「Baby Maybe その向こうに風が吹いている
 Baby Maybe わかるだろう叶うはず 祝福だ」





君が駆け抜ける。


この世界は輝いている。


本当?


酸性雨が、この身を撃ちのめしても、
いつか世界は、輝くでしょうと、歌い続ける。

輝くんだ 世界中 目覚めてくれ。
深い闇で生まれたお前は愛。


そうだ。愛は闇で生まれるのだ。


そう宣言して始まるアルバムこそ
『極東 I LOVE YOU』


そして、この愛は、この楽曲のこの一節に集約されてる。




「悲哀の敵 愛する事が 俺に出来るか」



あまり勉強をしていないミュージシャンが、
LOVE&PEACEとか叫んで、愛で戦争がなくなると言うが、あれは嘘だ。

愛があるから、戦争が起きるのだ。

人が人を愛することをやめたら戦争はなくなる。
自分の子を愛して隣の子を愛さないからいけない。
自分の国の子供のほうが隣の子供よりも可愛いから、戦争が起きる。
愛する子孫へ、その将来に、利益をもたらせよう、と略奪は、始まる。
自分の分じゃない。
愛する子孫への為の行為が、戦争だ。

戦争まで、いかなくても、愛深き故の罪のなんと多いことか!?

理論で考えれば、人は殺してはいけないし、人類は滅亡しないほうがいいことは当然だ。
そんなことは、わかっている。
でも、それをしてしまうのが人間なのだ。


釈迦の言葉で「愛」とは「愛欲」の事を指す。
ほとんどの人が言っている愛は、この愛欲=情動のことだ。

仏道では情動的な愛は本来あってはいけないもの、なければないに越したことはない。

それを「無常」という。

でも、人間には愛がいる。


なぜ?


人が死ぬと困るという情動は、古い大脳皮質ではなく前頭前野で起きていることがわかった。
これが本当の愛である。だって本にそう書いてある。

自分の子供でなくても、赤の他人の子供でも死ぬと嫌だという慈愛の心だ。
これを社会的情動と呼ぶらしい。

これが抽象度の高い愛。キリスト教でいう神の愛。戦争を起こさない脳の愛だ。

脳内でいう脳幹の中心部で起きている現象が愛欲で、
前頭前野内側部で起きているのが社会的情動であるという。
この2つを混同してはいけないのだ。
社会的情動がないと戦争が起きてしまうのだ。
情動に勝てるのは倫理であるが、最終的には論理だけでは駄目なのだ。
論理的な判断をするときに社会的情動が必要なのだ。
そして社会的情動は、論理があって初めて成り立つのだ。

愛欲だけでは絶対的差別を生み出す。
自分の子は可愛い、他の人の子は可愛くない、では駄目なの、だ。
自分の子供を愛するというは、哺乳類なら全部やっていること。
動物として当たり前のことで、わざわざ褒める必要などない。

自分の子供と同じように隣の子供を愛せるようになって、初めて社会的情動となる。

人間にはまず愛欲があって、その次に論理があり、いちばん高いところに社会的情動(=慈愛)が存在するのだ。

これが出来れば、世界は本当の愛(=慈愛)で満ち溢れ、
決して戦争の起こらない世界(=HEAVEN)が実現する。


そう、これが「HEAVEN」だ。


BUCK-TICKの最新楽曲に、ある世界は、愛か?

真っ白な“愛”。



この彼らの中期を総括したような内容の楽曲「極東より愛を込めて」の愛が、
バイブルに記されている“愛”を唄っていることは、
自明であるが、2009年9月20日の【イナズマロック フェス 2009】
滋賀県草津市 烏丸半島芝生広場(滋賀県琵琶湖博物館西隣 多目的広場)
のBUCK-TICKライヴのトリに、演奏されたこの「極東より愛を込めて」が、
印象的に瞼に残る。

この2008年の12月29日、日本武道館【THE DAY IN QUESTION】の
「極東より愛を込めて」のライヴ映像は、2009年2月にスカパー!で放映されるライヴの模様を伝える、
番組宣伝用の一曲として、各ネット上でストリーミングとして、公開された映像でもある。

