「刻む命の翼で
生まれ変わる来世(とき)を
待ち焦がれて~~~
トーキョー!!!ヨコハマ!!!」
2007年9月8日、デビュー20周年記念イベントとしてBUCK-TICKは、
横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージにて『BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE』を開催。
感動的ともいえるベテラン土屋昌巳の、誰よりも強く激しく、そして、優しい
ライヴ・アクトを目撃した大観衆にも、このイベントが、
なにか、大きな“祝福”の思念で包み込まれるような、
そんな、夕暮れ時を、海風に感じる時間に、差し掛かっていた。
バック・ステージでは、中世貴族のような衣装を脱いだ大御所:土屋昌巳に、
「ステージ、暖めときました」
といわれ恐縮する西川貴教。
出番の前にマイクを向けられると、
いつもの饒舌が、顔を出す。
先輩格BUCK-TICKをも、少しからかうように、いじる西川・・・
「終わってからのほうが心配。
ライヴ終わってからの“打ち上げ”が心配ですね(笑)。
どこまで付き合わなきゃいけないのか?が心配ですね。」
しかし、そんなコメントの表情から、本当に、最後の“打ち上げ”まで、
楽しみに、この日を待っていたという意気込みを感じる、
そんな“愛”と“祝福”のこもった彼らしい表現であること、
誰しも、わかりきったことである。
そして、彼の本職は、“打ち上げ”の盛り上げ部長ではない。
マイクを握らせたら、“誰にも負けない”!
そんな、ヴォーカルを、この日の横浜に集結した大観衆に、ぶつけていた。
あの辛口カリスマ・シンガー清春を以ってして
「すばらしいヴォーカリスト」と言わしめる西川貴教のヴォーカルは、半端じゃない。
ある意味では、照れ隠しの巧妙な話術に隠れて、
この西川貴教の歌唱力を、クローズ・アップさせないように、
自ら自身を演出してはいるが、
その裏に「これだけは、誰にも負けない」という強い自信を秘めて、
彼は、今日もステージに登る。
彼のことはBUCK-TICKの珠玉の名曲「ROMANCE」のシングル・リリース時のテレビ番組の司会役として、
一度、【ROMANCE】でも取り上げたかと思う。
その時、彼は、BUCK-TICKメンバーの個性を上手くデフォルメし、
「ROMANCE」を「血みどろの風車」と表現していたが(勿論!冗談で、である)。
その後、リリースされたシングル盤「蜉蝣」-かげろう-」のヴィデオ・クリップなどを見ると、
この時の西川貴教のジョークがそのまま採用されてしまったのではないか!という、
錯覚さえ覚えるのだ。
真意のほどは、いかんにせよ、
上手く、先輩をいじって、可愛がられる。
そんな彼の個性を、BUCK-TICKメンバーも、弟分を見るような眼差しで、
優しく見つめている。
そして、なによりも、彼の歌唱力をBTメンバーも認めているからこそ、
トリビュート・アルバム『PARADE~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~』に、
彼に話を持ちかけたのであろう。
それは、歌唱力だけではなく、
彼の語り口調からもにじみ出る“人間性”が、
土屋昌巳のいうところの“アーティストの責任感”に繋がっていくような、
そんな感覚がするのである。
どんなに、オチャラケていても、歌だけは、ビシッと決めるプロ根性とでもいおうか?
