「受けるより、与えるほうが、幸せ」
(イエス・キリスト)
「HEAVEN」(ヘブン)は、BUCK-TICKの公式HPにて、
楽曲の一部分が、リリース前に公開され、
更に、ネット・サービスのでのブログ・パーツとして、
個人のパーソナルなスペースにも、進出し、新たな販促活動とともに、
BUCK-TICKという稀有な存在の“ロック・バンド”の在り方を示した。
2008年12月17日にBMG JAPANよりリリースした26作目のシングルとして「HEAVEN」はリリースされる。
この時点では、ほとんどBTファンは、動画サイトなどで、すでにこの楽曲を聴き込んでいたし、
前哨戦とも言えるライヴツアー【FISH TANKer's ONLY 2008】でライヴ演奏が披露され、
購入者の心理としては、やっと発売日が訪れたという感覚であっただろう。
よって「HEAVEN」が発売される12月17日には、
ほぼ、この楽曲は、多くのファンに、知れ渡っていたし、その後に計画される
2009年の衝撃的とも言えるニュー・アルバム『memento mori』への導火線は、
確実に、勢い良く火が点いていた、と言えよう。
・・・。
私見であるが、
僕は、初め、この「HEAVEN」が気に喰わなかった。
潔白な「HEAVEN」の白い世界観が、歪な“美しさ”をこれまで誇って来た
BUCK-TICKの美観とは、少し、違うような、“感覚”が、したからである。
この“感覚”を言葉に、言い表すのは、難しい。
“違和感”とでも、言おう、か。
彼らに、似つかわしくない“スノッブ”さを感じ取っていた。
それは、もしかすると、楽曲そのものよりも、
リリースの意図が、明確に表示されてしまったかのような、
この真っ白なイメージの所為であったかも、知れない。
その後展開される、第二弾シングル「GALAXY」の戦略が、“真っ黒”であったから、
尚更、この「光と闇」「正と負」「希望と絶望」のような二極化された世界観が、
彼らBUCK-TICKには、似つかわしくないのでは、ないか?というものだったかも知れない。
それまでの彼らは、その両方を内包した歪な美しさを讃えながら、
疾走していたと感じていたからだ。
逆説的に言えば、彼らが、「死」をモチーフに唄うことは、
すなわち、そこに、内在する「生」を描くこと他ならなかったし、
醜いもの、惨いものを描くことで、“Loop”する美しさや、愛らしさを。
同じ原理で、ぬくもりや情愛を唄う過程で、非情さや、無常感を訴えていたように、
そんな風に、映っていた。
結果として、天の邪鬼とも言えるパラドクスを含むメビウスの輪を、
リスナーの気質として装備してしまっていたのだろう。
スノッブ(snob)とは一般に俗物、
またスノビズム(snobbism)は俗物根性と訳される。
多くの場合「知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋」
「上位の者に取り入り、下の者を見下す嫌味な人物」
といった意味で使われる。
元々イギリスの学生の間で使われていた隠語であったらしい。
語源については諸説あるが、代表的なものが上記の由来となる。
そのひとつがラテン語説で “sine nobilitate(貴族階級でない者=平民)”の短縮形である。
紳士気取りのエセ貴族と言えよう。
「成り上がり」とも言えるだろうが、猥雑なロック・シーンから出て来て、
ある一定のスターダムに登り詰めると、ロック・ミュージシャンは、
自己破壊的な行動に出るパターンと、まるで、生まれつき貴族であったかのように振る舞うパターンがある。
出版物では、矢沢永吉の人生を描いた『成りあがり』(著者:矢沢永吉、インタビュアー:糸井重里)
が有名であるが、急激に身分の低い者が出世したり、貧民が富豪になる事を指す。
そのような者を成り上がり者と呼び、多くの場合嫌味として使われる。
もしくは蔑視、あるいは妬みの意味合いが強いだろう。
こういった存在に、ひとつのロック・バンド“BUCK-TICK”成ってしまうのではないか?