これを以って、この後、リリースが決定していたニュー・アルバム『memento mori』の、
タイトルから流れるイメージと【愛】と【死】のモチーフの妄想が巻き上がる。

当然と言えるが、この日の「極東より愛を込めて」は、
見事なライヴ・パフォーマンスとなった。
ギブソン・サンバーストES355を構える今井寿の左手が、天高く繰り返し突き上げられると、
大観衆の怒号のような声援で、日本武道館は揺れ、
櫻井敦司が、シャレコウベのステッキを突きながら、片足をモニターに挙げて悲哀を叫ぶ。

まるで戦場そのもの臨場感で、迫る眼潰しフラッシュ!

何度見ても、この「極東より愛を込めて」のパフォーマンスは、
ドラマチックに衝撃的で、観ているものを圧倒する迫力を解き放っていた。


「愛を込め歌おう アジアの果てで
 汝の敵を 愛する事が 君に出来るか

 愛を込め歌おう 極東の地にて
 悲哀の敵 愛する事が 俺に出来るか」



フラッシュが止まり日本武道館が、真っ赤に染まり、それがやがて紫に変わるとと、
櫻井敦司を先導師としてオーディエンスの大合唱が巻き起こる。

テルミンに翳される今井寿の掌。
カオスを創り出すこの手の平に、世界が握られてしまっているような気がしてくる。
そして、【TOUR 2007 天使のリボルバー】でも魅せた“足テルミン”が炸裂する。
今井寿のウエスタン・ブーツの尖った底面が顔を出すと、
戦慄のノイズ・アタックが、日本武道館を切り刻む。

ヤガミトールがダイナミックなドラムプレイで、、辛うじてこの場を現実と繋ぎ止めている。
樋口“U-TA”豊が、ストーリーを進行すべくベース・フレーズを紡いで逝く。

愛が戦いの原因か?

愛が憎しみの原因なのか!?

そして、愛を救うのは、愛しかないという相反する事実。

そんなストーリーが、この「極東より愛を込めて」で進行しているのは、
この日、日本武道館に集結した人達には、自明の事実だ。

そして死は・・・!?

髑髏ステッキを支えにしながら、フラフラとモニターの上に中腰で立ち上がり唄う櫻井敦司。
ギブソンを掻き毟りながら、クルクルと回転する今井寿の編み上げの髪の毛は揺れる。

自らの敵こそ、愛する相手である、という究極に選択肢に、
人間の愛を説く先人の答えるべく、
僕たちは、此処に存在している。

抽象度の極めて高い地点に辿り着きそうな感覚は、
この会場にいるすべての人達が、感じている共鳴だ。
そこに、きっと“神”はいる。

そう、確信出来る。

「50代も半ばを過ぎ、60を目前にして、年を取るということを前向きに受け入れることを覚えたよ。
若い頃は気になってしかたなかった様々な事柄が一つ一つ消えていくというか、
徐々に気にならなくなっていって。
そして最後はほんのわずかしか残らないという。
人生においてごく本質的に大切なものしかね。
年を重ねるというのは、自らの経験の無意味さを受け入れることであり、その内の二つ三つ程度しか、
本当に重要なものなんてないという事実を受け入れることでもある。
それは大切な人たち……家族や友人や妻子への愛だったりするわけだけど。
でも若い頃はなかなかピンとこないものなんだよね。
キャリアや『こうあるべきだ』ということに縛られてしまうから」

(デヴィッド・ボウイ)


こう語るカリスマはデヴィッド・ボウイ。
恐らくは、この「極東より愛を込めて」の歌詞を描いた櫻井敦司の、
最もフェイバリットなスーパースターだ。
地球に落ちてきた異星人だったこともある。

彼がデビューしたのは、恐らく多くの人々の想像よりは遥かに早い、
1960年代の後半である。
それまでは、彼もオーソドッククスなロックを奏でる青年であった。
1964年6月5日に「デイヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で、
シングル「リザ・ジェーン」を発表し、その音楽活動を開始している。

その後、ソロシンガーを目指した彼は1969年、
前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、
アルバム『Space Oddity』を制作。
アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリースし、
人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。



