「よかったら…手拍子など…。

 すんっげぇ暖けぇ!アリガトウ」







2007年9月8日、
デビュー20周年記念イベント『BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE』
横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージ。
熱狂の“ロック・ライヴ”の部は、
BUCK-TICKの心の友“J”のヨコハマを焼き尽くすような熱気と、
魂溢れる「叫び」で一体化した特設会場の大観衆を前に、
本命“BUCK-TICK”の登場を待つ時間に差し掛かっていた。

「どんなに誰が格好つけたって、BUCK-TICK、奴らがオリジネーターだぜ!!」

と語った“J”は、
兄のように慕うBUCK-TICKの記念すべき夜を共に祝える喜びを噛み締め、
ラストナンバー「Feel your blaze」に祈りを込めていくのだった。




しかし、ただのロック・フェスではない、この日のイベントは、
BUCK-TICKというバンドの形態を表現するように、
様々なジャンルのアーティストが組み込まれていたのだ。

まるで、今井寿が、

「音楽に境界線はねぇ~」

といいながら、ほくそえんでいるかのように。

櫻井敦司も、後日、

「本当に、様々な世界観のアーティストが一つの場所に集まってくれて…。
そんななかで、BUCK-TICKという音楽が出来て嬉しかった」

と語っていたが、
すでに“ロック”というジャンルでカテゴライズすることすら、
BUCK-TICKのバックボーンを語る上で、不可能な事なのかも知れない。

様々な音楽を、ひとりの人間が趣向することは、
むしろ“健康的”なことであるし、
人間には、現実問題として様々な状況で生きていく為の、
“遊び”の幅こそが、柔軟性を生み、新たなる発見や発想を生む土壌になることは、
間違いなかろう。


そして、BUCK-TICKは、ふたりの畑違いのアーティストにも声をかけ、
そのセッション・コラボレートも含めて融合を試みたのである。
しかも、自身にとっても大切なこの“一大イベント”で、である。

この冒険心には、敬服するしか、あるまい。

一番の大舞台でこそ、威力を発揮する“新たなる挑戦”。

これを心がけてやって来たからこそ、
この20周年のBUCK-TICKが、ここに存在しているのだ。

そんなことを、想いながら・・・

この二人のサウンドに、身体を揺らせるのが、正解であろう。


その一人目・・・。

横浜の夜もいよいよ終盤に差し掛かると、
MCUが『Hey Johnny』を自己紹介代わりに繰り出し、会場をダンスフロアへと変えていく。


「今日はほんの少しだけアウェイなんですが」


と語るMCUだったが、この日、出演したどのアーティストよりも、


「リスペクト BT!!」


と口に出して訴えかけていたのは、彼だ。


「オメデトウゴザイマスというか、
 アリガトウゴザイマスですよね」

と語っていたMCUも、年代的には「悪の華」世代と言えるだろう。

RUN D.M.C.の「WALK THIS WAY」のミュージック・ヴィデオを見て、MCを志す。
RUN D.M.C.(ラン・ディーエムシー)はヒップホップ・シーンにおいて黎明期より活躍し、
その普及に貢献した。
2009年に、「ロックの殿堂」入りを果した。
この「WALK THIS WAY」は、
1986年8月、1980年代に復活を目論むアメリカン・ロックの雄エアロスミスのヒット曲
「ウォーク・ディス・ウェイ(Walk This Way)」をモチーフにした楽曲で、
全米チャート4位(ビルボードTOP100)を記録。
RUN D.M.C.はトラックはサンプリングをせず、
エアロスミスのスティーヴン・タイラーとジョー・ペリーがレコーディングに参加している。

また、ヴィデオ・クリップにも両名がゲスト出演し、話題となった。

同楽曲を含むアルバム『レイジング・ヘル』の売り上げは、
ダブル・プラティナム・セールスとなる200万枚を記録した。
彼らが着用していたアディダスのスニーカー「スーパースター」や
カンゴールのハットは、オールドスクールのヒップホップ系ファッションとして定着している。



1987年、BUCK-TICKメジャーデビューの年。
文京区立第十中学校からの同級生と共にRADICAL FREAKSを結成したMCU(当時は“U”と呼ばれた)。

