「この四人の出すサウンドっていうのを
 楽しみにしているのはボク達なので。

そのステージ・マジックみたいなものに期待してます」





2005年、今井寿と同じ名前を持つギタリストは、
いてもたってもいられない気持ちと、
自分の初期衝動ともいえるもの、
それと、現実の難しさの板挟みで、もがいてた。



※注)ここから先に記すことは、僕の完全なる妄想…
すなはち、フィクションである。
登場する人物には、事実等、一切直接関係のないフィクションである。
ご了承の上、お読み頂きたい。



日本のもっともセールス的に成功したヴィジュアルバンド“GLAY”は、
この年の12月にリリース予定の、
BUCK-TICKのトリビュート・アルバム
『PARADE~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~』に参加するには、
ビッグ・ネームになり過ぎていた。

HISASHIは頭を抱える。

「くだらない。くだらなすぎる・・・」

GLAY(グレイ)は、1994年のメジャーデビュー以来、数々の楽曲をヒットさせ、
1990年代後半の日本ロックシーンを牽引してきた。

代表作として、ミリオンセラーを記録した
「HOWEVER」「誘惑」「SOUL LOVE」
「BE WITH YOU」「Winter,again」「とまどい/SPECIAL THANKS」などが挙げられる
(ミリオンセラー作品数としては日本歴代3位)。
1999年7月31日には、幕張メッセ駐車場特設ステージでのワンマンライヴ
『MAKUHARI MESSE 10TH ANNIVERSARY GLAY EXPO'99 SURVIVAL』
において20万人を動員した。
この動員数は2009年現在日本記録、有料ライヴに限れば世界記録となっている。

そんなモンスター・バンドだ。

売れすぎたアイドルには、それに群がる利権と、
その利害関係にひしめく魑魅魍魎がビジネスという仮面を被って忍び寄る。

土屋昌巳が、櫻井敦司を評価した際、語った
「売れてしまうことの弊害」
をHISASHIは感じていたかも知れない。

「オレは。・・・オレはただ、好きなギターを弾きたいだけだ」

そう感じていた可能性はある。

こんな噂も耳にするようになる。

デビュー15周年を迎えたGLAYが、場外で揉めている。ある関係者が言う。

「先日、テレビの情報番組でGLAYが
財政破綻をした北海道・夕張市の再建に協力しているという特集を放送していたんです。
でも、彼らの外見面でのイメージ・アップを図る前に、
自身の足元の問題を解決する方が先決なんじゃないでしょうか」。

情報番組とは、日本テレビ「ZERO」らしい。
番組自体は観ていないので、何とも言えないが、関係者によると、
よっぽど美談な内容になっていたようだ。

ところで、GLAYは2005年に、それまで所属していた「アンリミテッド・レコード」から独立し、
個人事務所「ラバーソウル」を設立した。
売れたら、その途端に独立するのは、よくある話である。
しかも、その裏では、決まって糸を引いている人間がいる。

GLAYが独立したのも、その典型だと言われてきたが、
独立後のGLAYの活動は誤解を恐れずに言えば失速した。

それを肌身に感じていたのは、GLAYのメンバーであったろう。
彼らの肩を持つ訳ではないが、彼らは、ただ、純粋に、ロックが演りたかったダケだ。

それが、優先順位の最高点にある筈だ。

状況が変わらないのなら・・・
自分が、動くしかない。

・・・だから、HISASHIは動いた。


正式なバンド名はすべて小文字で「rally」となる。


rally(ラリー)は、
2005年、BUCK-TICK結成20周年記念として作成された
オフィシャルトリビュートアルバム『PARADE~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~』
に参加するため、GLAYのHISASHIの呼びかけにより結成されたバンドである。

結果的に音源はここに収録される一曲のみで、
ライヴ出演も2007年9月8日に横浜のみなとみらいにて行われた、
LIVE「BUCK-TICK FEST 2007~ON PARADE」のみとなっていて、
その後の活動に関するアナウンスは無い。

GLAYのHISASHIは中学時代、北海道函館市で、
ラジオでエアチェックしたロックミュージックに魅了され、音楽に没頭し、
中学2年生の頃には、通販でギターを購入(初心者セットのストラトキャスターモデルらしい)。
音楽雑誌を友人に借りては読み、
函館の店に置いていなかったレコードは兄に頼んで札幌まで買いにいってもらっていたこともあったようだ。
そもそも、バンドに興味を持ったきっかけは、
1つ年上の兄やその友達に影響されている面があるようだ。
父親が病死したのも、この頃のことである。

函館稜北高校時代に入学すると、積極的にメンバーを集め、
「蟻」という(パンク)バンドを組んだが1年で解散。
高校2年生の頃に、同じ高校に通っていたGLAYのリーダーであるTAKUROと出会い、
ツインギターの相棒を探している事を知る。
そのツインギターに興味を持ち、GLAYに加入。
卒業後は、母親と共に上京した。
実は、当時の先生から「バンドは無理だ」と言われたらしいが、本人は受け入れず続けた。