デヴィッド・ボウイは1970年、ミック・ロンソンをサウンド面で迎え
アルバム『世界を売った男 (The Man Who Sold The World)』をリリースした。


歌詞に哲学的な要素が含まれるようになり、
1971年のアルバム『ハンキー・ドリー (Hunky Dory)』でその路線は更に深まり、
ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。

デヴィッド・ボウイが20代の頃、
当時の英国の若者の通過儀礼のごとくニーチェにはまっていた。

『ツァラトゥストラはこう語った』(Also sprach Zarathustra)は、
1885年に発表された、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの後期思想を代表する著作。

この著作は、「神は死んだ」など、
それまでの価値観に対する挑発的な記述によって幕を開け、
ツァラトゥストラの口を通じて超人の思想が説かれている。

第三部あたりから、この作品を決定づける思想である永劫回帰が説かれる。
(世界は一回的ではなく今この生この瞬間がまったく同じに永劫繰り返される、という世界観である)

デヴィッド・ボウイはニーチェの説くこの「超人」思想に完全賛成していた訳ではなかったことが、
「世界を売った男」の歌詞によりよく表れているような印象を受けることができる。 

人は進化するかもしれないけれど、そのことによって失うものに未練がある、
割り切って誰も見たことのない本当の「神」の領域に突進することに
どうしても完全なる価値観を見出せなかったのではないか?

理解できない追いつけない優れた者への恐れと恨み(妬み)。
この感情は悪だと言い放つけれど、この人間的な気持ち。

人間の進歩の源でもある。

それを捨てて上の存在へ解脱していくことって果たして美しいことなんだろうか?
とこの楽曲は歌っている。

それは、各個人の哲学になるのであるが、ここでは、
「世界を売った」とは上の段階の存在に進むために、
通常の人間の忌むべき感覚を捨て去ったこと。

「ずっと前に死んだはずの君」は人間のころの自分もしくは自分の人間性(忌むべき姿)。

でも結局、
その死んだ自分や人間世界へのこだわりから離れられず、
ある段階「階段の一段の段上」までひきづり一緒に息絶えてしまう。

そして、そのことをどこかで受け入れている。
自分が苦しんだ世界への愛着を見捨てきれない
無価値なものにも価値はあるのか。

・・・。

デヴィッド・ボウイは、そんな風に「おまえ」(自分と彼双方)へ自問しつづける。
「売った」とは何を売ったのか?
「彼」は誰か?
どこへの「階段」の途中なのか?
人生に悩む聞き手には想像させる余地がたっぷり。
深みにはまると抜けられなくなる世界(物語)。
そんな点で、とてもデヴィッド・ボウイらしい作品といえる。
僕はこの楽曲を、ニルヴァーナの『MTV・アンプラグド・ニューヨーク』で知る。
1994年4月のカート・コバーンの死後初めて発表されたアルバムである。

そして、それに被さりあうように、僕の頭にはBUCK-TICKの「die」が鳴り響いていた。

そうか、櫻井敦司は、なぜ、デヴィッド・ボウイが好きだ。
そう、言ったのか、少しだけ、わかったような気がした。




カート・コバーンに死後公開された日記の中でお気に入りのロックアルバム50枚を挙げている。
『David Bowie - The Man Who Sold The World(世界を売った男)』のアルバムは
この45枚目に挙げられている。



デヴィッド・ボウイは1972年、傑作コンセプト・アルバム
『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』という
長いタイトルの彼の代表的なアルバムをリリースする。

当時、流行していたハードロックな長髪を短く切り、真っ赤に染めて、立ち上げる。
髑髏みたいにやせ細った顔を更に鋭角的に魅せる為に、眉毛を剃り落とした。

コンセプトに基づいて架空のロックスター=ジギー・スターダストを名乗り、
そのバックバンドであるスパイダーズ・フロム・マーズを従え、
世界を股に掛けた一年半もの長いライヴツアーを行う。

初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装をグラマラスに身に纏い、
(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、
奇抜なメイクへと変貌していった姿は、まさしく異星人。
アメリカツアーの最中に録音されたアルバム『Aladdin Sane』は、
架空のロックスター=ジギー・スターダストを演じるデヴィッド・ボウイというよりは、
架空のロックスター=ジギー・スターダスト=異星人そのもののアルバムだった。

しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、
デヴィッド・ボウイはこのジギー・スターダストを永遠に葬った。

ジギーに【死】を与えたのだ。

この一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、
デヴィッド・ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。

ジギー・スターダストを演じることをやめ、一息ついたボウイは、
子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『Pin-Ups』を発表し、
それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド
「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、
盟友のギタリスト:ミック・ロンソンとも離れることになった。


1970年代初期、デヴィッド・ボウイは、
すぐ彼の作品とわかるような巧みなポップやロックのリフを書くことに長けていた。
僕は、このセンスが今井寿に似てるな、と想った。

彼の代表的アルバムの長いタイトルとなったこの楽曲「Ziggy Stardust」ほどわかりやすい例は、
他にはない。

この楽曲で、ボウイは、ロックスターを疑似でパフォーマンスするロックスターを唄った。
今でいう仮想現実を仮想現実の世界に創り上げるような感覚だ。



その中で、ジミ・ヘンドリックスのように、ジギー・スターダストは、
「Played it left hand. But made it to far(左手で演奏し、やりすぎちまった)」ようだ。
そして、ファン達が ヘンドリックスにドラッグを提供し、
結果的にそれが彼を殺すことになったことについて、ボウイは唄う。

さらに、こう続けて唄う

「ファン(キッズ)たちがその男を殺したとき、僕はバンドを解散しなくてはならなかった」

そしてバンド演奏が止んだ直後の「Ziggy played the gutiar(ジギーはギターを弾いた)」
という熱唱、
アルバムの大団円にはパワフルなドラマが用意されていた。

グラム・ショウを締めくくる「Ziggy played the gutiar」という最後のラインは、
混乱というロックの墓碑銘として刻み込まれるような名文句だ。

アルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』は、

過去のロックスターのスターダムが現在と混合する瞬間が描かれている作品集と言える。
発表当時のレコード盤のBサイドのオープニング曲「Lady Stardust」では、
最高のライバルであったT.REXのマーク・ボランも登場する。

ピアノが印象的な、聴きやすいポップソングだが、
マーク・ボランと彼の神話を題材とし、
ロックの実際の歴史を小説家して記述することによって、
それを自分自身の世界に投影したアルバムを制作するアイデアへと膨らませたのだ。

そしてエンディングを飾る「Rock’n’ Roll Suicide(ロックンロール自殺者)」は、
アルバムA面の最初の楽曲「FiveYears(五年間)」で幕を開けた時と同様の完璧さで、
溢れるパワーと荒廃とともに、このアルバムのフィナーレを飾る。

楽曲の最期に挿入されたオーケストラが華々しく本物のロック劇場の幕を閉じるのだ。

デヴィッド・ボウイはジギー・スターダストについて

「自分はキリストの生まれかわりだ!」

と舞台上で神がかってしまった歌手ヴィンス・テイラーを核に
色々なロック歌手の特徴を加味して作り上げたキャラクターだと述べている。

確かにこのアルバムのジギー・スターダストの一生は“イエス”の生涯の模倣である。

イエス・キリストは宇宙人ではないが、
ある使命を持って地球上に生まれ、
新しい考えを唱え、希望を失った世界に新風を吹き込み、救いを待ち望んでいた人々に歓迎される。

でも最期は、奇跡を起こせず弱者の悲しみを一緒に感じ泣いてるだけの奴ということで、
現実の奇跡や救いを求める人々に、彼の愛が理解されなかったから民衆から見放され、
政府から追われ、弟子にも次々と見放され、
十字架を背負ってゴルゴダの丘まで行進することとなる。

ここの行進から十字架にかかるまでの状況が
イエス=ジギー。
処刑を待つ野次馬民衆=観客。
元熱狂的なファンかバンドメンバー=元弟子
なのではないか?という仮説である。