という“不安”で、あった可能性は、ある。
誤解を覚悟で、言ってしまえば、その前年の“20周年”という事柄自体に、
大した“意味”などないのだ。
それは、彼らメンバーが意図せずに、オリジナルなまま過ごせた時間に、他ならなかった。
それ自体に意味などないのだ。
しかし、貴重であったのは、その時間の経過のなかで、創造されていった機能美や、
人間関係を、他のバンドが維持することが困難であったという事実と、
それを無意識の内に、内包した音楽を、彼ら自身が自信を持って贈り出し、
その受け手もまた、その世界に感化されていった美しさである。
しかし、世間は、どうしても、時間の長さにクローズアップしてしまう。
確かに、メンバーは、それに固執した楽曲を描く様なことはしない、と明言していたが、
その世俗の見方という魔物が、彼らに襲い掛かる。
“祝福”と“感謝”という一面では、それは、それまで歩んで来た軌跡を確認するいい切欠にはなった。
しかし、それに反逆するハングリーさこそが、BUCK-TICKの真骨頂とも言えた。
彼らBUCK-TICKは、常にマイノリティであることを嗜好した。
それは、きっとマイノリティーこそが、この世界を変えて行くと、
どの時点かは、明確ではないが、気付いたからではないだろうか?
ポピュラリティに、そんな意味がないことは、
“売れる”という経験を基に、感じ取っていったのだ。
そして、己のリアルに忠実であることこそが、自身を変え、それが伝播していくように、
周辺の小さな世界を変え、ゆくゆくは世界全体を変えて行くプロセスを知り得ていた。
それは、学習によって、学んだモノでは、勿論ないが、
感覚だけに頼って進行したプロセスではなかったハズである。
その過程で、自己満足の自慰行為に陥らない為に、
ポップ性、キャッチー性を上手くミックスさせ、独善的な世界の押し付けをしなかったことが、
その証拠となる。
それが、BUCK-TICKの極彩色であった。
神聖なカラー“純白”によって、それらすべてを塗り潰してしまった感じが、
僕には、したのかも、しれない。
それが、なんだったのか?
自分自身で確認出来ないまま、僕は始めてしまったブログ【ROMANCE】を描き続けていた。
「ひょっとして、僕は、嘘っぱちを描き続けているのかも、知れない、な」
と想いながら・・・。
「HEAVEN」リリースの翌日12月18日からライヴツアー化した年末イベント
【THE DAY IN QUESTION】が開始される伝説となっている12月29日の日本武道館公演までの
完全パッケージ、ライヴツアーとして定番化したといえよう。
この2008年の【THE DAY IN QUESTION】は、初進出と言える地区・会場での開催が報じられる。
これも、ローカルなファンへのニーズに応える為のバンド側の想いである。
12月18日、京都会館第一
12月23日、アクトシティ浜松
12月29日、日本武道館
とライヴツアーは進行することが決定していて、
翌2009年には、新春1月14日に27枚目を数える先行第二弾シングル「GALAXY」のリリース。
及び2月18日、16枚目のアルバム『memento mori』のリリースが決定していた。
また同日、シングル盤「HEAVEN」及び「GALAXY」の両方を購入した者を対象とした
完全招待制プレミアムライブを赤坂BLITZにて開催することを発表していた。
この『HEAVEN/真っ赤な夜』は、
シングルとしては前作「Alice in Wonder Underground」から約1年4ヶ月ぶりのリリースとなった。

人は誰も幸福に生きたいと願う。
だが幸福を定義するのは思いのほか難しい。
ギリシャの哲人のプラトンの答えは簡潔で美しい。
彼にとっての幸福とは、
イデアの世界に秘められた「真善美」を体験することだった。
「天国」とタイトルされるこの最新楽曲は、完全無欠の「真善美」と言えた。
人生はまさに、そういった至高の存在と出会うための長い旅だ。
現在でも、カルト宗教からエコロジーまで、
世俗の文明を拒絶した超越的な価値を求める人の列は続いている。
僕は、そうした試みを否定する者ではないが、その列の最後尾に並ぼうとは思わない。
僕の貧弱な知性ではそれが真実か妄想かを判別できないからだ。
リリース前から、へヴィ・ローテーションされる「HEAVEN」のヴィデオ・クリップも、
完璧な「真善美」を持ちうる美しい映像であった。
那須高原で撮影された幻想的な空と雲を収録した映像は、
2003年の年末に幻の未発表楽曲としてリリースされた「幻想の花」のヴィデオ・クリップを思わせる。