1990年4月、プロを目指し北の大地から上京。
アルバイトを転々としながらGLAYの活動を続ける。
1991年には、ベーシストが不在になり、短期間ながらベースを担当していたこともある。
よくライヴで被っていた魔女帽がトレードマークであった。



テレビでは、高校時代からよくコピーしていたツインギターバンド、BUCK-TICKの新譜が、
リリース宣伝されている。

そう「オレと同じHISASHIの名を持つ奇天烈な天才ギタリスト」。

あんなふうに、どこまでも自由にギターが弾けたら。

時は流れ、そのバンドも結成20周年を迎える。
その記念にトリビュート・アルバムをリリースする予定だが、
それに参加してくれるアーティストを探している。
ジャンルは、問わない。
BUCK-TICKに、なにかひとつでもいいから、影響を与えた、もしくは影響を与えられたアーティスト。
そんな企画であったかも知れない。

HISASHIは、想う。

「これに、絶対、参加したい!
なにかが、変わるような気がする。
GLAYが、駄目なら、新バンドを作ってやるだけだ」









そんな願いを込めたギタリストHISASHIが集めたメンバーは以下の通り、

ウエノコウジ / ベース
MOTOKATSU MIYAGAMI / ドラムス
TERU / ヴォーカル



ベーシストのウエノ コウジは、
ロックバンド、thee michelle gun elephantのベース担当として活動。
解散後はRadio Carolineのメンバーとして活動の場を移した。

明治学院大学の音楽サークル「世界民族音楽研究会」に所属し、
後輩のクハラカズユキの誘いで、thee michelle gun elephantに加入した。
メンバーはチバユウスケ、アベフトシ、ウエノコウジ、クハラカズユキの4人。
脱退したメンバーにシガケイイチがいる。
同学の学園祭で行われたライヴを観覧していたクハラがチバに
「おまえの後ろでたたかせてほしい」と申し出たため、
当時のドラムス担当をクビにした上でメンバーに加入することとなった。
その後、ベース担当のメンバーが脱退し、
クハラと親交の深かったウエノが後任のベース担当に選出された。
全員、細身のモッズスーツを衣装とし、ライヴにおいてはほぼ欠かさず着用している。

1991年に明治学院大学内にて結成されたthee michelle gun elephant。
1991年4月3日、下北沢屋根裏にて初ライヴハウス公演。以後、東京内を中心にライヴ活動を開始する。

1993年11月25日、初音源となるライヴアルバム『MAXIMUM! MAXIMUM!! MAXIMUM!!!』を
UKプロジェクトからリリース。
ライヴを重ねるごとに徐々に動員を増やしていくなか、
シガ(ギター)がメンバーから脱退し解散の危機を迎えたとされる。
以後しばらくは3人で数回のライブ活動を行い、活動を継続していた。

1994年6月25日、知人の仲介によりアベフトシが加入しメンバーを救う。

1996年にシングル「世界の終わり」にて日本コロムビアよりメジャー・デビュー。
主にガレージロックやパブロックを筆頭に、
パンク・ロック、ブルースロック、ロカビリーなどのジャンルで括られる。
主にライヴでの活動に重点を置き、
1回のツアーで全国40から60箇所のライヴハウスやホールを回るツワモノ・ライヴ・バンドだ。

『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT』というバンド名の由来は、ヴォーカルのチバの友人が
ダムドのアルバム『マシンガン・エチケット - Machine Gun Etiquette』
の筆記体で記述されたアルバムタイトルを読み違えたものをそのまま採用したことに起因する。

「thee」はジー・ヘッドコーツ(Thee Headcoats)から拝借したもの。
「thee」は省略して呼称することが多い。

メンバー本人は「ザ・ミッシェル・ガン・エレファント」とも
「ジー・ミッシェル・ガン・エレファント」とも言っている。
また、アルバム『ギヤ・ブルーズ』以前は小文字表記の
“thee michelle gun elephant”をグループ名として使用していた

1998年、4枚目のアルバム『ギヤ・ブルーズ』をリリース直後、
ホールクラスのオールスタンディングでのツアー『WORLD PSYCHO BLUES TOUR』を慣行。
このツアーのファイナルの会場は横浜アリーナが選ばれ、
横浜アリーナとしては前代未聞のオール・スタンディング・ライヴ。
チケットは即完売となり、観客の動員人数は延べ1万5000人であるとされる。
当日観客席にいたロッキング・オン社長の渋谷陽一はこの光景を見て、感激して涙ぐんだと語る。

解散までに総計してシングルを16枚、オリジナルアルバムを8枚リリースしている。

2003年、所属レコード会社を
ユニバーサルミュージック内のレーベルであるユニバーサルシグマに移籍。
7枚目のアルバム『SABRINA HEAVEN』と8枚目のアルバム『SABRINA NO HEAVEN』を連続リリース。
皮切りに6月27日『ミュージックステーション』に出演。
『SABRINA HEAVEN』収録曲の「デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ」を演奏した。
その際、この日共演したゲスト、t.A.T.u.が生放送中に出演を放棄するという事件が発生。
既に演奏を終えたthee michelle gun elephantは
埋め合わせとして急遽「ミッドナイト・クラクション・ベイビー」を追加で演奏した。

