「こだわり」といってもいろいろある。
こだわりのラーメン、こだわり餃子、こだわりファッション。
いろんな種類のことで、何かひとつのことを突き詰める姿勢というのはよくある。
これらはおおむね、良いこだわりであるように思われる。
ところでこだわりとは、本来は拘りと漢字で書く通り、心が何かにとらわれる状況を意味するのだろう。
いつもよりも精神の可動範囲がややせばまった状態がこだわっている状態なのかもしれない。
そういう意味では、精神の可動範囲はなるべく広く自由でありたい。
できることなら、こだわらないで生きていたいと思う。
しかし何かを極めるには、しばしばそれにこだわることが必要になる。
ニュートンはリンゴは落ちるのになぜ月は落ちてこないのか、リンゴと月の落ちなさ具合の違いにこだわった。
その結果万有引力に行き着いた。
アインシュタインは光速の不思議にとことんこだわって、超難解な特殊相対性理論を考え、そこからさらに一般相対性理論にまで拡張した。
しかしニュートンは錬金術にもこだわって、当然ながら鉛を金に変換することは生涯叶わなかった。
アインシュタインは「神様はサイコロは振らない」と言って物質の確率的な振る舞いを否定し続け、量子論の方面で決定的に間違えた。
大きなことを成し遂げる偉人は、こだわりの強さも常人の何倍もあるようで、そのこだわりの強さがマイナスに作用すると大きく間違えるのかもしれない。
そうやって考えると、勘の鈍い凡人はあまりこだわらないでいた方が無事に生きられる気がする。
凡人が何かにこだわっても、それはニュートンのような偉人以上に的外れなこだわりに終わる可能性が高い気がする。
とことん何かにこだわる時は、それで人生を棒に振る覚悟でこだわるべきなのかもしれない、という感じがする。
靴下を履くときは必ず右からとか、風呂に入ったら絶対に左手から洗い始めるとか、そういうこだわりは無しに融通無碍にいたほうがいろいろ不自由がない。
こだわらないことにこだわるのは、ある種の人生のリスクヘッジであると思ったりしている。