そんな彼の姿勢を感じるようなライヴ・アクトであった。
日も暮れ始め、夜の宴の先陣を切るように西川貴教の新バンドabingdon boys schoolが
横浜新みなとみらいのステージに登場すると、
客席からは西川親衛隊の黄色い歓声が会場に響く。
彼らは、挨拶代わりにBTトリビュート楽曲「ドレス」から、
このライヴをスタート・ダッシュさせた。
幽玄な雰囲気を醸すSEっぽいイントロから、
いきなり激しいギターサウンドが襲い掛かるabingdon boys schoolの「ドレス」。
西川のヴォーカルが始まると、演奏はまたオフ・トーンとなり、
凄さまじいヴォーカルを披露する西川貴教に、横浜の大観衆も声援を送る。
ドラマチックな緩急の展開を潜り抜け、
いつしか、激しいギター・サウンドと西川のヴォーカルが混ざり合うように、
この星野英彦作曲の「ドレス」が横浜の空に舞い上がっていくと、
嘆きのヒーローが、この空のどこからか舞い降りてくるかのようだ。
それまで後ろに控えていた西川フリークが、
一気に前方に進撃を開始しステージ前面がすし詰め状態へと変わる。
夜は、空に広がり、ライトアップが、印象的に「ドレス」を演出し始める。
ステージを見ると、それまでのシンプルなモノから変わり、
abingdon boys schoolだけのお立ち台が、セットされている。
ヴぉーカルの立ち位置辺りのミニクーパーのフロント部分だけをカタチどったオブジェ。
これは、このバンドのメイン・コンセプト、イギリスの学生バンド、
を表現したものだ。
メンバーの衣装も、ブリティッシュな学生服をアレンジしてビート・サウンドの雰囲気を醸している。
西川貴教はサングラスならぬ巨大な黒縁眼鏡を装着している。
すこし、そんなアンバランスを感じさせるような「ドレス」も、
西川貴教の圧倒的な歌唱力の前に、かき消されるかのようだ。
このライヴ・アクト後、リリースとなるアルバム『abingdon boys school』は、
文字通りabingdon boys schoolのデビューアルバムとなる。
このアルバムの最後に、この楽曲「ドレス」も収録されることになった。
これはBUCK-TICKのトリビュート・アルバム『PARADE~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~』に、
収録されたモノと同一のテイクであるが、
「ドレス」をカバーして、いたく気に入ってしまった西川貴教が、
自身のラジオ番組で、今井寿に対して、この楽曲を譲って下さいと懇願した結果、
「これは、オレのじゃないから・・・」と今井寿は返答をし、
それを西川は「オレのじゃないから(いいよ)」と解釈して譲り受けたとされるが、
今井の言った、「オレのじゃないから」の意味は「ヒデ(星野英彦)の作曲だから・・・知らない」
という意味であったというエピソードもある。
当然それだけでの了承で、収録された訳ではないだろうが、
やはり、「ドレス」の魅力に、嵌ってしまった西川貴教の執心の末のコンバートとなるであろう。
2007年10月17日発売された同アルバムは、当初発売日は2007年10月10日と発表されたが、
何らかの事情により1週延期となり10月17日に変更されたが、
それが「ドレス」収録の為の時間であったというのは、BUCK-TICKファンの買い被りであろうか?
ちなみにメンバーである岸利至の誕生日は10月17日であり、発売日と同一日である。
このアルバムは、「初回生産限定版」「通常初回版」「通常版」の3つの販売形態がある。
前者2つと通常版との違いは。 「初回生産限定版」にのみ与えられる仕様は、
シングル3曲のヴィデオ・クリップに加え『Nephilim -FolksSoul PV ver.-』を収録したDVD、
三方背BOX仕様、ジャケット違いブックレット、
a賞・b賞・s賞どれかが当たるプレゼント企画応募ハガキなどの特典があった。
全12曲収録のアルバム『abingdon boys school』 では
11曲目に「ドレス」
(作詞:櫻井敦司 作曲:星野英彦 編曲:abingdon boys school)
とクレジットされ、ラストのインストゥルメンタル楽曲「ReBirth + ReVerse」(作曲:岸利至)で、
終焉を迎える傑作となっている。
この日、パフォーマンスされた「ドレス」も、
小柄な西川貴教の身体全身から放出されるような迫力のヴォーカルで会場を沸かせる。
しかし、あの身体の何処からこんなパワーが、と言うくらいの、
凄まじい声量、圧倒的な歌唱力を見せ付けていた。
MCでも、
