小学4年生の時、退屈な日曜日に家でぐずぐずしていると「巨人軍の多摩川グランドに行けば、誰か選手がいるんじゃないの」と母が言った。こうして一人でバスと電車を乗り継いで行くと、本当に背番号7のV9戦士、俊足の柴田勲がいるではないか。

 

 ぼくは大慌てでグランド横のおでん屋で色紙を買うと、練習から引き揚げてくる柴田に近づいた。ジャイアンツのユニホームを着て、赤い手袋をつけた柴田は生まれて初めて出会った有名人。ぼくはそんな柴田がサインをしてくれる間、放心状態だった。

 

 この日からぼくは巨人軍の追っかけを始め、直筆サインをもらうことに執念を燃やすようになる。プロ野球が国民的なスポーツだった時代。王、江川、西本、定岡、中畑、篠塚など、彼らは芸能人のような輝きと人気を誇っていた。

 

 ぼくはサインがもらえそうな所にはどこにでも行った。選手が臨時会合する二子玉川のファミレスを嗅ぎつけたり、後楽園の駐車場に忍びこんだり、正月明けの大雪の降る日、王監督が「今夜、神宮の室内で練習があるんだ」とおでん屋のお婆ちゃんに言うのを耳にすると、そのまま神宮に向って凍えながら何時間も待った。

 

 ぼくは寝ても覚めても巨人のことで頭がいっぱいで、授業中に応援歌をリフレインし、日本一の巨人ファンになるにはどうしたらいいか空想した。そしていつしか何百枚ものサインを収集することに成功し、部屋の天井まで貼りつくしたサイン色紙を眺めて眠りにつくようになった。

 

 しかし、どうしてもサインがもらえない選手が一人だけいた。それは原辰徳だった。

 

 入団当初より原の周囲は常に黒山の人だかり。女性ファンもマスコミも誰もかれもが背番号8を追いかけている。その人気と注目度は当時の王や江川さえも遥かに凌ぐ勢いで、つけ入る隙がなかった。

 

 ぼくは原が住んでいる住所を突き止めたが、月刊ジャイアンツのインタビューで「自宅には来ないでください」と言っていたのでそれもできない。

 

 ある日、ぼくは東京駅の新幹線乗り場で探偵よろしく選手たちが来るのを待っていた。明日から甲子園で阪神戦だからきっと現れるに違いない。こうして何時間も立っていると、八重洲口の大混雑の中、ひときわ目立つ人物が目に留まった。それは水色のスーツを着たクロマティ―だった。ぼくはクロちゃんからすでに3枚目となるサインをもらうと、獲物を狙うハンターのごとく原を探した。

 

 とうとう崎陽軒の売店の横に立っている原の姿を見つけた。高級ジャケットを着た原が他の選手達と離れて一人立っている。ぼくはその姿に孤高を感じた。「今日この瞬間を逃したら永遠にサインをもらえないだろう」ぼくが猛ダッシュで駆け寄り色紙を差し出すと、原はぼくの頭の中に入っている字体でさらさらと美しいサインを書いてくれた。「ありがとうございます。がんばってください」と言うと、原は「おう」と言って新幹線のグリーン席に乗り込んでいった。長年の夢だった原のサインを手にしたぼくはホームの上で崩れ落ちそうになった。完走したマラソンランナーのように。

 

 しばらく経ってGWに巨人戦をラジオで聞いていると心の中に異変を感じた。50番トリオの駒田、吉村、槇原が大活躍しているのに、後楽園の応援席に向かう気持ちが起こらない。嫌な中学に行きたくない5月病か?原のサインを手に入れてしまったからだろうか?理由はよく分からなかったが、自分が長年愛し、築いてきた世界が消えていくことは恐ろしく、胸の痛むことだった。

 

 大人になったぼくは色々な国で量販店やデパートなどの本部バイヤーから契約を取る仕事をしたが、あちこちの会社から契約書にサインをもらう行為は、ぼくが子供の時にしていたこととそっくりだった。いや、原にサインをもらう方が遥かに困難だったのは間違いない。

 

 もしも子供の頃、巨人軍のスター選手たちからサインをもらう長い年月がなけれれば、ぼくは自分の内側から起こる情熱を形にする術を知らぬまま、今よりずっと味気ない人生を送っていただろう。仕事もうまくいかなかったかもしれない。そのような意味でも、嫌がる勉強の代わりに自由を与えてくれた親には感謝しなければならない。