誰のために | 果しなき流れの果に

果しなき流れの果に

文筆業を生業とする1970年生まれ。好き勝手ばかりしてきた20。人生について考え始めた30代。ここから先、40代は「誰かのために」をキーワードに書き続けます。弱い自分をさらけ出せる事を目標に進化前進。仕事の依頼も随時受け付けます。

福島原発で戦っている人たち。
家族、両親、恋人、みな大切な誰かがいる。
そして何より、自分の事も大切に思っているはず。
でも、彼らはみな、それらを犠牲にして仕事をしている。
いやすでに、仕事ではないのかもしれない。
任務、使命といった気持ちで動いている。
僕自身、あまりこうした事を美化したくない。それは、特攻隊員を美化し「愛する国家、天皇陛下のために死にゆくことが素晴らしい」と煽り、若い命を奪っていった戦時中の風潮のように思えてならないからだ。

ただ、人はやはり「自分のために」ではなく「誰かのために」と生きる事で輝けるし生かされる。それが人としての本質であり、本来あるべき姿だとも思っている。
だからこそ犠牲になってほしくないのだ。誰かのために、無事に戻ってきて欲しい。
死んで、犠牲になって喜ばせるよりも、生きて戻って、五体満足な身体を見せて喜ばせて欲しい。

被災地の最前線で頑張っている自衛隊員、ハイパーレスキュー隊、東京電力の社員の方、命がけで戦っている人たちに、感謝しなければいけない。遠い場所で水や納豆の買いだめに血眼になっている主婦は、自分のこどもの安全のため、と胃袋を満たすことだけを考えるのではなく、こういう時こそ、誰かのために生きる素晴らしさ、そして、みなで苦労を分かち合うことが明るい未来を作り出す事を伝えるべきだ。
別にしばらく納豆が食べられなくても、牛乳が飲めなくても死にはしない。水だって、どうしても心配ならば、水道水を数週間保存しておけば、十分安全なレベルまで落ち着くのだ。そんなに心配なら、お風呂も食器洗いも、フランスから輸入したエビアンでしてください。

奇麗事ばかりはいえないが、奇麗事を出来るところまでまっとうするほうが、最初から諦めている人よりはずっと良い。

人は誰かのために生きてこそ輝ける。

FIN