「(BUCK-TICKとは)上京したときに同じ事務所にお世話になりました。
あれから20年…」
と語っていたが
西川 貴教は、1989年にバンドLuis-Maryを大阪で結成した。
(灰猫=haineと名乗っていた)
関西のインディーズ・シーンでは、知る人ぞ知る実力派ヴォーカリストであった。
Luis-Mary (ルイ・マリー)のインディーズ時代は
FORK SONG RECORDSからCDをリリースした後、1991年に日本クラウンからメジャーデビューを果たした。
一時期は「東のLUNA SEA、西のLuis-Mary」と言われていた事もあった。
メンバーは
HAINE(西川貴教・ヴォーカル)
ZYENO(山下善次・ギター)
SHIEN(丸山武久・ベース)
KEN(有田賢・ドラム)の4名で、
元々は大阪スクールオブミュージック専門学校の同じ総合音楽科に籍を置いていたメンバーで
結成されたバンドである。
ZYENOとSHIENを中心に結成され、後にHAINEとKENが加入。
インディーズ時代はライヴ活動を中心としていた。
当時は何度か登場するがTBSの人気番組『イカすバンド天国』の全盛期であり、
東京の原宿では歩行者天国にアマチュアバンドが集まる『ホコ天バンド』が脚光を浴びていた。
そのため大阪でもなんらかの形でミュージックシーンを盛り上げようと動き始める。
バンドブームが到来すると、とくにシャ乱Qの人気が大きくなり、シーンのリーダー的存在となった。
そしてシャ乱Qの人気に肉薄する勢いで出てきたのがこの西川率いるLuis-Maryであった。
当時の関係者から、
Luis-Maryは技術的には未熟なものの西川のボーカルにパワーや情勢が感じられるという風評が
スタッフに届き、徐々に注目を集め始める。
そしてLuis-Maryの存在を世に知らしめたのが、
大阪地区でローカル放送された『ライヴ・キング』という番組への出演だった。
この番組はLuis-Maryが専属契約を交わしていたライヴハウスが製作していた為、
彼らにも出演の誘いがかかった。
これによりLuis-Maryは大きな一歩を踏み出した。
バンドの知名度が大きくなるにつれ、西川貴教はメジャーデビューすることに意識を持ち始めた。
しかし他のメンバーにその意識があまりないことから、
西川は一度3人のメンバーの前から姿を消し、3人は西川を見つけ出し説得した。
最終的にバンドに戻った西川貴教だが、4人のメンバーの葛藤は長い間、様々な面で頭をもたげた。
その時間を経て、メンバーそれぞれの葛藤と我慢が実を結ぶ時が来る。
しかしそんな時を経て、着実に実力をつけてきたLuis-Maryに対し、
ライヴハウスのオーナーは「インディーズでCDを出してみよう」と提案する。
そしてFOLK SONG RECORDSからアルバムを発売してから、
東京のレコード会社・日本クラウンからメジャーデビューの声がかかった。
この話にはメンバー全員が飛び上がって喜んだという。
上京するとクラウンレコード側はすぐにLuis-Maryの持ち歌を聴き、レコーディングの準備に入った。
また、東京でのスケジュール管理をするためLuis-Maryは、
当時、BUCK-TICKが所属していた音楽プロダクション【V・シェイクハンド】に所属する事になった。
それ以前にアーティスト契約としてライヴハウス『YANTA鹿鳴館』との契約も残っていたが、
YANTA鹿鳴館側はLuis-Maryへのよしみから何も言わなかった。
クラウンレコード側も、大阪でのLuis-Maryの人気やバンドとしての実力をじっくり見すえた結果、
CDをリリースしていった。
アルバムを精力的に製作する一方、
ファン層拡大のためファンクラブ『Luis-Mary OFFICIAL FAN CLUB XTRA ISSUE』を発足し、会報も作られた。
クラウンレコードは「CDを出し続ければ絶対に売れるに違いない」として
かなりのバックアップ体制で彼らをプッシュしていったが、思うようにアルバムは売れなかった。
メンバー間に苛立ちが募る。
最終的に西川貴教が自身とバンドとの音楽性の違いを主張し、解散を決意した。
他のメンバーとしては、解散は不本意であったという。
そして1993年3月16日の宇都宮でのライヴをもって解散した。
1993年は、BUCK-TICKが、シングル盤「ドレス」をリリースした年である。
ひょっとすると西川貴教には、
この同事務所時代の最後にリリースされたBTの「ドレス」への思い入れが、
この時から、残っていたのかも知れない。
そんな忘れられない「ドレス」を熱唱する西川の胸には、
この時、どんな想いが、あったのだろうか?