彼は音楽活動に集中するため、高校には進学しなかった。

U、DJ TATSUTA、TA-1の三人で結成されたRADICAL FREAKS。
1992年にTA-1が脱退。1994年にクラブで出会ったVOICEが加入。

その後、アンダーグラウンドで長く活動し、
オムニバスアルバム『悪名』に収録されている「地下室」で存在を知らしめ、
アルファらと東京U家族での活動でスキルを磨く。
(結成当初、自身が結婚したら解散と言っており、その後結婚したため解散)。

UはKICK THE CAN CREWなどを経てソロMCとして、
DJ TATSUTAとTA-1もソロDJやプロデューサーとして幅広く活動している。
3人で「巣鴨ナイト」なるイベントを開催するなど、交流は深い。



MCUの名前が本格的のこの世にに響き出したのは、それから十年後、
1997年から活動を開始したKICK THE CAN CREWであった。
彼はは、同ユニットのMCのひとりとしてメジャーの舞台に踊り出た。

名前の由来は、本名の雄志及びビースティ・ボーイズのMCAから。

KICK THE CAN CREW(漢字表記:踢館高手)は、
3MCと1DJからなるヒップホップグループ。

所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパンで
インディーズ、及びLP版はBURGER INN RECORDSでリリースしている。

通称「キック」と呼ばれ、雑誌等では頭取って字を「KTCC」とも記載される例もある。

グループ名を直訳すると「缶を蹴る奴ら」。
その由来は、それぞれ活動していた3人が初めてコラボレートした楽曲「カンケリ」から来ている。

Dragon Ash、RIP SLYMEと共に日本のメジャーシーンにおいて
ヒップホップを広く浸透させたグループである。

RHYMESTER、EAST END、MELLOW YELLOWを中心としたFUNKY GRAMMAR UNITや
神輿ロッカーズの一員である。


一時、日本のラップミュージックによるメジャー化が、
産業ロックとしてロックが商売になってしまった例を挙げ、
それまで、アンダーグラウンドで勢力を広めていた先輩格のラップミュージシャンから、
叩かれたこともある。

1994年にスチャダラパーの「今夜はブギーバック」や
EAST END×YURIのシングル「DA・YO・NE」などによって、
ラップの存在が一般に認知されるようになり、
以後ロックやJ-POPにも取り入れられる手法となり、
チャート上位の曲でラップを聴く事も多くなった。
この流れは、かつての日本語によるロックの経緯と重なる部分がある。

そして1990年代後半、Dragon Ashが登場すると
それまでのヒップホップアーティストには批判もされながらも、
ラップはメジャーシーンに引き上げられ、日本のヒップホップは良くも悪くも変わっていく。
90年代半ばから後半にかけてメジャーでEAST ENDやDragon Ashが成功を収める一方、
アンダーグラウンドではキングギドラなどが隆盛を迎えた。

これをラップ特有のメッセージ性を利用してワック(wackスラングで不出来な、あるいは偽物の意)、
「ワックMC」として等、他のアーティストをディスる(批判する)時に使用する。


そこに、日本のヒップホップの世代的な溝が構築された。


KICK THE CAN CREWもその新派の一翼を担うブレイクを、
日本のミュージック・シーンで繰り広げたひとつである。

メンバー構成は、
LITTLE(リトル)- MC担当。大中小の小。
KREVA(クレバ)- MC兼トラックメイカー担当。大中小の大。
そしてMCU - MC担当。大中小の中。
の3人。
MC3人の三者三様のパフォーマンスを「キャラ立ち3本マイク」、身長の違いから「大中小」と称している。

DJ SHUHO(ディージェイ・シューホー)がDJ担当。
実質、正式メンバー扱いであるが、「遅刻をよくする」との理由から正式メンバーでは無い。

彼はKICK THE CAN CREW結成以前は、ソロMCだったLITTLEと共に活動していた。
KICK THE CAN CREW結成以来DJとして参加しており、
3MCs+1DJというときの1DJというのは彼のことである。
また、S(LITTLE)、M(MCU)、L(KREVA)、XL(DJ SHUHO)というように言うこともある。

KICK THE CAN CREWが活動休止中の現在でも、
それぞれのメンバーのソロ活動にはDJとして参加、帯同している。
2006年に活動を再開したBY PHAR THE DOPESTのDJも担当した。

2002年には映画『ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY』のサウンドプロデュースを担当し、
サウンドトラックも制作した。
その他2003年のTBS系人気テレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』にG-BOYS役で出演もしている。


