「瞳子さんは、私が言ったことを素直に受けとめて覚えてくれてるね。ここからお点前してる姿を見ているとなんだか瞳子さんが愛おしくなるよ」




先日のお稽古で先生がそう言われた。










今月からお稽古を
月3回に増やしていただいた。



もっと本腰を入れて
茶道を習おうと腹をくくったのだ。



これまでの私は
その場を楽しむだけで
お点前を自分の中にインストールする
という意識が低かった。



そのせいか
もう習い始めて6年目にもなるのに
習えば習うほど茶道の奥深さに触れては
その果てしない道のりに気が遠くなってた。



「本気で茶道に向き合っても
結局モノにすることは出来なかった」



いつかそう思う自分に出会う気がした。



だからこの世界にどっぷり浸かることが
怖かったのかもしれない。



いや、これまでは
心理の世界に重心があったから
茶道にまでエネルギーを注げなかった
というのが一番大きいとも思うけど。












私は心理カウンセラーをしながら
いつも思っていた。



私の目指すカウンセリングは
このお茶のお稽古のような
言葉のやり取りを超越した心の交流。



カウンセリングをしながら
言葉の壁みたいなものを感じることも多かったから。



人それぞれ言葉の受け取り方が全然違うから
すれ違いが生まれることがある。



人は勝手に受け取りたいものを受け取るのだから
それでいいっちゃいいんだけど。



けど、お茶の世界って言葉はなくても
その空気感から勝手に受け取るものがあって
それが深い気づきになっていく。



それはきっと
亭主と客の立場は関係なく
相互的なものだと思う。



人は受け取りたいものがあるから
人に会いに行くんだと思う。



それが貰えないときは
腹が立ってきたり、悲しくなる。



でも自分でも何が欲しいのか
分かってないことも多いもので
それがうまく言葉に出来なかったりする。



だからこそすれ違いが生じる。



「悲しい」「怖い」「助けて」が言えずに
怒りをぶつけてしまったりする。



それもそれでいいっちゃいいんだけど(笑)



柔らかな本音の方を伝えたら
きっとすれ違わない。




けど、言葉でやり取りしなくても
お稽古という時間を通して
主体的に受け取りに行く方が良いことも
あると思う。



その時は意味が分からなくても
辞めたいな…と思ったとしても
お茶室という、
外界から遮断された空間で
言葉ではない心の交流を続けていくと
知らないうちに心も育っていく。