8月31日、ファンクラブ会員へ向けて封書にて解散を発表。
ラストツアー『LAST HEAVEN TOUR』の最終日である10月11日、
シングル「エレクトリック・サーカス」の発表と同時に幕張メッセでのライヴをもって解散。
約4万人もの来客があったとされる。

ウエノコウジは2003年1月、Radio Carolineを結成。ライヴを中心に活動開始した。
(※同年10月11日、thee michelle gun elephant解散)
2004年5月、Radio Carolineがアルバム『Dead Groovy Action』をリリース。

2005年12月、GLAYのHISASHIの誘いで
rally名義でBUCK-TICK20周年記念のトリビュートアルバムに参加することになる。







ドラムのMOTOKATSU MIYAGAMI( 宮上 元克 )はTHE MAD CAPSULE MARKETSのメンバーでもある。

1990年にオーディションにより、THE MAD CAPSULE MARKET'Sに加入。
当初はMOTOKATSUと名乗っていた。
1997年以降改名し、現在はMOTOKATSU MIYAGAMIとなっている。
それ以前活動していたセッションドラマーとしては、本名の「宮上元克」表記になることがある。

現在はTHE ANONYMOUS
(他メンバーはRadio Carolineのウエノ、東京スカパラダイスオーケストラの加藤隆志)に在籍、
稀にライヴを行う他、様々なアーティストのサポートメンバーとして活動している。

2008年、SUMMER FESTAに布袋寅泰のバンドメンバーとして参加した。

THE MAD CAPSULE MARKETSでは、ドラムのみならず、プログラミングも務める。
THE MAD CAPSULE MARKETS(ザ・マッド・カプセル・マーケッツ)は、
ミクスチャー・ロックと呼ばれる事もあるが基本的にはジャンルはデジタルロックである。

度々デスボイスを用いるため、パンクバンドとして取られることもあれば、
初期の影響でヴィジュアル・ロックと呼ばれる事もある。

現メンバーであるKYONO、TAKESHI UEDA、元メンバーの児島実(室姫深)が中心となり、
高校時代に前身バンドBERRIE(ベリー)を結成。
ベリー時代にレッドホットチリペッパーズの来日公演の前座を川崎クラブチッタで務めたことがある。

その後、1990年に現在のバンド名に改名する形で結成される。
その頃に、公募でMOTOKATSU MIYAGAMIが加入。

インディーズでのリリースを経て、1991年、ビクターエンタテインメントより
シングル「ギチ」「あやつり人形」「カラクリの底」3枚同時リリースでメジャーデビュー。

布袋寅泰(BOØWY)やhide(X JAPAN)、今井寿(BUCK-TICK)などが
インディーズ時代の彼らを極めて高く評価していたこともあり、
メジャーデビューする際に注目を集めている。
その影響と、デビュー当時のメンバーのルックスから、
メジャーデビュー間もない頃は現代のヴィジュアル系に近い扱いを受けていた。
それと同時に日本のミクスチャーロックやデジロックバンドの元祖とも言える存在であり、
多くのアーティストに多大な影響を与えている。


1996年にギターの石垣愛が脱退した後は、3人で活動している。
結成当初はザ・スターリンなどの影響を感じさせるパンク色が強かったが、
元々YMOをフェイバリットに挙げたりとパンクでは括れない幅広い音楽性を持った彼らは、
サンプラーやシーケンサーを用いた楽曲制作にも早くから手をつけていた。
近年の作品で度々聞かれる
「シンセサイザーやサンプラーで作成されたフレーズを生演奏と完全に同期する」スタイルが
確立されたのは、
石垣愛脱退後発表されたシングル「SYSTEMATIC.」からである。

海外でのライブ活動やCDリリースも積極的に行っており、
2002年の「OZZ FEST」2003年のKERRANG!フェス「GAME ON」など
イギリスでのフェスティバルにも出演している。
そのため彼らは欧米で人気と知名度がある。

2005年、ソニー・ミュージック・レコーズに移籍。

2006年4月活動休止を発表。

彼もGLAYのHISASHIの声かけにより、2005年のrallyに参加した。


最後にHISASHIが召集したのは、日本一売れたヴィジュアルバンド“GLAY”のフロントマン。

RallyのヴォーカルのTERUだ。

TERUはGLAY結成時からのメンバー。

GLAYのライヴではアコースティック・ギターやブルースハープを演奏することもある。
現在でも、GLAYのフロントマンとして、ライヴでのMCのほとんどを担当している。
バンド結成当初は、櫻井敦司と同様ドラマー出身のヴォーカリストで、
TERU作詞作曲の「Little Lovebirds」では、ドラムを演奏している。