前アルバム『天使のリボルバー』を象徴したかのような白い翼の女神が光臨し、
櫻井敦司の胸から放たれる
“赤いカーネィーション”と“白いカーネィーション”を浴びて、頬に涙を流す。
まるで、初老の聖人みたいな顔をした今井寿が、これまた白いスタビライザーのアーミングから、
「JUPITER」で2008年に放射し続けたShootin' Starを、
この高原から天空むけて突き上げる。
この美しき翳りゆく世界では、ヤガミトールも、星野英彦も、樋口豊も“真っ白”な純白だ。
最後には、純白のジーザス:櫻井敦司は、まさしくメシアの如く宙に浮き上がってしまう。
歌詞を担当した櫻井敦司も、ニュー・アルバム制作の後半に上がった「HEAVEN」のデモにも、
この“天国”というタイトルが付いていて、そこからイメージを膨らませて描いた歌詞であると発言している。
櫻井は途中、タイトルの変更も考えたが、最終的に「HEAVEN」に納まった旨を語っているが、
この“天使”“女神”“天国”というキーワードから浮かび上がったのが、
この「HEAVEN」のヴィデオ・クリップや一連の活動再開の“白”、
また、ライヴツアー【FISH TANKer's ONLY 2008】での白い貴公子の衣裳に繋がっていった。
2008年、年末のBUCK-TICKのバンド・カラーは、まさしく、この“純白”であったし、
これまで、様々な色彩のカラーを放つ“極彩色”なBUCK-TICKのイメージは、
ここに、真っ白に、染められた。
そして、これは、最初からあったコンセプトかどうかは不明であるが、
「GALAXY」の“BLACK”が、この“純白”を真っ赤に染めて逝くことになる。
そう、対蹠的とも言えるカップリング楽曲の「真っ赤な夜」こそが、
デジロックの最終形態を現したアルバム『Mona Lisa OVERDRIVE』の象徴的なロック「残骸」から、
今井寿のソロ活動“Lucy”の“ロケン”と挟んで昇華した『天使のリボルバー』の、
BUCK-TICK流ロックンロールの真髄であったと言えよう。
(※事実のこの2曲がニュー・アルバムのオープニングとエンディングを飾ることになる)
【FISH TANKer's ONLY 2008】でのライヴアクトを観たオーディエンスには、
どう公平に見ても、あの初期ビート・パンクを感じさせるエッジの効いた
ラウド・ギター・サウンドから受ける印象は、こちらの「真っ赤な夜」にフィットする感覚でもあり、
新作アルバムに先行するイメージとしての「HEAVEN」に違和感と感じたのは、
逆に、健康的な事であったかも知れない。
「真っ赤な夜」は、素晴らしいBTロックをシェイプしていた。
印象的で疾走感のある凶暴なギター・リフに絡み合う熟練されたリズム隊のダイナミズム。
そこに、まさしく、渾身とも言える櫻井敦司のソウルフルなヴォーカルが襲い掛かる。
見る見る間に、目の前を、“真っ赤に”染めてしまうような激情。
“雨”“夜”という櫻井敦司を体現するようなモチーフ。
峻烈であった。
対称的に「HEAVEN」が重厚で、荘厳な“純白”であり、
鈍く、そして、重たく、我々の胸の「密室」に鳴り響いていた。
が、しかし!しかしである。
ややスタッフの反対を押し通すようなカタチで、先行第一弾でのリリースを、
総監督:今井寿が、「HEAVEN」に決め強行したのには、意味があった。
僕は間違っていた。
「HEAVEN」は、シングルに相応しい一曲だ。

18世紀末のイギリス人ベンサムは
「幸福とは快楽の充足であり、社会全体の快楽の増大がすなはち善である」
と考えた。
神なき時代に幸福を定義しようとすれば功利主義に拠って立つしかほかない。
人間が神の玉座を占める社会では、法に従う限り、欲望を満たすあらゆる行為が許されている。
もっともベンサムは自分勝手な行動を勧めたわけではない。
人は一人では生きていけない。
自分が幸福に生きるには共に生きる人にも幸福でいて欲しい。
夢見る現実主義者ベンサムは功利主義が共同体への貢献に繋がることを期待していた。
幸福のカタチに諸説あっても「自由」が幸福の条件であることは異論のある人はいないだろう。
奴隷が幸福になれないのは自由を奪われているからだ。
特異な趣味を御持ちの方は別であろうが。
我々は自分が自身の支配者であり、誰もその権利を侵すことはできない。
ヒトは一匹の動物として生まれ、成長し、老い、死んでいく。
この世に生を受ける前に親や社会を選ぶことはできない。
ほとんどの日本人は、膨大な財政赤字を抱え、
少子高齢化に苦しむこの国とともに21世紀の初頭を生きていくことになるだろう。