1993年、Luis-Mary解散。以後2年弱の間、西川貴教は表舞台から遠ざかる。
そして、再び西川貴教が姿を現したのは1995年。
浅倉大介のソロシングル「BLACK OR WHITE?」にヴォーカルとして参加したのであった。
この時期は西川のソロデビューに先駆けてライヴ活動と準備期間といえる。
12月には公式ファンクラブturboが設立されている。
いよいよ彼が本格始動し出すのは1996年5月。
ソロプロジェクトであるT.M.Revolutionとしての活動を開始する。
T.M.Revolution(ティー・エム・レボリューション)は、
西川貴教が音楽活動をする際に名乗っている名称の一つであり、
彼自身のソロプロジェクトの名称である。
"Takanori Makes Revolution"(貴教が革命を起こす)から付けられた名称である。
西川貴教という一個人の名義ではなく、プロデューサー(浅倉大介)や関係者、
また全てのファンも一緒に歩んでいくという意味が込められたプロジェクトの名称である。
この実態について、以前に西川自身が例えとして
「自分はクリスマスツリーの一番上の星で、みんなはツリーだ」
と説明したことがある。
なお、この名称は浅倉大介がサポートメンバーを務め、
ミュージシャンとしての修行を積んだTM NETWORKに由来していると思われる。
(ただし、浅倉本人は著書の中で「似ている事には後で気が付いた」と述べている)
テレビやラジオなどで浅倉大介本人が語っていたことだが、
彼は小室哲哉に「TMの名前を使わせてもらいます」と直接電話をし承諾を得たという。
メディアに出始めた彼らは関西弁の饒舌なヴォーカリストを揶揄して、
人気取りのパロディー・バンドという扱いであったが、
それを、西川貴教は、己の歌唱力を武器に実力で、黙らせることになる。
このプロジェクトの結成は、
1995年、ヴォーカリスト貴水博之とのユニットaccessの活動停止を発表し、
ソロ活動を再開していた音楽プロデューサー浅倉大介が、
自身のソロプロジェクトに参加するゲストヴォーカリストを探していた際、
ヘアメイクを担当していた美容院SMOKERの美容師・横原義雄により、
1991年にLuis-Maryのヴォーカルとしてメジャーデビューするも思うように売り上げが伸びず、
1993年にはバンドを解散していた西川貴教が紹介されるところから始まる。
同年5月25日、「浅倉大介expd.西川貴教」名義で、
シングル「BLACK OR WHITE?」(ファンハウス(現:BMG JAPAN))をリリース。
オリコンベスト20入りを果たす。
7月~9月にかけて行われた浅倉大介・葛城哲哉・木根尚登によるライブイベント「What Jam?」に
西川貴教もゲスト出演。
「BLACK OR WHITE?」やTM NETWORK、accessの楽曲を歌った。
しかしaccessの活動停止直後だった為か、彼らのファンから歓迎されない場面もあり、
心無い手紙なども受けたことがあるという。
以後、浅倉大介トータルプロデュースによるソロ・プロジェクト、「T.M.Revolution」として始動。
CDデビュー前からライブ活動を精力的に行ってファンを着実に増やし、
1996年5月13日「独裁-monopolize-」(アンティノスレコード)でデビューを果たした。
西川貴教はバンド活動中も、お金が絡む人間不信に陥るような目に合わされていたため、
浅倉を紹介された時は、絶対に騙されていると思っていたという。
精力的なライヴをこなした上でのデビューを飾ったが、
それでも音楽業界のトップアーティストの一員と呼ぶにはまだまだであった。
転機が訪れたのは、アニメ「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」のテーマソングとして起用された
サードシングル「HEART OF SWORD ~夜明け前~」のロングヒットであった。
これをきっかけに、メジャーな音楽番組に多数出演する機会を得る事となり、
フジテレビ「HEY!HEY!HEY!」にプロデューサー浅倉大介と共に初出演を果たす。
ルックスからは想像もつかないおもしろキャラクターでお茶の間にも浸透。
披露される軽妙なトークや圧倒的なパフォーマンスが話題を呼び、
5枚目のシングル「HIGH PRESSURE」でついにオリコンベスト10入りを果たす。
続く6枚目シングル「WHITE BREATH」ではミリオンセラー、
3枚目のアルバム「triple joker」では250万枚のセールスを記録した。