KICK THE CAN CREWの結成は、BY PHAR THE DOPESTのKREVA、RADICAL FREAKSのMCU、
そしてDJ SHUHOとソロ活動をしていたLITTLEが、
それぞれバラバラに活動していた三人が、初めて共演した楽曲「カンケリ」をきっかけに意気投合。

ユニット名はその曲名からKICK THE CAN CREW(=缶蹴る奴ら)と名づけられた。
ちなみに、もともとはKREVAとLITTLEが二人で楽曲を制作する予定だったらしいが、
当時は二人の声質が少し似ていたため、童子-Tの紹介でMCUが加わったという。
その後もインディーズでリリースを重ね、着々と評価を上げていった。

当時から個々の活動も行っており、
KREVAはBY PHAR THE DOPESTとしての活動の他に
ソロMCとしてB-boy ParkのMC battleに於いて
3連覇(1999 - 2001)を達成するという偉業を成し遂げ、
第一級のフリースタイラーとして認められた。
KREVAのように着実に韻を踏むスタイルを『クレバスタイル』と呼び、
大会で多くのフォロワーが現れるなど、多大な影響力を見せていた。

LITTLEは三人の内でも早くからソロアルバムをリリースしていた。

2001年5月23日、シングル「スーパーオリジナル」でメジャーデビューを果たす。
その後、11月7日に山下達郎の名曲「クリスマス・イブ」をカヴァーした「クリスマス・イブRap」、
2002年1月23日に「マルシェ」をリリースし話題を集め、その年の紅白歌合戦に初出場。
紅白ではKREVAの咄嗟の機転で「NHKへようこそ」と歌った。

2002年10月、ヒップホップグループのドン的存在キングギドラが
リリースしたアルバム『最終兵器』内の楽曲「公開処刑 feat. BOY-KEN」で
K DUB SHINEに批判 (DIS)された。

マッチョイズムに支えられていた当時の日本のヒップホップシーンにおいて
KICK THE CAN CREWの表現形態は明らかにアンチであり
メジャー、あるいはポップなフィールドでのファンは得られたものの、
RIP SLYMEらと共にセルアウトと批判の対象になった。

しかし、LITTLEが自身のソロ・ファーストアルバム『Mr.COMPACT』での
辛辣でありながらも巧みに表現したマッチョイズムへの批判、
MCUの
「キックがヒップホップのフィールドで売れるべきと言っている連中にこそ媚びを売りたくない」
発言など、ヒップホップの閉塞性に対して対角の位置を取った。

後の2004年8月、「blast」誌上のK DUB SHINEのインタビューで
「もう批判はしない」といった意の発言をしている。

2003年には、8月6日の「性コンティニュー」から、
2004年1月1日のアルバム『GOOD MUSIC』まで、
シングル5枚・ベストアルバム1枚・アルバム1枚の計7枚連続リリースを行った。
また、この年には台湾親善大使に任命されての台湾ライヴ敢行や、
ヒップホップ界世界最高峰の賞「The Source Awards」に日本人初のノミネートと
海外にも実力を見せ付けた。

楽曲のトラックは、結成当初からKREVA1人の手で作られていたが、
シングル「sayonara sayonara」収録の「キックOFF」でDJ TATSUTAとトラックを共作し、
以降、アルバム『magic number』には2曲、
2003年8月からの7枚連続リリースでは、
半分近くを2人(「顔PASSブラザーズ」名義)でプロデュースしている。

2004年3月に活動休止を発表する。
そして、6月20日の「KICK THE CAN CREW LIVE 旅人~STEP IN THE DAY~」をもって
活動を一旦休止し、現在はそれぞれでソロ活動を展開し始めた。

2008年5月7日、LITTLEの自らの誕生日とデビュー10周年記念を兼ねたライヴの際に
サプライズでKREVAとMCUが花束を持って登場し、
活動休止以来となるステージ上での3ショットが実現した。
8月3日には、茨城県の国営ひたち海浜公園で開催された野外イベント
「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2008」でKREVAが
「今日ここに、世界で俺だけしか呼べないゲストを呼んできたぜ! KICK THE CAN CREW!」
とLITTLEとMCUを呼び、
4年振りに「イツナロウバ」「アンバランス」の2曲を披露した。