1987年の夏辺りに、小中学校と一緒である同じサッカー部の先輩に
「ちょっとドラムをやってみないか?」
と勧誘され、聖飢魔IIのコピーバンド「花とゆめ」に加入。
ドラムを担当し、文化祭で披露した。

しかし、TERUの家にはドラムセットなど無く、
親戚の叔母が営むスナックの椅子などを使って練習していたという。

1988年の3月頃、小・中学校の同級生であるTAKUROに誘われ、
GLAYとしての活動を始める。

当初はドラマーとしての加入であったが、
ある日、TAKUROがTERUの家にまだ歌の入っていないデモテープを置き忘れ、
歌があったほうが何かとやりやすいだろう、と考えたTERUが歌を入れてみたところ、
それを聴いたTAKUROが「神がかった声」と感じて腰を抜かしたというエピソードもある。
これがヴォーカリストへ転向するきっかけとなり、
新しいドラマーが見つかるまで、マイクを天井からぶら下げて、
ドラムを叩きながら歌っていた。


GLAY結成時からのリーダーがTERUと同級生であったギタリストTAKUROである。
リズムギターを担っていることが多いが、ギターソロを演奏することもあり、
HISASHIとのツインギターも聴くことが出来る。

楽曲によっては、ピアノを弾くこともある。
GLAYのほとんどの楽曲、特にシングルタイトル曲は、
すべて、TAKUROが作詞作曲を行っている。




このTERUとTAKUROが1988年函館で結成したバンドが、
後に日本一売れたヴィジュアルバンド“GLAY”となる。

“GLAY”のバンド名はTAKUROによる造語で、
音楽ジャンルが黒(ロック)でもなければ白(ポップ)でもないという意味である。
ザ・ビートルズがバンド名を造語にしたことに因み、
TAKUROがGRAY(英語。"灰色"の意)の"R"を"L"とした。

バンドブームに火付け役で、GLAYの根本的なモデルとなった伝説のバンドBOØWYの様に、
「誰でも知っている英単語をわざとスペルを変えて名乗るのがカッコイイとして、Lにした」
とTAKUROが語っていた事もある。




その後、前述したようにパンクバンド「蟻」を解散したHISASHIが、
高校2年生の頃に、同じ高校に通っていたGLAYのリーダーで、
ツインギターの相棒を探しているTAKUROに誘われGLAYに加入することになる。

ツインの中でもHISASHIは、リードギターを担っていることが多く、
ギターソロやギターリフの多くは、HISASHIによるものである。
楽曲によっては、今井寿のようにテルミンも演奏している。
インストゥルメンタル曲やライヴでのSEのほとんどの作曲とプログラミングを行っている。
その代わり、TAKURO、JIROとは異なり、ライヴでコーラスを担当することは少ない。





TERUが、このフェスのインタヴューで、

「僕とHISASHIは、高校時代BUCK-TICKで育ったんで…」

と語っているが、バンド名の由来にもあったとおり、

メンバー共通して好きなバンドに、BOØWY、B'z、レッド・ウォーリアーズなどがあり、
特に1980年代に活躍したBOØWYの影響を最も強く受けている。
同時に目標がBOØWYのようなバンドであったことから推測しても、
BOØWYの後継的ポジションで登場したバンドBUCK-TICKが、
結成時のバンドGLAYに大きな影響を与えていたのは、確かであろう。

TAKUROUが目標バンドBOØWYの布袋寅泰に憧れていたとしたら、
HISASHIが、今井寿に影響を多く受けたといえば、
このツインギターの性格上、納得出来るような気がする。

彼らは、1990年3月に高校時代最後のライヴを行う。
このときに結成時からいたベースとドラムスのメンバーが卒業。

この時期から、元JUDY AND MARYのYUKI(函館出身)とJIROは知り合い。
高校時代から顔見知りであったようだ。

また、TAKUROの著書『胸懐』ではTAKUROらも当時から別にバンドをやっていたYUKIとは顔見知りで、
彼女の通っている高校でGLAYが人気である事を聞き、
夜中にライヴのポスターを貼りに行ったが、
実は貼った次の日からは夏休みだったというエピソードが語られている。

高校卒業と同時に4月より拠点を東京に移す。

1990年11月に「イカすバンド天国」に事務所の肝いりで出場。
しかし、デビューならず。
当時はワンコーラスも歌えず、すぐ不合格になった。
その理由は
「もう少し毒があると思っていた」、
「同じメロディーの繰り返しでつまらない。」
との酷評の嵐だった。

しかし、これをバネにして、自主制作を作り、
メンバーチェンジを繰り返しながら、GLAYは活動を続けていく。

1992年9月にベース担当であったSHINGOが脱退し、後にJIROが加入。

JIRO(本名:和山 義仁)という名前の由来は、
GLAY加入前に所属していたバンド・ピエロのヴォーカルに名前を聞かれ、
そのときにとっさに「JIRO」と答え、それ以来ずっと「JIRO」になっているそうである。
メンバーの中で唯一の年下でありながら、GLAYの副リーダー的存在。
またメンバーの中で唯一上京後にGLAYに加入した。
JIROが作曲した楽曲では、一部ヴォーカルを担当しているものもある。