このアルバムでのツアー「King of joker」は、
デビュー前に浅倉大介、木根尚登、葛城哲哉などと回ったイベントツアーライヴ「What Jam?」と同じ
全国主要都市のホールを回るツアーでファイナルは日本武道館。
この公演のラストで歌った実質のデビュー曲ともいえる「BLACK OR WHITE?」では
感慨のあまり泣き崩れてしまう。
一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、デビューから足掛け1年半で人気を不動のものにする。
その後も順調にヒットシングルを飛ばし、4枚目アルバム「The Force」の発表ののち、
それまでの活動の集大成ともいえる、
浅倉大介をサポートメンバーに迎えての東京ドームライブ2daysの後、
T.M.Revolutionは1999年3月18日に突如その活動を"封印"すると発表する。
1999年春からT.M.Revolutionとしての活動を封印し、
「the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D」名義で
トータルプロデューサーの浅倉大介と共に活動する事となった。
このユニット名は
「創世期は終わり、T.M.Revolutionは西川と浅倉の手によって進化する」
という意味で捉えることが出来る。
「T.M.Revolutionを更に"進化"させるための準備期間」として設けられ、
それまでのスタイルを壊す画期的な展開を見せた。
浅倉の当時の発言によると、この活動は
「(アイドルとしての)固定イメージの確立されてしまったT.M.R.の枠をはずす」
ことを目的にしたものであったようだ。
2000年3月のライヴを契機にT.M.Revolutionとしての活動を再開し、
音源リリース、ライヴ活動を精力的にこなす。
2002年からは西川自身がT.M.Revolutionのセルフプロデュースを開始することにより
また活動の頻度が高くなる。
2003年には、デビュー時から所属していたアンティノスレコードから
エピックレコードジャパンに同一レコード会社内でレーベル移籍を行い、
その後も新天地で様々な音作りを模索している。
2005年中期以降、デビュー10周年に向けて様々な活動が行われた。
21枚目を数えるシングル「vestige -ヴェスティージ-」リリースの際は、
新宿ステーションスクエアにて楽曲初披露の初ゲリラライヴを決行。
また、本来T.M.Revolutionの音源には、
プラグラミング&キーボードを担当する浅倉大介のデジタルサウンドが用いられるが、
リクエストセルフカバーベストアルバム「UNDER:COVER」では、
音源初のライヴアレンジを収録し生演奏のバンドサウンドへの傾倒など、新たな試みが続いている。
10周年を迎えた以後も継続して様々な活動が行われ、
デビュー記念日である2006年5月13日にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンにて記念パレードを、
2006年6月7日にはシングル21作全てを収録したベスト盤
『The Complete Single Collection of T.M.Revolution 1000000000000-billion-』
(オリコンアルバムチャート初登場1位)をリリース。
さらに6月21日にはシングル21作とLOVE SAVER、Meteor、Zipsの映像作品を全て収録した
ベストDVDもリリースされた。
そして8月、満を持して8年ぶりの日本武道館、及び大阪城ホールでのライヴが実現。
11月9日より東京・大阪・名古屋・仙台・福岡の5都市を巡る衣装展「TIME SLICE DECADE」を開催。
年末恒例のファンクラブ会員限定ライブは過去最多の全10公演を果たした。
西川貴教はこの2006年の一連の活動を振り返り
「2006年を持ってT.M.Revolutionの活動に一区切りがついた」
という内容の発言をしており、
以後1年間は彼自身が参加するバンドabingdon boys schoolや、
2度目のミュージカルである「ハウ・トゥー・サクシード」の活動がメインに置かれ、
T.M.Revolutionは充電期間に入っていた。
「こんばんは!abingdon boys schoolです!」
西川貴教のMCが、熱狂するファンたちの歓声にかき消されそうだ。
彼の歌唱力同様、どうやら、西川のファンはパワフルなようだ。