横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージでは、
2005年、新たなるBUCK-TICKの耽美主義の粋を尽くした名曲「ROMANCE」
の一部をサンプリングして用いるなど、
BUCK-TICKへのリスペクトの念を込めたステージを展開するMCU。

引き連れるのは、そのKICK THE CAN CREWでともに活動していたDJ SHUHO。
この日、MCUとともに『BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE』
横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージに参加している。

彼がこの後、KICK THE CAN CREWで正式メンバーとなれる日は訪れるのだろうか?
すでに、セットされた『RISING SUN ROCK FESTIVAL '07』と同じ
オレンジ色に輝くヤガミトールのドラムキットの横に、
DJブースを組み上げて、巧みな皿回しを披露している。

かつて巣鴨の番と言われるほど地元では有力者だったというMCU。
ラッパ我リヤのMC Qは、中学校時代の後輩である。
彼とは「SUGAMO-B 其の弐」で共演している。

この自身の故郷を歌った「SUGAMO-B 其の弐」へと流れるパフォーマンス。

彼の好きな音楽はアシッドハウス、テクノ、ヘヴィメタル、日本のロックなどを挙げている。

元々ロック畑の出身で、KICK THE CAN CREW以外のソロ活動でも
THE BOOM同様大ファンを公言していて、
ヒップホップよりロックのほうが影響は大きいように取られることもある。
某大物ギタリストとヘビーメタル対談した際には「自分より詳しい」と言わしめるほど。
因みにメガデスのデイヴ・ムステインがお気に入りのギタリストである。
彼のヒップホップでは特異な普遍性のあるリリックにもその影響は見てとれる。

2002年には、MCU feat.浜崎貴司で「幸せであるように」をリリースしたりもしていたが、
2004年6月にはKICK THE CAN CREWの活動休止後、再び浜崎貴司と組んで
7月28日に「サーフライダー」、
2005年3月には、THE BOOMの宮沢和史とのシングル「ありがとう」をリリース。
同年5月には、全曲がフィーチャリングとなるアルバム『A Peacetime MCU』をリリース。

7月には浜崎貴司とマツリルカを結成してシングルを1枚、
マツリルカ&アリスとしてシングルを2枚リリースした。

2006年5月には、初のソロ名義で「MCU in WONDERLAND e.p.」をリリースし、ソロ活動を開始。

映画『2番目の彼女』で俳優デビューの後、『明日の記憶』にも出演し、
『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』では、出演だけでなく、
木更津キャッツアイ feat.MCUでシングルをリリースしている。


2007年には、福岡ソフトバンクホークスの川崎宗則内野手が
本拠地福岡Yahoo!ドームのバッターボックスに立つ際に流れるテーマソングに
「サヨナラ」という楽曲を提供した。

また、3月7日のオープン戦(対横浜ベイスターズ)が行われたヤフードームで、
巣鴨のジャイロボーイと紹介され、背番号52のユニフォームを着て始球式を行い、
仁志敏久内野手に対しジャイローを投球した。

6月には2年ぶりとなるアルバム『A.K.A』を発売し、
この9月からMCU TOUR 2007 『A.K.A HipHop Hallelujah』というアルバムツアーを行う予定であった。


MCで、彼は少し恐縮したような表情で語り出す。


「今日は何だかアウェイな感じが…少しだけだけするので、緊張してます。
 アウェイですが、一曲やらせて下さい」



自分を場違いなラッパーを恐縮する彼であるが、
“J”で燃え尽きた魂を少し癒して本命BUCK-TICKのライヴ・アクトへと向かおうとする
オーディエンスに取っては、いい“ぬくもり”になったに違いない。


「じゃ、行きます。

ヒップホップ代表!ロックスター!
“MCU”アンド“DJ SHUHO”!
よろしく!

