先週のこと。




その日の私は
少し沈んだ気持ちだった。



そんな自分を奮い立たせたいのもあり
夫に美味しいものを食べさせたい気持ちもあり
お肉屋さんにステーキを買いに行った。





閉店間際でお店は混んでいて
お肉とにらめっこしながらしばらく待っていると
店主の奥さんが声をかけてくれた。



「何に致しましょう?」



夫はヒレ肉、私はサーロインを好む。
でもショーケースにはヒレ肉しかなかった。



「ステーキのお肉を買いに来たんですが、ヒレ肉と…サーロインは今日はもうありませんか?」



「少しお待ち頂けたらご用意出来ますよ」



「待ちますのでお願いします」




ヒレ肉の美味しそうなものを奥さんと一緒に選び、
「やっぱりステーキはここのお肉が一番美味しい」という私の持論や、「手前味噌だけれど私も社長が選んだお肉が一番好き」という奥さんの持論を交わしたりしていると、奥から店のご主人が1枚のサーロインを片手に運んできてくれた。



「これくらいの厚さで宜しいですか?」



「はい、ちょうどいいです」









そうして無事お肉を2枚選び終え
会計をしているとご主人がまた出て来られた。



何かを奥さんに手渡している。



その何かを手に、奥さんが言う。



「今、新しくサーロインを切り分けたところで
その時に出た切れ端がありまして
宜しければこちらも召し上がってください」



そう言って見せてくれたのは
とても美味しそうな霜降りの肉片だった。



「わー!美味しそうなお肉!ありがとうございます!とっても嬉しいです!」



「これ、切れ端ではあるけど、とっても美味しいんですよ!塩こしょうで味付けてもいいし、ご飯と食べるときは醤油を少し垂らしても美味しいですよ」



そう言ってにっこり笑って
そのお肉を丁寧に包んでくれた。






こういうものってほんとは身内で食べたり、切り落としとして店頭で売ったりするものなんじゃないかと思う。



それに私は顔を覚えられてるような常連でもない。



それでもこうして分けてくれようとされる
その温かい気持ちがやけに胸に沁み入った。



「何故なんだろう」



いくら考えても理由など分からないけれど
私は店主さんと奥さんのご好意に仏の心を感じた。



自分たちの得や利益を考えず
目の前の人に大切なものを分け与える。
まるでお布施のようだと思った。



おかげで私は
沈んでいた気持ちが少しふわっと軽くなり
優しい気持ちに包まれたのだった。








心が沈むようなことが起きたとき
必ずと言っていいほど
こういうことが起こる気がする。



ひょっとしたら
心が沈んでいなければ
心の深いところで受け取れなかったかもしれない。



思えば「ハイ」なときは
感受性が鈍る傾向にある気がする。



そう考えると
人生に無駄なことなど無いのだなと思う。



良いことしか起きなかったら
きっとその良いことは
次第に当たり前になっていく。



当たり前になってしまえば
喜びも有り難みも感じなくなる。



そうなったらきっと
人生は空しくなっていくんじゃないだろうか。



もちろん、心が沈むのは
歓迎できることではないけれど
沈んだときには粛々と
そんな自分を受けとめたいと思う。





仕事から帰ってきた夫に
お肉を焼いてもらって
その出来事を話しながら食べた。



ただでさえご馳走であるステーキが
何倍も美味しく感じられたのは言うまでもない。

私たち夫婦は
外食ではステーキをほとんど食べない。



美味しいもの好きな私たちが
色々なお店でステーキを食べ歩いてきて
「結局あのお店のお肉を家で焼くのが一番美味しい」
という結論に至ったからだ。



お店で食べると万単位かかるけど
このお店で買えば数千円というのも嬉しい。



夫が美味しんぼマニアで
ステーキの焼き方をマスターしてくれたお陰である。






結局霜降りの切り落とし肉は
翌日突然会うことになった母と兄に
お裾分けした。



とっても美味しかったらしい。



幸せの輪って
こうして広がっていくんだなと
温かい気持ちになった。






しかし、脂の乗ったお肉は
どうもこの頃お腹が緩くなる。



それでも美味しくて食べてしまうのだけど。



物事には、必ずと言っていいほど
光と影があるのだなと思ふ。