「ドレス」に続いて演奏されたのは、彼らのセカンド・シングル楽曲「HOWLING」。
2007年5月16日にリリースされたabingdon boys schoolの最新楽曲である。
2007年4月より放送開始のMBS・TBS系アニメ『DARKER THAN BLACK -黒の契約者-』の
オープニングテーマに採用されたが、
第二期になり差し替えられた後も、以前のオープニング「HOWLING」を望む声があった。
「アガがって行けー!!」
と「HOWLING」を叩き付け、凄まじい勢いで加速していく4人。
夕焼けに色付けされた雲が高速で流れていくと大観覧車のイルミネーションが点り、
彼らのサウンドに呼応するかのようにライヴ空間は新たな表情をみせる。
立て続け披露される楽曲は「stay away」。
人気コミック「NANA」のトリビュート盤である
『LOVE for NANA~Only 1 Tribute~』に収録された楽曲で、
全英詞の歌詞が、ポップで、ブリティッシュ・マージー・ビート・サウンドを奏でる。
英国男子をモチーフに結成されたabingdon boys schoolのイメージにはピッタリだ。
言い換えれば、バンドサウンドを志向した西川貴教の新境地とも言えるかも知れない。
T.M.Revolutionではない西川の姿がはっきりと浮き彫りになる。
abingdon boys school(アビングドンボーイズスクール)は、
シンセサイザー、プログラマーの岸利至の呼びかけに、西川貴教が乗り、結成されたロックバンド。
岸利至がリーダーも務める。[※コメント欄にて訂正致します2009.09.30]
岸 利至(きし としゆき)は、音楽プロデューサーとしても活躍していて、
JUNK FUNK PUNK、TWO TRIBESのメンバーでもある。
またtkoとしてソロ活動も行なっている。
1991年頃より坂本龍一、YMO、
そして今井美樹、オリジナル・ラヴ、布袋寅泰、THE ALFEE、高見沢俊彦(ソロ)などのライヴ、
レコーディングに参加し作曲、演奏、アレンジ、プロデュース、リミックスなど、幅広く活動している。
また『RED SHADOW 赤影』などの映画音楽や
『ガイアの夜明け』などテレビ番組のテーマソングにも携わっている万能音楽人。
彼が遠くブリティシュ・ロックンロールを実現しようと目論み、話を西川に持ちかけて結成に至る。
メンバー全員がクリエイターとしてかなりの経験を積んでいる。
その中で、「バンドやろうぜ」をコンセプトに「音楽を始めた頃の気持ちに戻せたら」という思いにより
結成された彼らのルーツに迫るような想いが、
ロックバンドabingdon boys schoolには込められている。
それに関連してか、
「メンバーが集まって店屋物を頼むときには、それぞれ注文は1人1食あたり1000円以内と決めている」
というアピールを、デビューシングル「INNOCENT SORROW」の広報活動時まで頻繁に言っていた。
理由は「新人バンドという自覚を持つため」らしい。
バンド名は英国に実在する寄宿学校Abingdon Schoolからとったもの。
レディオヘッドのメンバーの出身校としても有名。
デビュー以前にも、メンバーであるこの4人が(他のスタッフとも合わせて)合同で、
バンドとしての活動でなくT.M.Revolutionの活動を行った際の音源が発表されている。
(T.M.Revolutionのセルフカバーベストアルバム『UNDER:COVER』に数曲収録される)
2007年7月7日には幕張メッセで開催された
「LIVE EARTH -The Concerts For A Climate In Crisis-」
に出演しオーディエンスの前に、その姿を現した。
そう、この日はBUCK-TICKライヴツアー【PARADE】の東京公演。
Zepp Tokyoへのダブル・ブッキングは、その幕張メッセから直行便で敢行された。
所属芸能事務所はパーフィットプロダクション。
2006年12月、デビューをシングル「INNOCENT SORROW」エピックレコードからデビュー。
(※以前にも同メンバーで企画盤で音源を残している)
リーダーの岸利至と同バンドの作曲を分け合うギタリストの柴崎 浩(しばさき ひろし)は、
ヤマハ音楽院ギター科に入学して、プロ活動に必要とされる基礎的な技術を習得する。
1991年に、上杉昇、大島康祐とWANDSを結成している。
栗林誠一郎作曲の「寂しさは秋の色」で、メジャーデビューを果たす。
ファーストアルバム『WANDS』収録の「Good Sensation」で初めて作曲に参加(大島と共作)。
