明智光秀は落ち武者狩りで百姓に殺された。その理由は、光秀の時に行使されていた惣無事令。自力救済としては、室町時代から自立した百姓たちによる惣村と呼ばれる自治村落ができ、こうした惣村では村内部の問題や他の惣村との水争いや草場、山境などの生活に不可欠で対立する紛争解決に領主など支配層を介入させず、村の安全や権益は自分たちで守る自力救済の処置権限である「自検断」を使い、時には他村と武力紛争となり、戦いの先頭で力のある若者が長老衆と対抗できる大きな発言力を持っていた。村の盗難などの罪人の現行犯は村の若者が処刑するという暴力的な自検断の成敗権の慣習があり、人を殺す権限があった。物を盗んだ母子とも若者たちが即決で沙汰して殺した例があり、戦国時代の末期の初期の羽柴秀吉時代の法でも認めていた。これが外に対しては襲来する雑兵たちに対しての防御となり、勝手に侵入するよそ者と戦って排除し、抵抗すれば殺す体勢がある。その一環として、落ち武者狩りは行われていた。

 

この様な暴力による行使が地域で行われていた様を見て、豊臣秀吉による大名間の死闘を禁じる法令である惣無事(そうぶじ)が成立した。この法令で中世の私戦、私的執行、私刑罰などはほぼ禁じられることとなり、裁判権や刑罰権を武家領主が独占する公刑主義へと移行したとされる。藤木久志によって提唱され定説化したが、後述する通り様々な批判がなされ議論となっている。

 

歴史学者の藤木久志は、刀狩令海上賊船禁止令喧嘩停止令など、私闘を抑制する一連の法令と併せて豊臣平和令(とよとみへいわれい)という概念を提唱した。これは神聖ローマ帝国のラント平和令などに示唆を受けている。

 

ラント平和令(Landfrieden)とは、中世ドイツにおいてフェーデの制限・禁止を発したもの。フェーデは、歴史学における法学的意味での自力救済を指す用語。中世では自己の権利を侵害された者はジッペや友人の助力を得て、侵害した者に対して自ら措置を講ずることができた。これは原始的な血族単位での報復である血讐を中世法に適合的なように改めたもので、中世法では身代金を積むことでフェーデによる暴力を避けることができた。

 

中世初期においてはフェーデは一種の決闘であり、決まった場所・決まった時間に全く武力に頼って決着された。フェーデを行なう時は場所・日時をしかるべき形式の果たし状として公開し、無関係の者が巻き込まれるのを防がなければならなかった。

 

また、中世ドイツにおいて、ラント平和令は幾度も発布された。神聖ローマ帝国全体に及ぶ最古のラント平和令は、1103年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が発したものであった。

 

 

この絵はアルベルヒト.ビューラーが1506年に制作した油絵である。個人的には、上記の文章と世相を兼ね合わせて、地域の子供を守る婦人が描かれているように見える。地域で行われている強盗行為を自警自衛で守る長老たちも中にみられる。皆で生まれてきた命を守り、地域から暴力と不正を排除していかなければならない。

 

冒頭の文章に戻るが、当時の落ち武者狩りは地元の名手(百姓)であり、日本でも横行していた強盗行為に対して、ラント平和令のように、果たし状を差し出して、安全が守られていて、内乱もなく、収まった例がある。地元の名主に手紙を差し出して、地域の中の悪者を排除して、皆で守る地域社会。これがある意味21世紀に求められる政策への答えなのではないか?