あけましておめでとうございます。



お正月もあっという間に終わりました。



大晦日と元旦の昼は
夫が天ぷらを揚げてくれて



元旦の朝に
近所の神社に初詣へ出掛け
お神酒をいただき


元旦の夜は
私がとりの唐揚げを作って
出し巻きときんぴらとおにぎりを夫が作って
母と兄と共に過ごしました。



夫が天ぷらを揚げてる間
私も食卓の支度にバタバタし
2日間でドッと疲れが出ました。



兄と母への
私たち夫婦からのおもてなし。



私はずっと接客業だったせいか
アレコレ気づいてしまうものだから
ずっと動き回っていました。



とっても疲れはしたのだけど
2人で台所に立ちながら
「あぁ幸せだなあ」と思いました。






4人でテーブルを囲むと必ず話題に上る話がある。

「この人と結婚する」


そう母に紹介するために
付き合い始めてすぐに
母のいる実家に夫を連れて行った。



メイン級のお料理を
テーブルいっぱいに並べて
「沢山食べてくださいね」と勧める母。



勧められるがままに食べて
「もうお腹いっぱいです」と
お腹がはち切れそうになった夫。



そこへ母が
「さあこれもどうぞ〜」と
豚のだんご汁をどんぶりいっぱいに盛りつけ
夫の目の前に出したとき、夫が苦笑いして
それでも頑張って食べてくれたあの日。






夫と2人で夕食の支度をしてると
アレもコレもと作ってあげたくなる気持ちが
自分から湧き上がってきて思いました。



ああ、あの時のお母さんは
夫を心から歓迎していたのだな。



私がこの人と心に決めた男性が
娘の伴侶として間違いないと親として感じたから
とっても嬉しかったんだろうな。



だからあんなに
次から次へと自慢の料理を
出してくれたんだろうなあ。








母は昔
父に、一度に作る食事の量が多いと
よく叱られていたと話していた。
それがとても嫌だったと。



私たち子供も全く同じで
兄が食べる量のご飯を茶碗に盛られると
「こんなに食べれんわ!!」と怒っていた。



あれは母の想いの重さを感じて
鬱陶しかったのかもしれない。



なんだか押し付けられてるみたいで
嫌だったんだと思う。



だけどこうして台所に立つと
あの日の母の気持ちがなんだか分かる。



母は料理で愛情表現をしていたのだ。



美味しいものを食べて
お腹いっぱいになる。



戦前生まれの母にとって
それは幸せの象徴だったのだ。



だから夫にも、子供にも
その子供の伴侶にも
その幸せを与えたかっただけだった。



それが母にとって
愛するということだった。







「もう料理はいいから一緒に座って食べようよ」



沢山の料理が出来上がっても
またアレもコレもと料理を作ろうとして
台所に立ち続ける母の背中に
子供の頃から何百回もそう言ってきた。



「お母さんはいいから
あんた達温かいうちに食べなさい」



そう言って
黙々と料理を続けていた母。



「一緒に食べたいのに」と言えず
不貞腐れながら先に食べる子供たち。



母の料理は美味しくて
待てずに食べ始めるのだ。



そして
「美味しいーー!!」と叫ぶ私たち。



嬉しそうに眺める母。







ああ。
ずっと台所に立ったまんまで
さぞお母さんは大変だろうと思っていたけれど
このお正月に台所に立ち続けて
ヘトヘトになってみてよく分かった。



お母さんはそれが幸せだったんだねえ。



愛する人に愛を与えるって
どんなに疲れようが
どんなに面倒くさかろうが
自分が幸せになれるものなんだね。



自分が作った料理を
「美味しい」と喜んで食べてくれる人がいる。



それは間違いなく幸せなことだね。



ずっと与える側だった母に
料理上手な夫のおかげで
ここ数年は私たち夫婦が料理をして
愛情を食べてもらっている。



与え上手な母は
受け取り上手でもあって
それはそれは幸せそうに料理を食べて
洗い物も兄に任せて
食卓で笑って寛いでいる。



その姿を見ると
「ああ良かった」と思って
私も幸せな気持ちになる。
きっと夫も同じだろう。



私たち夫婦が「先に食べてて」と言っても
母はやはり先には食べない。
お母さんもあの日の私たちの気持ち
今なら分かるでしょう。



愛を与える人
それを受け取る人
どっちも必要で
どちらか欠けても寂しい。




あの日の幼い私に言いたい。



遠慮しないで食べなさい。
お母さんのことは気にせずに
食べたいだけ食べて
美味しかったら美味しいと叫んで
喜びを表現しなさい。
あなたがまず満たされなさい。
それがお母さんの幸せなんだから。