1992年に、サードシングル「もっと強く抱きしめたなら」リリース後、
大島康祐が自身のユニットSO-FIを結成するために脱退。
後任として、柴崎浩のYAMAHA音楽院時代の知人であった木村真也が加入した。
その後大島康祐はB'zのサポートをするなどの活動を行っている。
“中山美穂&WANDS”としてリリースされた「世界中の誰よりきっと」により大ブレイク、
相まって先に発売されていた「もっと強く抱きしめたなら」も
オリコンチャート登場29週目にして1位となりミリオンセラーを記録する。
1993年の初頭にリリースされたシングル「時の扉」もヒットし、
日本の音楽界においてトップアーティストとしての地位を確立する。
1993年度は、シングル4,112,008枚・アルバム3,187,564枚の売り上げを記録し、
第8回日本ゴールドディスク大賞を受賞した。
1995年に、アルバム『PIECE OF MY SOUL』を発売する。
同年リリースの「Same Side」はシングルとしては「ふりむいて抱きしめて」以来の
メンバーのみの手によるシングル曲で(作詞:上杉昇、作曲:上杉昇・柴崎浩、編曲:WANDS)、
上杉昇が志向する欧米的な流れであるオルタナティブのサウンドを如実に示すものであったが、
当時の日本での売れ筋J-POP路線とは一線を画していたため周囲との確執が生まれ、
1996年シングル「WORST CRIME ~About a rock star who was a swindler~」リリース後、
音楽性の違いを理由に上杉昇と柴崎浩が脱退。
このWANDSの第二期と呼ばれる転換は、日本のJロックシーンを模写したような展開であった。
第一期の当初は、初期のB'zやaccessに見られるような「デジタルビート」を、
サウンドの方針としていた。
この一転してジャパニーズポップス歌謡曲の要素を前面に出したサウンドを展開する第二期。
これにより、ドラマ・CM・アニメなどのタイアップがなされ、
一気にヒットチャートの上位に躍り出ることになった。
WANDSの代表曲の多くが、この第二期の前半に集中している。
そのため「WANDS」といえばこの当時のヒット曲が固定的にイメージされることも多いが、
実際のサウンドは当時も変化し続けていた。
例えば第一期最後のシングル「もっと強く抱きしめたなら」と「時の扉」も
かなり異なるサウンドであるといえる。
WANDSサウンドの本質は、時代が大きく変革を遂げようとしていた時期に、
様々な波を乗り越えようともがく姿にこそ、あったといえよう。
第二期の後半になって、アルバム『PIECE OF MY SOUL』のリリースを境に、
それまでのポップでキャッチーな曲調から、
シンプルで骨太のロックサウンドのオルタナティブやグランジを表現するようになっていった。
しかし、大衆性のないグランジというジャンルに、
多くのファンに戸惑いを感じさせる原因ともなったといわれる。
彼らの変遷は、一時、日本ロックシーンを席捲したビーイングの核にひとつであった。
「WANDS」は2度のメンバーチェンジを経て、2000年に解体(解散)した。
1996年、柴崎 は上杉とともにWANDSを脱退。その後、al.ni.coを結成。
2000年には俳優:反町隆史のシングル「Free」のカップリング「Black and White」にて、
初めて楽曲提供を行い作曲家として外部への展開を見せる。
2001年にはバンドal.ni.co解散し、同年12月よりstrange eggのギター・ヴォーカルとして活動開始。
2002年、ギタリストとして相川七瀬のライヴツアーに参加。
2004年に入りT.M.Revolutionのサポートメンバーとしてライヴツアーに参加するようになり、
2005年に西川貴教の誘いによりabingdon boys schoolに加入した。
スタジオミュージシャンからキャリアをスタートしたこともあって、
基本に忠実に弾くタイプのギタリストであり、abingdon boys schoolでは、
もう一人のギタリストSUNAOと対照的なギター・プレイが印象的だ。
ブレイク後は速弾きやテクニックのあるフレーズで名を為した。
そして、もう一人のギタリスト、長身で長髪のSUNAO(本名:櫻井 直)。
柴崎浩と共に、ツインギターの1人として活躍する。
GLAYのTAKUROにそっくりで、駅のホームでTAKUROのファンから間違えられたことがあるという。
T.M.RevolutionやKinKi Kidsなど、