彼の加入によりメジャーデビュー前の状態となるGLAYは、
1993年10月のライヴ会場にYOSHIKI(X JAPAN)が訪れ、スカウトされる。

同日、EXTASY RECORDSと契約を結び、
1994年1月 アルバム『灰とダイヤモンド』のレコーディング終了させると、
2月1日 目黒鹿鳴館で初のワンマンライブを行う。チケットはSOLD OUT。
3月に入りロサンゼルスのONE ON ONE RECORDING STUDIOにてYOSHIKIプロデュースの下、
デビューシングル「RAIN」のレコーディングを行う。

そして5月25日、シングル「RAIN」で晴れてメジャーデビューを果たす。

YOSHIKIが新たに設立したプラチナムレコードよりリリースで、
東宝映画「ヤマトタケル」の主題歌にも抜擢される。
同日、インディーズ・ファーストアルバム『灰とダイヤモンド』も
エクスタシーレコードよりリリースとなる。

そこからの活躍は誰もが知るが如くだ。

1996年 1月17日、8枚目のシングル「グロリアス」でブレイクすると、
またたく間にスターダムへ上り詰める。
その後2月にセカンドアルバム『BEAT out!』がオリコン初登場1位を獲得。
11月18日には3枚目のアルバム『BELOVED』をリリースも同じく初登場1位。

以降、1997年には「BELOVED」「口唇」「HOWEVER」などが次々とヒットを記録し、
10月1日、ベストアルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』をリリース。
このベストアルバム『REVIEW-BEST OF GLAY』は、
当時の歴代アルバムセールスを更新して歴代1位(約500万枚)となった。

この『REVIEW-BEST OF GLAY』が
1998年~1999年の日本ロック・シーンのベストアルバムブームのきっかけとなった。


それ以後も、1998年に同時リリースされた
「誘惑」「SOUL LOVE」などヒット曲を連発し人気を不動のものへして行く。
7月29日、4枚目のアルバム『pure soul』をリリースまたもミリオンセール。

1999年2月3日、16枚目のシングル「Winter,again」、。
5月19日「サバイバル」が歴代ヴィデオ・シングル第一位を記録した。

1999年3月には東京ドームで5日間ライヴを敢行。
7月31日に前述の国内単独ライブとしては最高の観客動員数20万人を誇る
【MAKUHARI MESSE 10TH ANNIVERSARY GLAY EXPO '99 SURVIVAL】を行う
(幕張メッセ駐車場・特設ステージ)
この模様はNHK「ニュース7」のトップニュースで紹介された。
12月23日、事務所EXTASY RECORDSの先輩LUNA SEAと初の対バン
『The Millennium Eve A Christmas present for the people who love live a lot.』
を行う(東京ドーム)。

年末12月31日には「Winter,again」で日本レコード大賞を受賞した。
(後に、レコード大賞受賞を巡りメンバーで解散をしようとしていたことが明らかになった)
同時にカウントダウンライヴ『GLAY LIVE in MESSE "COME TOGETHER"』を行い
(幕張展示ホール3-2-1)。
そして3年連続のNHK紅白歌合戦出場。披露曲は「サバイバル」。

この1997年-1999年はヴィジュアル系ロックバンド全盛期と呼ばれ、
GLAYと同年にデビューのL'Arc~en~Cielと当時の音楽シーンを牽引していった。

L'Arc~en~Cielのtetsuが
「ヴィジュアル系」という表現に抵抗を持っていたのに対し
GLAYは自らヴィジュアル系を名乗るなど肯定的な姿勢を示していた。

「キャンプ・ファイヤーで歌えるような楽曲を作っていきたい」

これはソングライターであるTAKUROの弁言葉だが、
彼らの音楽に対する姿勢をこれほど如実に物語った表現はないだろう。
底なしにメロディアスなヴォーカル・ライン、
ポジティヴかつ普遍的な詞世界、
心地よいミキシング……
つまり、老若男女だれもが共有できる音楽を目指すということだ。

確かに彼らの音楽には、レア・グルーヴもなければ、
ドラムン・ベースもヒップホップもない。
要するに先鋭的なテイストをもつ音楽とは
まったくもって程遠い歌謡ロックだと言っていいだろう。

土屋昌巳は、1994年6月15日リリースのGLAYのセカンドシングル「真夏の扉」をプロデュースした。
また、2001年のGLAY EXPO 2001九州公演にはThe d.e.pのメンバーとして同じステージに立ち、
最後の楽曲「I'm In Love」にはコーラスで参加している。

しかし“ロック”が一番刺激的な時代に音楽に開眼した土屋昌巳は、
ロックバンドに「やんちゃ」な部分を求める傾向がある。
そのような土屋昌巳には、「真夏の扉」レコーディング時に、
真面目で礼儀正しく、破壊的な部分が皆無なメンバーの態度に

