今さらではあるが、遠藤周作の「沈黙」を読んだ。


2016年公開の映画「沈黙-サイレンス」の原作になった小説。

同映画は「タクシードライバー」などのロバート・デニーロ作品を撮っているマーティン・スコセッシが監督で、窪塚洋介も出ている。


小説「沈黙」のあらすじは、キリスト教禁制になった長崎にポルトガル人宣教師というか若き神父が潜入して、捕まって、その神父が踏み絵を踏むまでのお話。

ザビエル以来カトリックの布教が拡大した日本でキリスト教が禁制になり、信者の弾圧や宣教師の追放が始まったわけであるが、徳川の三代目家光の頃になるとそれがだいたい落ち着いてきていたらしい。

島原城での天草四郎の乱も鎮圧され、大方の外国人宣教師も国外に出るか棄教して和名を名乗って日本に永住するかしている。

そこに、オランダ人の情報で超尊敬する恩師フェレイラ神父が信仰を捨てたと聞いて、それが信じられない若きロドリゴとガルぺ両神父が事の真偽を確かめに、闇夜に紛れて長崎付近にマカオから出航したジャンク船に乗って潜入する。

間もなくロドリゴとガルぺは幕府の長崎奉行の取り締まりに捕まっる。

ガルぺの方はひと足先に、船から落とされて死刑になる信者を追って、自分も海に沈む。

残ったロドリゴは奉行所に次々信者を殺されてもなかなか信仰を捨てれらない。

しかし最終的にあるきっかけで決心がついて踏み絵を踏んで信仰を捨てる。

それで何人か逆さ吊りの刑にされていた信者も助かる。


だいたいそういうお話である。

現代人であり信仰を持たないわたしとしてしては、日本人信者を人質に取られて殺されかけて彼らをなんとか助けたいと思っているに違いないポルトガル人宣教師が、なぜそのために信仰を捨てることをしないのか、よく分からない。

20年前に信仰を捨て和名をもらって日本人として暮らしている恩師フェレイラは、なかなか決断しないロドリゴに対しそれは信仰ではなく単に我が身可愛さだと説教する。


現代人であるわたしにはフェレイラの言うことが至極当たり前の正義であるように感じられる。

17世紀の若きカトリック神父であるロドリゴは、なんでそんなに信仰を捨てられないのか。

その理由について、遠藤周作は特に説明を書いていない。

読んだ人が考えるしかない。


あと映画で窪塚洋介が演じたキチジロー。

キリシタンだが根性なしで役人に脅されるとすぐに踏み絵を踏むクソヤローとして出てくる。

ロドリゴ神父に対し、自分は絶対にあなたを奉行所に密告したりしないと何度も約束する。

しかしキチジローは、約束の3分後には裏切って密告し、ご褒美の銀300枚をもらったりする。

しかし最終的に若き神父ロドリゴは、自分もキチジローと変わらない弱い人間だと自覚することが描かれていたりする。


人間、何が強いということか何が弱いということか、そう簡単に分かるものではない。

あのイエス・キリストだって弱くてクソヤローな部分があったのかもしれない、そういうことを想像させる物語。

小説の最後数ページは江戸時代式のソウロウ文が延々続いて、ロドリゴのその後、日本でどういうふうな最期を遂げたかが説明されているが、ここを読み通すのに心が挫けそうになった。



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