昨晩は、デビュー当時お世話になった
小澤音楽事務所の同窓会が
赤坂 MUSIC BAR JAM にて行われました


私は多いに酔い、唄い、高らかに
昔の皆様に復活宣言をしてまいりました

先代 故小澤淳社長はアーティストを
大切にしてくださる方で
私のNY音楽研修旅行も大賛成してくださり
社長の暖かい懐の下
私は伸び伸びと音楽活動をする事ができました

現在はご子息である小澤賢太郎氏が
出版会社J&Kを受け継ぎ
「フライディ・チャイナタウン」を
きちんと管理して下さっています

おかげさまでこの楽曲は今でも
皆様に愛され続け
印税もいただいております


昔の仲間に応援して頂けるなんて
なんて素晴らしい事でしょう。。。


私は弊社の名刺をお渡ししました
名刺デビューです!




ほろ酔いの私は
自宅に戻り

ライザミネリのNYNY
を聞きながらネットで調べものをしていると
you tubeで昨年3月に収録した
「徹子の部屋」を見てしまったのです

あの頃の私は深刻なうつ病と
戦っている真っ只中で
云いたい事は沢山あるし
頭の中ではいっぱい
徹子さんに「聞きたい事」
「教えて頂きたい事」がぐるぐる回っていたのに
「ハイ」としか云えない自分が悔しくて
心で沢山泣いていました

能面のような状態で画面に出ている
自分の姿を目の当たりにして
驚愕してしまいました

本当の事を申し上げますと
投薬治療の副作用でしょうか
フラフラとしていて
何かに縛られているような状態で
残念な事に収録スタジオに
どういったのか、何をお話ししたのか。。。

全然記憶がないのです

ただ、一つ
徹子さんがこう言って下さいました

「35年前 NHKの番組で
徹子さんが司会で
私が
ラフマニノフピアノ協奏曲第二番を
日本語の歌詞で
ピアノを弾いて
オーケストラで歌った事
そしてそれがとっても
素晴らしかった。。。」と。


その事だけは今でも
はっきり覚えています

どれほど
嬉しかったことでしょう
どれだけ
誇らしかったでしょう

心の私は
うれし涙でいっぱいだったのに

「ありがとうございます」
とも云えませんでした

そんな自分をも
受け止めて上げようと思います
全部自分のして来た事
云ってしまった事
それも私だから
それを全部
受け止めてあげようと思います

いつかまた
徹子さんとお目にかかったら
この事をお話しし
あのお言葉が
私の人生の
ご褒美のお言葉になった事を
お話ししたいと思います



黒柳徹子さまそして
「徹子の部屋」スタッフのみなさま
あのような状態の私に
向き合ってくださり
素敵な時間を与えて頂いた事
心より感謝いたします
ありがとうございました


泰葉拝