そう考えれば、人生の大半は運命と呼ばぶほかないモノによって、
あらかじめ決められた道を歩むことになる。
だからこそ我々は、残された自由を大切に生きるのだ。

そして今井寿の公表したニュー・アルバムのタイトルこそ
『memento mori』。
或る人形作家の作品から、このタイトルを想い付いたと語る今井寿。
そして、「HEAVEN」に載せた櫻井敦司の歌詞。
これが、意味するものは、今井寿による「JUPITER」である。
彼は、至高とも言える櫻井敦司/星野英彦の傑作中に傑作「JUPITER」を、
この「HEAVEN」で焼き直した。
メメント・モリ(memento mori)は、
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。
日本語では「死を想え」「死を忘れるな」などと訳される。
これは、今井寿がニュー・アルバムのタイトル名を公表した瞬間に、
この現実世界に一気に蔓延したと言えるだろう。
それほどまでに、「死生観」「自分が死すべきものである」ということは、
人々に深い衝動を思い起こさせた。
古代ローマでは、これは将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた、と伝えられる。
日本語でいうと「諸行無常」とも言い変えられるだろう。
将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない、
ということを思い起こさせる役目を担った。
「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
そしてこの当時から「メメント・モリ」の趣旨はcarpe diem(今を楽しめ)という逆説的な意味も含んだ。
「ともに、食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」
というアドバイスである。
これの起源は『聖書』にも存在し、
イザヤ書には「食べ、飲もう。我々は明日死ぬのだから」とある。
ただし、この言葉はその後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。
天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、
死が意識の前面に出てきたためである。
キリスト教的な芸術作品において、「メメント・モリ」はほとんどこの文脈で使用されることになる。
キリスト教の文脈では、「メメント・モリ」はNunc est bibendumとは反対の、
かなり徳化された意味合いで使われるようになった。
キリスト教徒にとっては、
死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、
来世に思いをはせる誘引となった。
「die」で死を新たなる世界・宇宙への旅立ちと解釈したBUCK-TICKにとって、
これほど、似つかわしい言葉は、存在しないだろう。
「HEAVEN」の深淵な“白い死”の中に、
この重厚で壮厳な世界が繰り広げられている。
「生まれ 泣き叫び 笑い 愛し 恋を・・恋をしよう」
そう、唄う櫻井敦司のREMEBER TO DIE。
【LOVE】&【DEATH】こそ、
すなわち「HEAVEN」・・・。
この真っ白な世界なのだ。


HEAVEN (5:22)
(作詞:櫻井敦司 作曲:今井寿 編曲:BUCK-TICK)
ラララ・・
その目はCRAZYでLOVELY BLUE BLUE SKY
生まれ 泣き叫び 笑い 愛し 恋を・・恋をしよう
金網越し交わしてるKISS
国境 抱き合うANGEL舞いあがる羽の 影は一つ
君は舞う 空を染めて
君は舞う 空いっぱい舞いあがる
この素晴らしき 生まれゆく世界で
桜咲く 風に吹かれて
この美しき 翳りゆく世界で
胸に咲いた 赤いカーネーション
ラララ・・ ラララ・・
その目はCRAZYでLOVELY IN THE SKY
もがき 歌歌い 踊り 愛し 恋を・・恋をしよう
銃声 眠れない夜も終わる
雨に濡れた君 まつ毛甘く震わせて 蝶に成ったよ
君は舞う 風と踊る
君は舞う 空いっぱい舞いあがれ
この素晴らしき 狂いゆく世界で
桜咲く 風に吹かれて
この美しき 腐りゆく世界で
胸に挿した 白いカーネィーション
この素晴らしき 生まれゆく世界で
桜咲く 風に吹かれて
この美しき 翳りゆく世界で
胸に咲いた 赤いカーネィーション
ラララ・・
胸に咲く 赤いカーネィーション

