カイラス・・・チベット語でカン・リンポチェ、サンスクリット語でカイラーサと呼ばれる標高6,656メートルのこの独立峰はヒマラヤ山脈最果ての秘境であると同時に、信仰の山としてチベット仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、ボン教徒が目指す遥かなる巡礼地。宇宙の中心とも神が鎮座する山とも呼ばれるカイラスはインド・チベット文化圏におけるエルサレムでありメッカであった。

 

「カイラスに行きませんか?」と声をかけられたのはチベットの首都ラサにある安宿でのことだった。その声の主、Ryoさん(当時42才)はカイラス行を目的に在住のパリからラサまで来ていたものの、もう一人同行者を募らないと中国公安から入境許可が下りないと言う。

 

 こうして学生の私は彼の誘いに応じ、その巡礼行に参加することにした。私は中国の辺境伝いに多くの山を越えて陸路でラサまで来ていたが、さらに西に向かってカイラスまで片道1,200キロの行程(東京から熊本ほどの距離である)を行けば、夢にまで見たヒマラヤの桃源郷を隈なく見ることができるのだから。

 

 ところが出発間際にトラブルが発生した。私が雲南省の田舎で取得したチベットのヴィザに対して公安から偽造の容疑をかけられ、パスポートを取り上げられたのだ。私は安宿に軟禁状態となった。

 

 私が口角泡を飛ばして反論したのが公安の逆鱗に触れたわけである。私は一行の出発を遅らせてしまったことに身の細る思いだった。しかしすったもんだの挙句、頭を下げて1週間後に解放されると、多国籍の隊員8名はトラックとトヨタのランドクルーザーに乗って出発することができた。標高4,000メートル以上ある高地、舗装された道はなく、断崖絶壁の荒野をトラックの荷台に揺られる日々が続く中、私は世界中を旅したRyoさんから英才教員を受けた。

 

 シュール・レアリスムや陽明学の思想について。ダライ・ラマの輪廻転生秘話やゴーギャンやRolling Stonesの逸話。米西海岸でのヒッピー・ムーブメントやサハラ砂漠で三井物産のプロジェクトに参加していた時のこと。インドのOSHOアシュラムにおけるダイナミック瞑想の何たるか。あるいは男の料理や格闘技の大切さについて。

 

 私は彼の話に圧倒されながら、真の知性とは経験であると生まれて初めて知ると共に、チベットの辺境でカーボーイ・ハットをかぶり、ラルフローレンのシャツを着ている彼の姿を見るにつけても、フランスの詩人ランボーのようだと思った。

 

 もっともその旅は過酷だった。氷点下の高地で熱湯が沸かせず、ぬるま湯の中のカップ麺をガリガリとかじり、寒さに凍えながら岩にしがみついて朝まで待つ。夜中に腹痛を起こして荒野に行けば、人糞でも食いたい野犬の群れに囲まれる。3週間も下着一枚取り替えぬ生活でチベット人のガイドですら精神に支障をきたし、同行の一員をナイフで脅すようにもなった。

 

 だがそんな苦労を忘れさせるヒマラヤの万年雪を抱いた美しい峰々。太陽と月が同時に空に浮かび、標高5,000メートルの岩場にある温泉から虹が立ち上がる。シャンバラと呼ばれる伝説の地下王国はきっとこのような所にあるのだろう。

 

 ようやく辿り着いたカイラスで三日間かけて一周52キロの徒歩巡礼をした。頭上を見上げると一枚岩の絶壁が天を貫き、日没前の残光で第七チャクラの紫色に染まっている。雪の積もる頂上までさほど遠くはないが、信仰の山のためかつて登頂した者はいない。

 

 最終日の夜、5,668メートルの峠の手前にある小屋で巡礼者達が肩を寄せ合い、寒さに耐えながら雑魚寝をしていると、疲弊しきった西洋人の男が倒れ込むように入ってきた。だが彼が身を横たえるスペースはない。

 

 するとラサから何か月もかけて五体投地をしてここまでやって来たチベット人の男がにこにこしながら寝場所を譲り、彼の代わりに野宿するため雪の舞う厳寒の外に出ていった。

 

 そこはかつて日本人で初めてチベット入りした仏僧・河口慧海が「三途の逃れ坂」と呼んだ巡礼路。

 

 私はチベット人の後姿を見つめながら、本当に強い男とは修羅場においてこのような行動がとれる男なのだろうと感じ入った。