ボウイが唄う最後の

「あなたは独りではない」

これは見捨てながら最後までその場を離れられずに右往左往する弟子たちが
死の行進を遠巻きから見つめながら心の中で叫んでいた言葉に重る。

イエスは決して誰も非難せず、そんな弟子たちの後悔の苦しみも背負い込んでしまう。

「裏切ってごめんなさい。
ああ非難してくれれば気が楽なのにあの方は全てを独りで背負ってしまった」

「死」によって使命が果たされる。そうプログラムされた人生。

永久に忘れられない傷を人々の心に残し、後のファンは彼を死に追い込んだことを後悔し、
語り部になることを決意する。

このアルバムはジギー・スターダストの存在を記録した、“聖書”なのだ。



「ロックは死んだ」



とは、セックス・ピストルズのジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)の名文句であるが、
意味は、哲学者フリード二ヒ・ニーチェによる「神は死んだ」と同義である。

商業的マーケット方程式とファンの消費活動によって、「ロック」は死に、
保守的なカトリック教会の宗教活動と保身的教義の数々または教会自身の権威によって、
また「神」も死んだ。

デヴィッド・ボウイは、彼自身のアイデンティティーによって
「ロック」を徹底的に殺す必要があったのだ。
しかし、それをループさせ、ボウイ自らのセールスに利用する姿こそ、
相矛盾を標榜する人間(David Bowie)そのものだ。


そんな人物に櫻井敦司が憧れて当然である。


デヴィッドは、イエスを模倣したジギーを唄い。
櫻井は、ボウイを模倣した愛と死を唄う。


BUCK-TICKのメジャー・デビューした1987年にリリースしたデヴィッド・ボウイのアルバム
『Never Let Me Down』を最後に彼は、ソロのロックスターとして活動に一時、終止符を打つ。
近年のレパートリーを中心に演奏した1987年の【グラス・スパイダー・ツアー】は、
周りからことごとく酷評されてしまう。
アヴァンギャルドを狙いたかったのだろうが、大袈裟で面白みもなく、
実のところ目を覆いたくなるほどで、、結局趣味の悪いロック・ミュージカルの城に守られた、
過去の英雄という言った評価であった。
ボウイがつまらないディティールに執拗に拘ったことで、
彼のパフォーマンスを見に来たファンの多くが置き去りされるという誤算を生み出してしまう。
舞台上で展開される寸劇は、前20列目以降の席に座る観客には、まったく見えなかったのだ。
まるで、誰か別人がデヴィッド・ボウイに似せて作ったアーティストのサウンドのように聴こえる。
そして、この音楽的な停滞状態を解消すべきカンフル剤となったのが、
その2年後に発表される彼のロック・バンド:ティン・マシーンのアルバムとなった。

そして、再びソロ・アルバムをリリースしたは1993年4月5日リリースの
『Black Tie White Noise』。

BUCK-TICKが「die」を唄い暗黒世界への扉を開いた瞬間だ。

そして、BUCK-TICKが決定的なターニング・ポイントといえる
アルバム『Six/Nine』を発表した1995年に、
ボウイも、彼のダーク・サイドを全面に押し出したアルバム『1.Outside』をリリースしている。
ボウイは、前作『Black Tie White Noise』にて、
10年ぶりにナイル・ロジャースとの共同プロデュースで作品を作り上げ、
自ら作り上げたキャラクター・イメージから解放され、自分自身のことを歌い上げた。

人間デヴィッド・ボウイとしての再出発とも言えよう。

しかし、『1.Outside』ではベルリン3部作と言われた『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』で、
共にしたブライアン・イーノを再びプロデューサーに迎え、
当時の作風を思わせるような作品として仕上げて来た。

かつて『ダイアモンドの犬』で作り上げられた「荒廃した未来」の世界観を踏襲し、
今度は「荒廃した現代」をテーマにしたといえる。

ライナーノーツにはサイコホラー映画のような猟奇殺人をテーマにしたストーリーが綴られ、
アルバムに散りばめられた曲群によって完成されていく構成は、
かつての自身のアルバム『ジギー・スターダスト』と同様である。
また、シングルカットされた楽曲「ハーツ・フィルシー・レッスン」は、
同年公開されたサイコホラー映画『セブン』のエンディング・テーマに起用された。