「手に負えない部分が無いとは、僕の手に負えない」

と以降のプロデュースを断念したというエピソードがある。


毒が無さ過ぎるという批判は、人気バンドGLAYに纏わりつくが、
しかし、その源泉たる表現欲求はあまりに純粋であり、
聴くものの心を打つ物であったのだろう。

彼らは、現在も日本でもっとも著名なロック・バンド。
ライヴでの動員数、セールスともに、前人未踏な記録を打ち立てているのは、周知のとおりだ。

GLAYメンバーは共に、伝説のバンドBOOWYを追い求め、
ヴィジュアル系のムーブメントを駆け抜けながら、
そのベースとなるBOOWYへのストレートな想いで、
ビート・ロックに最も先祖帰りしたバンドともいえる。


BUCK-TICKにもその傾向がない、とはいえなかった。
彼らは、ロック然とした前衛的な部分を追い求めながら、
そんな自分の世界にだけ染まっているグループが、外部から見られた時の、
“不恰好さ”を自己認知してしているバンドだ。

だから、いつも唐突ではあるが、
日本のどのバンドよりもキャッチーでポップなサウンドを作り上げてみせる。
それは、セールス云々、ファンの受け云々というよりも、
BUCK-TICKというバンドの持つ“羞恥心”の表れである。

自分の世界に、こもるだけの独善的な仕事ではなく、
そういった独自の世界観を構築した上でのキャッチー性を追及することで、
マスターベーションに陥らずに済む、ということだろう。

言い方を変えれば、それはビジネスとして成り立つものを作り上げる
土屋昌巳の言う「アーティストの責任性」そのものである。



GLAYは2006年8月5日、6日に
『KYOSUKE HIMURO+GLAY 2006 at AJINOMOTO-STADIUM "SWING ADDICTION"』として、
味の素スタジアムにて彼らのカリスマたる氷室京介と競演している。
ライブに先立ち、8月2日には、氷室京介とのコラボレート・シングル「ANSWER」をリリース。

彼らの憧れだった“ヒーロー”は、ここに“戦友”となる。


ジャパニーズ・ロックの元祖カリスマを勝手に決めると、
矢沢永吉の名前が思い浮かぶ。

だだし、彼が、僕世代のリアルタイムヒーローかというとちょっと違う。
僕らの兄貴世代のヒーローである。
では、リアルタイムで、矢沢的存在を考えると、ヒムロック(BOOWY)ということになる。
コラボレート・シングル「ANSWER」を披露するテレビ番組で、
まさに同世代(僕と)TERUと氷室京介の対談があったが、
考えると、非常に矢沢永吉と氷室京介は存在がリンクするのである。

伝説のバンド(キャロル/BOOWY)を率い、
その絶頂期に惜しまれつつ解散を決意し、
ソロアーティストとして、日本に留まらず活躍する姿。

同番組では、氷室が、アメリカに渡った理由が語られていて興味深い。


「日本にいるとさ、~周りの人が、すごく俺を過保護にしてしまう」

そう語る氷室京介。

これはスーパーヒーロー特有の悩みかも知れない。
確か矢沢永吉も同じ趣旨のことを語っていたことがある。


そして氷室は言うのだ。

「それで、~自分が何も出来ないことに気づいた」

「向こう(アメリカ)で真剣に仕事をしている人を見てて、何か違うなと思った」


と。

しかし、時代が違うとはいえ、ヒーローという境遇が、このリンクを生み出すのだろうか?
偶然か、彼らは、全く同じ選択し、成功する。
何を捨てなければ、更に大きなステージに上がることが出来ないと知っていたかのように、
栄光にまみれた輝ける過去を捨てた。

誰にでも、出来ることではない。
選ばれた者のみの苦悩と勇気が必要な選択である。

“栄光”を捨てること。次に行くと決断すること。
“挑戦”とは、そういった意味を持つ物なのかも知れない。

「ANSWER」を通じて氷室京介はTERUにそんなメッセージを投げかけていたようにも想う。

“挑戦”にも、代価が、必要である。

HISASHIの好きなアーティストにはセックス・ピストルズ、オフスプリングを挙げている。
メンバーの中で最もパンクの嗜好が強く、同じギタリストでもTAKUROとは正反対と言えよう。

そんな挑戦をHISASHIは、このRallyプロジェクトにかけていたのかもしれない。
RallyはHISASHIの“反骨精神”の炎である。






2007年9月8日、横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージ。
西川貴教率いるabingdon boys schoolがステージを去ると、
始動する、もう1つの大型新人バンドRally。

セットチェンジはここでも優秀なスタッフの手際見事に高速で、
モニター・スクリーンの髑髏が砕けて・・・

櫻井敦司による「R・a・l・l・y!」のコール。

暮れゆく新みなとみらいの絶景に、ベートーベン第九歓喜の歌が流れる中、このRallyが登場!
なんとHISASHIの立位置は、いわゆるGLAY・TAKUROポジションにつく。
この日も帽子着用のHISASHIは、帽子のふちに蜘蛛の刺繍の魔女のようだ。
TERUは、サングラス着用し持ち前の二枚目ぶりを抑えロックテイストに前髪で顔が隠れている。
ウエノコウジはち向かって左側で身長182cmの長身でブラックのスーツがいつも通り渋い。