つまり、
わがままなまんまでいいから
罪悪感だけ捨てなさい。
アホでいなさい。






食後に母に朗読をせがんだ。



私が最近読んでる本。



もう10年前くらいから
石井ゆかりさんの文章が好きで
通ってる歯医者さんに彼女の本が置いてあり
それをとても気に入ったので買ったのだ。



その本は禅の言葉が
彼女の解釈で説明してある。
その文章がまた心に沁みるのだ。



とても気に入ったページがあり
それを朗読してもらった。
(以下抜粋させていただきます)



鯨呑盡海水
露出珊瑚枝
(鯨海水を呑みつくして珊瑚の枝を露出す)


クジラが海水を飲み尽くして、海底から珊瑚の枝が姿を現す。
迷いがすべて取り払われたところに、美しい真実の姿が現れる、の意。


この言葉を読んだとき、あるエピソードを思い出した。
アメリカでは知らない人のいない「吉田ソース」の創業者で大実業家の吉田氏には、かつてビジネスがうまくいかなくなり、酒に溺れた時期があった。

その日も正体なく飲みつぶれて、ガレージにへたり込んでいたところ、アメリカ人である奥さんが、何かを手に持って近づいてきた。
吉田氏は、たぶん怒った奥さんにフライパンか何かで殴られるのだろう、と思った。

しかし、なんと、奥さんが手にしていたのは、ウイスキーの瓶だった。

もっと飲みなさい、飲みたいだけ飲んだら、安いアパートを探しに行きましょう、と彼女は言った。
吉田氏はそれを聞いて、われに返った。


いくらクジラでも、海の水を飲み尽くすなんて不可能だ。それでも飲み尽くすまで飲む。
昨今は「ポジティブ」流行りで、私たちは悩みや苦しみに出会うと、そこからできるだけ早く脱出しようとする。
しかし本当は、嘆きに浸りきり、苦しみに溺れ抜ける人のほうが、美しい珊瑚に近いところにいるのかもしれない。




この吉田氏のエピソードを初めて読んだとき
泣き出しそうになった。
なんて圧倒的な愛だろうと思った。


夫の嘆きに完全に寄り添いながらも
決して諦めてなどいない逞しさ。


私もこういう人間になりたいと思った。



そして、最後のところもとても共感していて
ネガティブな自分を責める人は多いし
実際にそういう人と沢山出会ってきたけれど
私はネガティブな自分も生きようとする人が好きで
ポジティブだけを生きようとする人には
息苦しさを感じる。



ネガティブ思考に偏ったときは
自分の中の影に光を当ててる時なのだし
より核心に近づいている時だと思う。


むしろそれまでが
ポジティブに偏りすぎてたんじゃないか。


ネガティブの中にしか
見えてこない光が私はあると思う。






母もこれを読みながら
私もそう思うと言っていた。



ネガティブの中にある
ポジティブな側面を人は忘れている、と。



そんな話をしながらも
話は段々と兄たちの話題になる。



母と兄たちのことを話していると
母を説得しようとしてしまう私がいる。



実際にこの朗読の後
兄たちを案じる母に私はこう言った。



「お兄ちゃん達にはお兄ちゃん達なりの人生があるし、お母さんの理想を生きることが彼らの幸せとは限らないよ。もっと信頼してみたら?」



それは私に返ってくる言葉だった。



私こそが
母を信頼していないのだ。



母の「心配」というネガティブを
私が消し去ってしまおうとしている。



そう思うと
やはり目の前の人というのは
自分を映す鏡なのだなと思い
偉そうに講釈を垂れる自分が可笑しかった。



母と向き合って話すと
そんな具合に私は偉そうに持論を語っては
説得する人になり、
母が説得される人になってしまう。



夫という存在や
一冊の本があることで
母との対話を柔らかくして
次元を深めてくれるように思う。










目の前に差し出された愛。


それを愛だと感じる感性を育み
それを愛だと認めて受け取る力を磨く方が
話は早い気がする。








今年もどうぞよろしくお願い致します。