本来、デヴィッド・ボウイはこのコンセプトを全5部作で作成する予定であった
(英題が『1.OUTSIDE』となっているのはそのため)。

しかし、アルバムコンセプトの難解さと陰鬱に満ちた楽曲が多いゆえ、
一部のボウイ・マニアの間では『ロウ』以降の最高傑作と絶賛されたものの、
商業的には不振で、予定されていた続編『インサイド』がお蔵入りになってしまい、
この作品のコンセプトは未完のままである。


そして、BUCK-TICKが、この『極東 I LOVE YOU』をリリースした2002年。
デヴィッド・ボウイはアルバム『ヒーザン(Heathen)』をリリース。
22年ぶりにトニー・ヴィスコンティのプロデュース作ということもあり、
往年のボウイ・ファンからも注目を集めていた。
またゲスト・ミュージシャンにはピート・タウンゼントやデイヴ・グロールらが参加しており、
話題性も十分に彼の音楽世界を描いている。

驚愕すべきは、彼の予知能力ともいえる時代の空気感である。

前年の世界中を震撼させた同時多発テロ事件の傷痕も生々しいニューヨークで、
デヴィッド・ボウイは暗闇のアポカリプスを唱える。
アルバム・タイトルは異教徒の意味で、明日の見えない時代を生きることにテーマを重ねている。
インタヴューによると歌詞は同時多発テロ以前に書いていたそうだが、
不穏な空気をボウイは感じ取っていたのかもしれない。

サウンドについてもオーバー・プロデュースの楽曲は一切なく、
シンプルかつソリッドな音色とアレンジで硬質な輝きを持っている。
ストリングスの流麗なアレンジもトニー・ヴィスコンティの手腕が冴えている。
種明かしのようになるが『Heathen』のレコーディングに取りかかる前に、
ボウイとヴィスコンティは60年代の楽曲などのセルフカヴァーを収録した
アルバム『Toy』をレコーディングしており、それが本作の下地となっている。
また、 同年のツアーでは『Low』全曲と対比して演奏するという、
驚きのセットリストが組まれたこともあったが『Heathen』の楽曲群も聴き劣りはしなかった。


栄光の過去に負けないリアリティ=現在を持つアーティストは、デヴィッド・ボウイは、
この2002年の「100人の偉大な英国人」の中に、
ウィンストン・チャーチル、ジョン・レノンといった人物と並んで選出された。

BUCK-TICKとDAVID BOWIEとの共通点は、
生き永らえ、伝説と化した点に尽きる。

彼らの他にも、その長いキャリアのまま伝説化したモンスターは数多く存在するが、
まさしく、神的なカリスマから、パーソナルな愛のカタチに戻っていったリヴィング・デッドは、
彼らくらいのものだろう。

上記のデヴィッド・ボウイに言葉に胸打たれる。
地球に落ちてきた異星人は、年を重ねることで、自らの経験の無意味さを受け入れ、
その内の二つ三つ程度しか、本当に重要なものなんてないという事実を受け入れるのだ。

それは大切な人たち……家族や友人や妻子への愛だったりするわけだけど。


あなたの隣の人を愛せばいい。

それが、悲哀の敵かどうかは、次第に、どうでもよくなる、だろう。


そう、あなたの“鼓動”さえ聞こえれば・・・。


それで・・・。



$【ROMANCE】




極東より愛を込めて
 (作詞:櫻井敦司 / 作曲:今井寿 / 編曲:BUCK-TICK)



見つめろ 目の前に 顔を背けるな
愛と死 激情が ドロドロに溶け迫り来る

そいつが 俺だろう

俺らはミナシゴ 強さ身に付け
大地に聳え立つ
光り輝くこの身体

そいつが お前だろう
今こそ この世に生きる意味を

愛を込め歌おう アジアの果てで
汝の敵を 愛する事が 君に出来るか
愛を込め歌おう 極東の地にて
悲哀の敵 愛する事が 俺に出来るか

泣き出す 女の子
「ねえママ 抱き締めていて もっと強く!」

愛を込め歌おう アジアの果てで
汝の敵を 愛する事が 君に出来るか
愛を込め歌おう 極東の地にて
悲哀の敵 愛する事が 俺に出来るか

見つめろ 目の前に 顔を背けるな
愛と死 激情が ドロドロに溶け迫り来る


$【ROMANCE】