MOTOKATSUは、夏のフェスらしくTシャツにジーンズで、彼もまた長身182cmが目立つ。

この夜が初ステージという超大型新人バンド“Rally”は、このMOTOKATSUの体躯から発せられる
グルーヴで一曲目には、オリジナル楽曲「Rally」をパフォーマンスする。

abingdon boys schoolの西川ファンの勢いも凄かったが、
GLAYファンも気合いが入る。
GLAYの別名ユニットともとれるRallyに黄色い歓声が飛び交う。

夢中になるのも仕方が無い。
たしかに、カッコイイ。

すると二曲目に早くも登場するトリビュート楽曲BUCK-TICKの「悪の華」。
イントロでは、HISASHIによる「ROMANCE」のフレーズが挿入されると、
またもやMOTOKATSUの重たいながらも、躍動するようなドラミングに、
長い足を蹴り上げるウエノコウジの跳ねるようなベースプレイ下、
HISASHIの魔法の杖から、様々な音色で聴かせるアノ「悪の華」のフレーズが、
横浜の夜空へと広がっていく。


「遊びはここで 終わりにしようぜ
 息の根止めて Breaking down 」



前述したが、独善的自己満足の仕事を嫌うBUCK-TICKのメンバーが、
この参加アーティストの出演順番を決めているのだろうが、
これにも、細やかな配慮がなされていたのは、言うまでもない。

ダイナマイト級といえる勢いの清春のスタート・ダッシュから、
パンキッシュ・ハードコアでノリのいい序盤を抜けると、
BTのルーツともいえる音楽で中盤を聴かせ、
終盤に向けて、人気者を投入にてオーディエンスに夜の華やかさを演出する。

まさにパーフェクトなセットリストのように、
アーティストの音楽にあわせて、組み込まれた、そして作り込まれた展開をみせるイベントだ。

憂いを帯びたTERUのヴォーカルが、光り輝くみなとみらいの大観覧車にまで響いている。


「燃える血を忘れた訳じゃない
 甘いぬくもりが 目にしみただけ」



考えるとポップさのなかに、ダークネスを潜め始めたBUCK-TICKの、
最大のヒット・ソングが、この「悪の華」だ。

売れることへの弊害をBUCK-TICKというバンドもこの時期に潜り抜け、
独自の音楽世界の構築に、乗り出していったのが、
この「悪の華」とそれに続く、ゴシックな調べ。
そしてアルバム『狂った太陽』で爆発する“狂気”であった。


「Lonely days
 あふれる太陽 蒼い孤独を手に入れた Blind-Blue-Boy」



以後、誰にも文句を言わせないスタイルで、自らの牙城を作り上げたBUCK-TICK。

すべてのバンドへのヒントが、この楽曲に隠されている。
ロックバンド然としたビートに、耽美的な破壊の歌詞。


「Lonely nights
 凍える夜に叫び続ける 狂いだせ Blind-Blue-Boy」



HISASHIのギターリフも、TERUのヴォーカルも北海道で練習したあの頃へ還っていく。
ただただ、なんのしがらみも無く、“ロック”だけがあったあの頃へ。

パワフルなMOTOKATUのドラムに躍動しつつ、HISASHIがギターソロを決める。
ウエノのベースは、空間を充満するように広がりしっかりと重低音をバクチクさせる。


「指の隙間で この世界がまわる
 熱くキラメク ナイフ胸に抱きしめ」



少し上ずったように唄うTERU。
上手のポジションでギターを弾くHISASHIも滅多に見られないが、
少々緊張気味のTERUの姿もファンには新鮮に映っただろう。

「悪の華」の演奏が終了すると


「今日は初めてのライヴなんで
 …勝手に盛り上がって下さい」



と語るTERU。
GLAYファンから少々笑いがもれる。


「BUCKッツTICKッッ(少し噛む)20周年ということでね、
俺達も20年続くといいなって思います」



こんなに売れても緊張する紳士TERU。
たしかに色気溢れる男である。

その後は、洋楽のカバーナンバーを中心としたセットリストだったが、
どの楽曲にも多彩なアレンジが施され、
エフェクティブなHISASHIのギターが独特の世界観を構築していた。

3曲目の「New Rose(THE DAMNED)」
かつて、ガンズ・アンドローゼズにもカバーされたブリティシュ・パンクス。
ここら辺の選曲は、HISASHIのものであろうか?
ザ・ダムド (The Damned) は、
1976年に結成されたイギリスのパンク・バンドである。
セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュと並んで
ロンドン3大パンクのひとつに数えられている。