よろしかったら手拍子などして下さい」


印象的なピアノリフから「nukumori」が届けられると、
オーディエンスも手拍子で応え、温かい空間が生まれていた。
それを見たMCUも

「すっげぇ暖けぇ・・・」

と本音を漏らす。

そう、BUCK-TICKを前にすると皆、緊張するのだ。
そして、彼には、この後に、もうひとつ“大仕事”が待っていた。
それを前にして、オーディエンスのこの声援は、
なにものにも代え難い“勇気”となったことだろう。


「君が手のひらに残したむくもり
 季節は全てを変えてゆくつもり
 手をひらけばあの日は消えるけど
 変われるだろう 今 明日を感じて」


ここに、ここに集う音楽に境界線は必要ない。
そんな、BUCK-TICK流の大きな愛の祝福が、彼を包み込んでいるようであった。

「○月×日ある日ある時
 進みたいが進めないよ やる気あるのに
 いつもきっかけばかり探し黙り込む
 いつのまにかカーテン閉ざす明かりを
 このままじゃだめだめだけれどアテがねー
 涙も通り過ぎて行ってやがて枯れ葉へ
 煙草の煙 宙に舞って陽射しも」



そんなセンチメンタルなリリックを繰り広げるMCUの姿に、
横浜の大観衆もリズムに乗りながら身体を気持ちよさそうに揺らす。
そうこれが、日本のメジャー・ラップの姿。
それを開拓した彼もまたフロンティアだ。


「いつか流した涙の数だけ
花は散り咲き誇るさブランニューなデイ
旅立とう 目の前に闇が閉ざしても
変われるだろう 今 光を灯して」



俺もBUCK-TICKも、なにか刺激的でありたいという点では、
いつも、一緒だ。
そんなMCUのパフォーマンスに観衆も手拍子で応える。
心なしか、みんなの顔に、栄喜が戻り、笑顔が溢れたような気がする。

また会場がひとつになった瞬間・・・。


最後にMCUはこう言って深く頭を下げてステージを去る。




「ナウ・リスペクト(今も尊敬してる)!

 20周年オメデトウ!

 RESPECT BUCK-TICK A~HA!!

 MCU & DJSHUHO そしてお客さん…

 ドウモアリガトウ!!」







MCU(KICK THE CAN CREW)
DJ SHUHO(KICK THE CAN CREW)




【MCU SETLIST】

1.Hey Johnny
2.SUGAMO-B 弐
3.nukumori

nukumori
 (作詞MCU 作曲MCU・北浦正尚)


君が手のひらに残したぬくもり
季節は全てを変えてゆくつもり
手をひらけばあの日は消えるけど
変われるだろう 今 明日を感じて

振り返れば自分が手振る 光も暗闇切れたケーブル
散らかったままの真っ白いテーブル 片付けも忘れただ腕組む
都合のいい事だけ意見して 気が付きゃもーすでに期限切れ
不安に目そらして全てバッチグー
右左も他人事に感じる
遠く見つめて また明日に 息も切らさずにただ空欠伸
また楽に楽にひねる蛇口から出る水はまだ乾かずに
「信じればいい」それも大体で曖昧
だけど信じれば手振れる 今日のばいばい
最初がグーから始まるSTORYのように行こうよ ね

君が手のひらに残したぬくもり
季節は全てを変えてゆくつもり
涙で 目の前に闇が閉ざしても
変われるだろう 今 光を灯して

○月×日ある日ある時
進みたいが進めないよ やる気あるのに
いつもきっかけばかり探し黙り込む
いつのまにかカーテン閉ざす明かりを
このままじゃだめだめだけれどアテがねー
涙も通り過ぎて行ってやがて枯れ葉へ
煙草の煙 宙に舞って陽射しも

遮られて雨になる 空は今にも
まるで君に別れ告げた後の味のよう
まるで君が去って行った時の足音
一張羅はドロにまみれ汚れ酒に溺れる
自分勝手なのに涙なぜにこぼれる
邪魔な角も全て吹き飛ばして平らに
最初がグーから始まるSTORYのように行こうよ ね

さがして さがしてた光
いつかの夢照らし もっと僕を酔わせて

涙はいつのまにか消えてなくなり
明日に飛んで行く like a バックスバニー
震える体も揺らし I need heat
陽は昇り君を照らす 行こう旅立ち
転び出来たかすり傷もやがてかさぶたに
変わらない物はない信じよーぜ頑なに
全てが君の前でやがて光り出す
時は過去じゃなく明日じゃなく今になる

君が手のひらに残したぬくもり
季節は全てを変えてゆくつもり
手をひらけばあの日は消えるけど
変われるだろう 今 明日を

いつか流した涙の数だけ
花は散り咲き誇るさブランニューなデイ
旅立とう 目の前に闇が閉ざしても
変われるだろう 今 光を灯して


$【ROMANCE】