こんにちは!

暑い日が続きますね~

むかしでしたらお盆を過ぎたあたりから少しずつ涼しくなって

田舎ではトンボが飛び廻り始めてたころだと思いますが

ここ数年9月、10月になっても暑い時期が続くのですから

温暖化の影響が日増しに増えてるそんな気がします!

東京では本日も外は34℃予報の真夏日で多くの人が汗を拭いながら歩いてますが

そんな中わたしは前回ドタキャンされた大学病院・口腔外科での施術のため

10時から大学病院に入り

大学病院内にある喫茶店でパソコン作業をしながら時間を潰してます!!

いつもそうなのですが

口腔外科の施術はドキドキでして・・・・・

それを落ち着かせるためにもパソコンをしながら他のことを考えるようにしてるのですが

 

これがなかなか・・・・


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さて今回はある事件・事故についてお話ししたいと思います。

わたしの中でとっても解せない事件として記憶に残ってるモノが何件かありますが

その中でも1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故については

約40年近く経った現在でもあらゆるところで話題に上がり

わたし自身もいまだに鮮明に覚えている悲しい事故として記憶に残ってます。

当時わたしはまだ子供でしたが

ワイドショーやニュースなど毎日この事故がテレビから流れてくるたびに釘付けになって

生存者がいることを願いつつ祖母とテレビにみて

発見されたときには祖母と泣きながら拍手して喜んでたそんな覚えがあります。

また、この事故では著名人が数多く亡くなられたことでも大きく取り上げられて

中でもアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で

3週連続1位を獲得した坂本九さん(歌手)や

1964年以来21年ぶりの優勝を果たした当時阪神タイガースの社長だった中埜肇さん

女優・元宝塚歌劇団雪組娘役だった北原遥子さんなど

多くの方が志半ばで天高く召されたことを考えるととっても悲しくなってしまいます。

※ 明石家さんまさんが直前で乗車をキャンセルしたことでも有名ですよね

では、なぜわたしが今でもはっきりと覚えてるかというと

〇 阪神タイガースの大ファンだったこと 
〇 墜落した上野村には何度も訪れてたこと
〇 従兄が飛行機が大きな音を立てながら低空飛行をしてた日本航空を目にしたこと
この3点があげられます。

まず、こちらからお話ししたいと思いますm(__)m

[阪神タイガースの大ファンだった]

当時はサッカーやバスケットなど野球以外のスポーツは全くと言って良いほどにテレビでは放映されず

夜の7時となれば必ず読売ジャイアンツを中心とした巨人戦が流れるだけでなく

子供の大好きなアニメでも<巨人の星><侍ジャイアンツ>など読売ジャイアンツがあたかも野球界、いえ、スポーツ界のヒーローとして扱ってる番組が数多くありました。

しかし、わたしはひねくれ者の父親の影響を受けたせいもあって(笑)

当時ジャイアンツの永遠のライバル球団と言われてた阪神タイガースを公言し

大声で応援してたものです。

ちなみに父親は中日ドラゴンズだったような・・・

忘れられないのが

1985年4月17日甲子園で行われた巨人戦で、ランディ・バースさん、掛布雅之さん、岡田彰布さんが

槙原寛己さんから打ったバックスクリーンへの3連続ホームランはいまでも伝説と言われるほどに多くの方の記憶に残り

わたしもこの目に焼き付いて離れません!!

 


その後阪神タイガースは

8月11日まで順調にAクラスをキープしてましたが

日本航空123便墜落事故で中埜社長が亡くなったことを受けてからは6連敗し巨人にも抜かれ3位となったものの

奮起した選手の頑張りでレギュラーシーズンの優勝だけでなく日本シリーズでも西武ライオンズを4勝2敗で破り

球団史上初の日本一を成し遂げ阪神タイガースにとって特別な年になったのです!!

そして今でも覚えてるのが

セ・リーグ優勝を果たした際なのか日本シリーズで優勝したときなのかは忘れましたが

ある選手が黒のスーツを着て中埜球団社長の霊前にボールを手向けられた様子がテレビに流れた際には子供ながら胸が熱くなった記憶があります。

誰よりも阪神タイガースの優勝を願ってた中埜球団社長が意図しない不慮の事故に見舞われ

吉田義男監督の胴上げが見れなかったことは残念で仕方ないのではないでしょうか。

ということで

まず一つ目の<阪神タイガースと日本航空123便墜落事故>についてお話しさせていただきました。



では2つ目に移りたいと思います。

[墜落した上野村には何度も訪れてた]

実はわたしが免許を取得してからよく出掛けてたドライブコースが上野村だったのです。

当時はいすゞのビックホーンというマイナーな車を購入して、週末ともなれば群馬県の赤城山や榛名山、栃木県であれば日光や西那須野、少し足を延ばして新潟は苗場や寺泊、長野は美ヶ原高原や上田市、そして埼玉県の秩父など様々なところに(結婚前の)妻と出掛けてはきれいな景色を見たり現地の新鮮野菜を購入したりとドライブデートを楽しんでました。

<サンプル>


 

 

 


ある時、妻とこの週末はどこに出掛けようかと地図を見ながら相談してたとき

国道140号の長瀞から秩父に入り

秩父からは国道299号、国道462号を通って長野(佐久市)に抜ける道があるのが分かったので

”車中泊しながら行ってみよう!!”となったのです。

ルートは以下の通りです!