4曲目は「wardance(KILLING JOKE)」
キリング・ジョーク (Killing Joke) 。
これも1978年結成のイギリスのポストパンクバンド。
インダストリアル・ロックの先駆的存在であるほか、
特に初期の音楽性は後のオルタナティブ・ロックにも影響を与えている。
初期の音楽は厚いギターサウンドと激しいドラムビートの反復を特徴とするものだったが、
1980年代を通して徐々にシンセサイザーをメインにすえた、
一般的なニュー・ウェイヴ・サウンドに近づいてゆく。
この路線では一部音楽マニアの支持を得たが、
音楽チャート上に売れた曲は"Love Like Blood"ぐらいであった。
なかなかマニアックな選曲である。



そして、続く「You Really Got Me(THE KINKS)」。
The Kinks(キンクス)も1964年に結成されたイギリスのロックバンド。
イギリス4大バンド=ザ・ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フーなかのひとつだ。
同曲は、ヴァン・ヘイレン (Van Halen)が、
リーダーで、ギタリストのエドワード・ヴァン・ヘイレンによる
「ライトハンド奏法」が挿入されて
1978年1月、シングル「ユー・リアリー・ガット・ミー」でメジャーデビューを飾る
カバーソングとしてスタンダード化を果たしている。

どうやら、ブリティッシュ・ロックをコンセプトに選曲したリストと言える。

「You Really Got Me」では、MCUがステージに呼び込まれ、
TERUとラップでコラボ。
初ライヴにして他アーティストとのの共演を果たしたRally。
ようやくサングラスを外すと二枚目TERUの顔が拝める。
乱れた髪を整える仕草。汗で髪を洗った後のような感じは櫻井敦司みたいだ。
HISASHIも帽子に隠れて上品に顔の汗をぬぐう。

最後のナンバーは、「Hyperballad(Biork)」で、
bjorkをロック調にアレンジしてみせるなど、
彼らの柔軟な創造性を感じ取ることができるステージとなった。

ビョーク(Björk Guðmundsdóttir)は、
アイスランド・レイキャヴィーク生まれの女性シンガーソングライターで女優でも活動する。
ソロで精力的に活動する以前は、
オルタナティブ・ロックバンド "The Sugarcubes"のメイン・ヴォーカルとして活動していた。

彼女は様々なジャンルの音楽=ポップ、オルタナティブ・ロック、ジャズから、
環境音楽、エレクトロニカ、フォーク、クラシック音楽に影響を受けた
革新的な音楽を生み出すことで知られ、
グラミー賞に12回、アカデミー賞に1回ノミネートされるなど多数の賞を獲得している。

櫻井敦司と今井寿とは同じ年齢で1965年生まれのアーティストだ。

印象的なアーティストを最後に持ってきたロックバンド“Rally”。


ロックのルーツと言えるブリティッシュ・サウンドで、
彼らの原点を求めたか。

そこから、またロックの炎を燃やしてくれることを祈る。



TERUのブログなどからも伺わせるが、
大スターの彼らも、このステージには初めてのバンドということもあって、
かなり緊張感を持って望んだらしい。

しかし、短時間では、あったが、すべて出し切ったTERUもHISASHIも、
笑顔で、ステージを去る。

その後、待ち構える“打ち上げ”には今井宅の最後まで参加したふたり。
一体、今井寿、ASAKIや西川貴教達とどんな話に華をさかせたのであろうか?

否、きっと、こんな席で、ビジネスや音楽論は、野暮というもの、だろう。




彼らがステージを降りると、いよいよ主役BUCK-TICKも本番の準備に取り掛かる。
衣装を変えている姿が映っている。




Rally(rally) are

Guiter:HISASHI
Bass:ウエノコウジ
Drrums:MOTOKATU MIYAGAKI
Vocal:TERU






【Rally SETLIST】

SE
1.Rally
2.悪の華
3.New Rose
4.WORDANCE
5.You Really Got Me(with MCU)
6.Hyperballad




惡の華
 (作詞:櫻井敦司/作曲:今井寿 / 編曲:BUCK-TICK)


遊びはここで 終わりにしようぜ
息の根止めて Breaking down
その手を貸せよ 全て捨てるのさ
狂ったピエロ Bad Blood

夢見たはずが ブザマを見るのさ
熟れた欲望 Fallin' down
サヨナラだけが 全てだなんて
狂ったピエロ Bad Blood

燃える血を忘れた訳じゃない
甘いぬくもり が目にしみただけ
Lonely days
あふれる太陽 蒼い孤独を手に入れた Blind-Blue-Boy

燃える血を忘れた訳じゃない
甘いぬくもりが 目にしみただけ
指の隙間で この世界がまわる
熱くキラメク ナイフ胸に抱きしめ
Lonely days
あふれる太陽 蒼い孤独を手に入れた Blind-Blue-Boy
Lonely nights
凍える夜に叫び続ける 狂いだせ Blind-Blue-Boy
Lonely days
あふれる太陽 蒼い孤独をたたきつぶせ Blue-Boy
Lonely nights
凍える夜に叫び続ける 狂いだした Blue-Boy

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