

 

この時代は、光成と家康の権力闘争であって、西も東も豊臣家のためという大義名分を持って戦って

いた。秀秋はどちらにつこうか迷っていた。

 

西軍は、毛利輝元が総大将であり、秀秋は、伏見城攻略を任される。本気で伏見城を陥落させてしまった。

 

秀秋は、一通の書状を受け取る。浅野幸長、黒田長政から、北政所には非常に世話になっている。

このまま西軍についたら北政所の身も危ないぞといわれる。実の母親のような存在であり、脅しに近いものだった。

自分が東軍につけば北政所を守れると思った。

 

関ヶ原では、一万5千の兵を持って松尾山に布陣する。

 

秀秋は、迷いがあった。このままはどちらにつくか旗色を示さなくてよいのか?

これが大誤算だった。

 

その迷いのうちに合戦が始まってしまった。その結果すぐに西軍と闘わなくてはいけない状況

になり、追い込まれてしまう。

 

当日に旗色を示さざる得なかったため、急遽、寝返ったようにみえて、これが裏切り者といわれる

理由となってしまった。

 

 

また伏見城の戦いで秀秋が、家康の家臣の鳥居元忠ら多くの家臣が西軍にうたれたため、

秀秋が本気でたたいてしまったため、鳥居らの子孫に大きく反感をかってしまったのも

その理由となっているらしい。

 

私は、小早川秀秋の存在は、どうする家康ではじめて知った。こういう理由があったこと

は全然知らなかった。いい勉強になった。