そしてドライブ当日の早朝

いつものようにおにぎり(シーチキン・おかか・こんぶ)とおしんこを詰め込んだお弁当を手にして出発すること2時間ほどで長瀞に着き

そのままノンストップで秩父に行くと

ここからは長野へと続く未知の国道299号です。

国道299号に入ると

まずは埼玉県小鹿野町、その後真っ暗な志賀坂トンネルを抜けて群馬県神流(かんな)町へと続くのですが

その間の道路と言えば片側一車線の時もあれば車1台が通れるような狭い道など

到底国道とは思えない整備されてない道路を走ることもしばしば。(最近は整備されたのかな??)

悪路を抜けて数キロ走り国道沿いに大きな建物[神流町恐竜センター]が急に現れるころには

いままでにないほどのきれいに舗装された道路が現われたので

 

妻と

わたし : なんでここら辺だけ走りやすいんだろうね~

と不思議に思ってました。

 

 


改めて先の地図を見てもらうとお分かりの通り

東京方面からこの[神流町恐竜センター]に向かうには国道299号が一番近道ですし

埼玉北部や群馬から来た際には神流町で合流する訳ですから

道幅も広く舗装された道路になるのも頷けますが

 

それ以外の理由として

神流町から長野方面に向かう途中

左に折れること数キロの場所に時速600キロでこの場に墜落した日本航空123便によって山肌がえぐられた御巣鷹山があり

夏のあの頃になると昇魂之碑へたくさんの方が訪れるのために道が舗装されたのではないかと想像してます。

 


2019年の台風19号災害によって通行止めになってたようですが

現在は解除されてると思いますので

今度は昇魂之碑目指してひとりドライブをしてみようと思います。




[従兄が日航機が大きな音を立てながら低空飛行をしてた様子を目にした]

では3点目についてお話ししたいと思います。

あれは日本航空123便が御巣鷹山に墜落した2カ月ほど経った頃だと思います。

母親と叔母の家に遊びに行き

従兄(先日のBLOGに投稿した従兄です)と会ったとき

従兄 : ちょっと前だけど、日本航空123便が墜落したよな

わたし : うん

従兄 : あのとき物すごい音で、近くを飛んでたのをみたんだ

わたし : は??

わたし : うそ!!!

たしか報道番組などの解説では

墜落に至るまでのルートでは埼玉県中心部の上空を通らずに東京の青梅あたりから上野村に墜落したと言ってたのをはっきりと覚えてたので

わたし : ○○ちゃんが居た場所は通ってないはずなんだけど

従兄 : 本当なんだよ~

従兄 : すごい音だったし、間違えるわけない!!

とわたしが疑問を呈したことに

しっかりとはっきりと反論してきたんです。

たしかに言われてみれば

いくらうつ病を発症しはじめた頃とはいえ

真面目一辺倒で教師をしてた従兄が嘘を付くはずもなかったので

不思議に感じながらもその場はうやむやのまま口を閉ざしましたが・・・

そして、ここ数年のインターネットの普及や当時のことを疑問視してた方の書籍を読んでみると

〇 埼玉県名栗村 : 日本航空123便を目撃している

〇 埼玉県鳩山町 : 家の中に居たが大きな音が聞こえて外に出たら飛行機だった

〇 埼玉県坂戸市 : フラフラと飛ぶ日本航空123便を見た

など、埼玉県上空を飛んだと思われる複数の目撃情報を見かけたので

最近では従兄が言ってたことも本当のことだと思うようになってます。

では、なぜ嘘をついてまで埼玉県上空は飛んでないと報道されたのか???

しかも、墜落当初生存者が多数居るとNHKや他のテレビ局でも話してたのにもかかわらず

数時間後にはほとんどが死亡していると覆したり(はっきりと覚えてます!)

墜落した場所についても違う場所を示したり

アメリカ軍が最初に救助してたという噂もあったりと疑問に思うことが多数あるほどに謎に包まれている事故だと思ってます。

一説には「機は横田基地への着陸を試みようとした」という説がありますし

中曽根康弘元首相が亡くなられるとき『真実は墓場まで持っていく』と言葉を残したとか残さなかったとか

いまとなっては分かりません・・・・

ただ言えるのは
当時のことをテレビや新聞で読んでた日本人にとっては

ぜったいに忘れることのできない悲惨な事故であった『日本航空123便墜落事故』。

二度とこのような事故が起きないよう願うばかりです。

 

 

お粗末さまでした。