稲葉俊郎『ころころするからだ』の感想 | 喪われた和音を求めて〜プロデューサー日記〜

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今は直接文章書いておらずですが、同期した投稿のみになります。



稲葉俊郎の『ころころするからだ』を読んだ。

 

この本の素晴らしさ、ひいては稲葉俊郎の魅力は、簡単に語れるものではないが、その一端を言葉で残そうとすることも大切だろうと思い書いてみる。

 

内容に関してはもちろんだが、最初に書いておきたいと思ったのは「文体」に関してである。膨大な知識量と、奥深い体験によって裏付けされた内容もさることながら、稲葉俊郎の文章は、左脳というより右脳に響いてくるところがある。

 

大げさに言えば、理屈や理論を超えて、文章全体が醸し出す世界観が温泉のような効果をもたらすのだ。「文体」という言葉を使ったのは、彼が村上春樹を好きなことをも含めてなぞらえたものだが、湧き出る温泉のような文章は本当に心地がいい。

 

私にとって、兼ねてから、稲葉俊郎から届く最重要キーワードは「全体性」だが、この本でも生と死、意識と無意識、西洋と東洋、動物と植物と、様々なものが対比されつつ、そのどちらに偏ることなく調和、統合というプロセスを経て「全体性を取り戻す」ということが語られる。

 

「取り戻す」という言い方をされるくらいだから、生まれ出た時には持っていたものが、大人になる過程で必然性を持って手放されているということになるわけだが(それは失われたのではなくて、そもそも必然なのだろう)、もちろん簡単ではないものの、そのプロセスに至るヒントやイメージが本にはたくさん書かれている。

 

例えば、表層意識の下に広がっている広大な潜在意識の領域や、人間の体が60兆の細胞からなるということを、情報として分かってる以上に、実感として捉えるのはなんてことは、果たして自分にできるものだろうかとも思うが、本の中で語られている「からだ言葉」「こころ言葉」、あるいは「オノマトペ」的なものを含めたイメージの世界がそのために必要なことは納得できる。

 

本の中で、僕が気に入っているのは「動物的な内臓」と「植物的な内臓」の話だ。人が生きるためには、何も意識しなくても内臓が動いてくれることが必要不可欠だが、とりあえず食べ物を放り込んでおけば、自動的に生かしてくれる体になっているということは、よく考えたら確かに驚くべきことだ。病気になってから健康のありがたさをわかるのではなく、日々がそのような感謝の気持ちで生きるというのは容易ではないが、これもまた「全体性を取り戻す」ということに繋がるのだろう。

 

あと、オリンピックに対する考察もユニークだ。オリンピックとは体の普遍性や共通性を探求し、多様性と調和を学ぶ場であるが、記録の競い合いが加熱してしまって、本来のコンセプトが見失われているのではないかという指摘はとても的を射ている。

 

体が健康的に、有機的に、あるいは調和的に働くとはどういうことかを学ぶのは、地球規模で全ての国や人種、宗教がそれぞれの役割を果たしながら、あるいは老いや若き、病や障害を持つ人も含めて、協力して調和して生きていくことに繋がるだろう。

 

武道や芸道といったものの体の使い方に、心の整え方のヒントがあるということはとても重要な示唆だと思うが、「型」に秘められた身体言語を読み解いていくこと(そしてそのプロセスそのものが重要だという指摘)、あるいはからだに栄養が必要なように、心にも栄養が必要で、芸術を含めた様々なアプローチで我々は心身共に健康になり、皆が全体性を取り戻せるような場というのが本当に求められていると思う。

 

稲葉俊郎の考えるオリンピックや病院(療養所)というのは、近い将来に実現されるのではないかと思うが、今から楽しみでならない。

 

■『ころころするからだ: この世界で生きていくために考える「いのち」のコト』

https://www.amazon.co.jp/dp/4393716329