今年は無事に過ぎた。毎年この日は何かトンでもないようなことが起きる気がして不安になる。それは起きないことよりも、起きるであろうことの方がよほど自然だと感じられるからだ。こう思うのは未だ疑っているからである。

2001年9月11日火曜日。学生最後の夏休み。京都旅行から帰ると自宅で家族全員がテレビに釘付けになっていた。それもそのはず、ニューヨークのワールドトレードセンターが煙を噴き上げていた。旅の余韻はそのあまりにも衝撃的な映像にあっけなく霧消した。そして二度目の衝突が起きた…。

間もなくこの大事件をアメリカはテロと断定する。その後捜査によって判明したと“される”情報を元に、首謀者をアルカーイダと規定。アルカーイダの拠点があるとされるアフガニスタンへの「報復」を決めた。

ワールド・トレード・センター・ビルが攻撃を受けた、アメリカ国防総省のペンタゴンが攻撃を受けた。大国アメリカの象徴が次々と攻撃をされたこと。しばしば映画のようだと形容されたこの大事件は、あまりに出来すぎていて、「アルカーイダ」「テロ」「攻撃」というアメリカの喧伝を聞けば聞くほど、額面どおりに捉えてはいけない裏の意図があることを感じずにはいられなかった。

私はアメリカの報復攻撃には「反対」の意見を持っていた。アルカーイダがテロを実行したという決定的な証拠が出たという報道を一度たりとも聞いていなかったからだ。国会の答弁でも小泉総理が「米国より証拠があると聞いている」というだけで、政府が事実関係を「確認した」という答え方はしていなかったと記憶している。それにも関わらず、小泉総理は「アメリカ支持」をひたすら言い続けた。小泉総理のアメリカへの無条件追従の姿勢は、アメリカがどさくさ紛れに開始したイラク攻撃のときもそうだった。イラク攻撃開始の根拠であったはずの「核開発の証拠」は結局出てこなかったのに、である。

当時、最もショックを受けたことは、友人も家族も「報復は当然」との意見を持っていたことだ。何故そういう意見になるかというと、「殺された人たちの気持ちを考えると」という、浅はかな被害者感情という当事者意識が理由だった。本当にアメリカが「ただの」被害者であるならば、それはそうなるのかもしれない。少なくともアメリカは戦争をする国だからだ。しかし、それ以前にアルカーイダがやったという決定的な証拠があったという報道は一つもないのである。論より証拠とは正にこのことで、アルカーイダがやったというアメリカ発の「論」を繰り返し垂れ流し続けただけの報道を、最早「証拠」として疑いなく受け止めているようだった。小泉総理ですら証拠を確認したなどとは一言も言っていないかったのにである。

私より学力の高かった家族や友人たちが一様にそういう安易な考え方をしていたことを知り、このことが未だにちょっとした心の傷になっている。これは意見が不一致だったからということではなくて、あまりにも教養が低いと感じたからだ。中学校以来、最低でも授業で繰り返し聞いているはずである近代法の原則が意識されていれば、同じような意見を持つにしてももっと違った言い方をしていたはずである。しかし「殺された人の気持ちを考えると」と言う、彼ないし彼女の態度にためらいはなかった。小泉内閣のもと行われた2003年の衆議院議員選挙で、今夏衆議院議員選挙のような結果にならなかったことを考えれば、私の周囲だけでなく多くの人が同じように小泉総理がさかんに言った「世界の中で名誉ある地位を占めるため」対テロ戦争支持に反対はしていなかったのだろう。この時の小泉総理の日本国憲法前文の曲解と悪用ぶりには恐れ入ったものだ。本来は、「世界の中で名誉ある地位を占めるため」という件は、武力による行使を放棄する、に結びついてくはずの文言だからである。

この事件に関する疑惑を扱った様々な書物、映画、テレビ番組などが、その後相次いで発表されたことはご存知の通りだ。アメリカはこの事件の闇の部分に関し、いつか明らかにする日が来るかもしれないが、それは不都合が明らかになっても同時代的に影響のないずっと先のことだ。その意味で、疑いが仮にあったとしても、それは省略して何かしらもっともらしい結論に飛びつくほうが楽だ。考えなくて済むからだ。しかし、考えなくともせめて疑わしきへの結論を保留にするという選択肢があっても良かっただろう。その後「やはり」次々と噴出した疑惑の嵐に、被害者感情を強引に引用し決定的でないアフガニスタンへの攻撃を当然だとしていた人たちは、今何を思うのだろうか(きっと何も思うことはないのだろうけれど…)。

裁判員制度が始まり、誰もが第三者の立ち位置において、大きな判断を迫られる可能性を有することとなった。第三者が紛争に関わることの意味は、勝手な当事者意識という感情移入が生んだどちらかへの加担ではなく、原則に基づき手続きの公正さが維持されているかどうかの監視役であるべきだろう。だから裁判における市民感覚の反映という裁判員制度の触れ込みはズレているようにも思う。市民感覚が何を指しているのかを考えると、この制度の照らす未来は決して明るくない。市民感覚が何かしらの人々の意識の総体だとするならば、証拠の収集や確認、公正に判断されるための原則に基づき手続きが踏まれることを望む人々のものではなく、一方的な情報と感情に流されて「殺された人たちの気持ちを考える」ことの出来た人とたちの感覚だとしか思えないからだ。私は万が一にも当事者になった時、そういう人たちに裁かれたくはない。


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