そういう時間を積み重ねることで
信頼関係も深まる。



心が荒れている日も
浮き足立った日も
お点前をすることで一時的に意識が
目の前のことから離れる。



お点前に集中しているうちに
心の中の余分な感情が淘汰されていく。



そして心に余白が生まれる。



すると、自然と
怒りの奥にある悲しみや恐れという
本音に気づけたりする。



その問題について話し合わずとも
勝手に答えが降ってきたりする。



そういう時って
人から「これです」と指摘されるより
ずっと潔く納得することができるのだ。



茶室と信頼している相手
そしてお茶さえあれば
その空間の中で勝手に癒されていく。



そういうのを目指している。







もちろん茶道が誰にでも合うわけじゃない。



けど、その世界観が合う人も必ずいると思うし
そういう人と関わっていきたい。



必ずしもお茶を通してということではなく
その心を理解できる人だろうなと
勝手にこちらが思えるような人と。
(つまりこのブログを読んでくれる人ということか













と、そんな風に
いつしか私の理想のカウンセリングは
茶道とリンクし始めたのだった。



そういえば
私がやってたシェア会やお話会って
そういうニュアンスでやっていたと今気づいた。


相談者さんを待ってる間に一服。










そんな風に思うようになったのは
先生のお人柄の影響が大きい。



先生は私の話を
ほんとに楽しそうに聴いてくれる。
悲しい話のときは
涙を浮かべて聴いてくれる。



私の心の奥底にあるものまで語らずとも
私という存在自体を
深いところで受けとめてもらえたと感じる。



そのお陰で気づけたこともあるし
心が救われ、癒されるという体験を
もう何度も何度もしてきた。



また、先生も私にいろんな話をしてくれて
話しながら癒されたこともあったのかもしれない。



お互いに過剰に慰めるでもなく
静かに聴き入る。



何かを責めるわけでもなく
ただ相手の想いを受けとめる。



そして
先生と私を結ぶ線の中心には
いつも茶道がある。



それが柱となって
お互いの心に橋を作ってくれる。



その橋の上で
その日話したいことを
なんとなく話したりする。



それだけで心がぬくもりを帯びていく。



お稽古が終わると
また橋を渡って各々の生活の場に戻る。



そして生活の中で
ふとあのお稽古のときの
静寂と緊張感と
受容的な空気を感じてホッとする。


先生の愛に溢れた言葉や眼差しを思い出し
口元が緩む。


そんな静かで優しい心の交流の仕方があることを
私は先生から教わった。









今年、
先生の大切な友達が突然亡くなった数日後
決して心は穏やかでないはずなのに
お稽古をしてくださった。



「こういう時こそお茶があって良かった」
「お茶に助けられているの」と
いつも通りお稽古をつけてくださる先生に
私も一緒に心で泣きながらお点前をした。



先生、さぞ悲しかったろうなぁ。
沢山泣かれただろうなぁ。



そのお友達とのエピソードを話しながらも
やはりお稽古はお稽古として
ちゃんと間違いは指摘してくださる。
そしていつものように私を褒め倒してくれる。



本当に茶の湯の世界を愛し
茶人として生きている方なのだと思った。



そして自分が学んできたこと全て
惜しみなく私に手渡そうとされているのが
ひしひしと伝わってくる。



「なんて畏れ多いことだろう」

「私は先生のご好意に見合う程の人間だろうか」



そんな思いがいつも片隅にある。



本物の人格者に出会ったとき
人は謙遜ではなくそう思うのではないだろうか。



そしてそれに見合う人間になろうと
襟を正して己を磨こうとするプロセスにだって
受け取れるものがあると思う。



それは自己否定や劣等感ではなく
畏敬の念と呼ばれるものなんだと思う。











振り返ってみると
先生との関係も変わってきている。



少しずつ、でも確実に
関係性が深まってきているのがわかる。



誕生日もお互いに知らないけれど
その微妙な距離感も心地良い。




そんな付かず離れずの師弟関係だけど
先日お稽古中に先生がふと言われた冒頭の言葉、
「瞳子さんが愛おしい」という言葉が
泣きたくなるほど嬉しかった。



決して上から目線なわけでなく
あくまで先生の私に対する愛情を
飾らずに表した心からの言葉だと分かるから。



私も先生が大好きで
心から尊敬するからこそ
先生のお点前を真似しようと必死になれる。



私もいつか茶道を教える立場になるなら
そう素直に言えるような人間でありたい。



カウンセリングに通ってくれる方々は
とても素直で、勇気を出して行動する方が多く
そんな方が懸命に進む姿を見せて頂き
いつも胸を打たれていた。



それが「愛おしい」という感情なのだと
先生のお陰で気づけた。



愛おしいって良い言葉ですね(*´ω`*)







そして現在
ツアー計画に携わってくれてるスタッフの3人、
励ましや嬉しい感想のメッセージをくれる
あなたが愛おしいなと思ってます。



なんだかうまく表現出来なかったけど
私に何かメッセージをくれる方は
みんな素直で、ひたむきで、純粋で
真摯で、愛おしい人ばかりです。



濁った心を洗い流してくれます。



いつもありがとうございます。






先生のお宅に咲いていた秋桜。


まるで先生みたいだな、といつも思う。









***



最近、夜ご飯を食べてすぐうたた寝してしまい
こんな時間に目がさめるというサイクル(笑)
そしてまた朝から昼まで寝る…(笑)


しかし寒くなりましたね。
昨日ようやく衣替えしました。
ときめく服が少なくなってて
洋服欲しくなった…(笑)


けど、高くて勇気出して買った服は
いまだにときめくから不思議なものです。
あと、着物の衣替えもときめいた♡