多くのアーティストのサポートやレコーディングに参加していていたが、
西川貴教の誘いでabingdon boys schoolに参加する。
T.M.Revolutionのサポートに関しては、10年以上参加している。
彼も独特なギタープレイを披露するが、コンポーザーとしての活躍もする柴崎浩とは、違い、
どちらかというと、ギターソロ等のギタリスト然としたライヴ・パフォーマンスが印象的である。
作詞は西川貴教が全て手掛けている。
作曲は柴崎浩と岸利至の2人のみが担当していたが、
このフェス参加後の4枚目のシングル「BLADE CHORD」のタイトルソングで、
初めてSUNAOが作った楽曲が発表された。
以上4名の正式メンバーに加えて、サポートメンバーとして、
Ikuo(いくお)ベース。
柴崎やSUNAOと同じくT.M.Revolutionのツアーなどにも参加。
長谷川浩二(はせがわ こうじ)ドラム。
Cube-rayのドラマー(元THE ALFEEの専属ドラマー)
が、ライヴでは活躍する。
西川貴教とオーディエンスが「Yaeh!!!」と何度も掛け合えば、MCタイムに突入。
BUCK-TICKとの馴れ初めを早口で語り、
「ちょっと宣伝になっちゃうんですけど・・・
10月17日に、僕らのデビューアルバムがでます。よろしかったらおひとつ・・・
そんな感じで・・・
日本一低姿勢なロックバンドとして頑張って行きたいと思います!」
とその饒舌で笑いを誘う。
そして、abingdon boys school ラストの一曲の前に、
お得意の長めのMCが入る。
「ね、BUCK-TICK、
上京したときに同じ事務所にお世話になりました。
あれから20年・・・。
今回呼んでもらって・・・
こうやって、このステージに立てたことを、
本当に、嬉しく、想っています。
ありがとうございます。
え~、本当ならば、その自分の想いのたけをですね、
いかに、僕が、BUCK-TICKに対して、
皆さんに負けない位の気持ちで、ここに立っているか?という事をですね、
約~そこらへんが約4時間半!
それから3時間半ぐらいが、僕のそれまでの、
それとこれからのまたね、
未来についてのお話を出来ればいいかな、とも思ったんですけど…。
そういう訳にもいかないようですので。
…という事で、ラスト!想いのたけを!×××××!!!
唄えるヤツは、唄ってくれよ!」
「裂けた胸の傷口に 溢れ流れる PAIN In the dark
重ね逢えた瞬間の 繋がる想い 融かして」
ラストの張り裂けそうな想いを乗せる「INNOCENT SORROW」では、
西川お得意の超高音のシャウトを響かせ、
キャリアに裏付けされたパフォーミングで大観衆を魅了した。
この楽曲「INNOCENT SORROW」は、abingdon boys schoolのデビューシングルとなる。
2006年10月3日より放送開始のテレビ東京系アニメ『D.Gray-man』オープニングテーマにも採用されている。
ちなみに発売されたのは2006年12月第1週である。
丁度15年前の1991年12月の第1週に、
柴崎浩がWANDSのギタリストとしてシングル「寂しさは秋の色」でデビューしている、
奇しくも同グループの元ヴォーカリスト上杉昇も、
2006年12月第1週にデビュー15周年記念としてカバーアルバムをリリースした。
そして、WANDSのようなキャッチーさの中に、西川独特の歌詞が載り素晴らしい一曲となった。
「醒めない熱に惑わされて 最後の声も聴こえない
トーキョー!!」
大阪から上京し
一時は潰えかけたロックへの想い。
あきらめよう、と頭では、想っても、その熱にうなされるように。
しかし、今井寿の言うとおり、例えそれがどんなカタチになろうが、
「続けることが“カッコイイ”」のだ。
それがわかったら、羽がなくても飛んでみようと思った。
そして、彼らにも、恐らく「辞める理由」などありはしない。
死ぬまで“ロック”を唄い続ける。
そんな気迫が感じられる演奏であった。
「どのくらい 果てない痛みと悲しみから
君を救えただろう Oh…
もっと 強く掌に触れてみせて Ever and never end」
柴崎浩のギターソロが胸に突き刺さる。
ギターの優等生らしいシャープなソロであるが、その礼儀正しさの中に“熱さ”を秘めている。
本当に演りたいサウンドが、ここにある!
西川貴教のラップ調のスキャットがドライヴする。
するとギターソロはSUNAOにスイッチする。
SUNAOのギター・ソロは、柴崎とまた違い、スピーディーに展開し、
西川のラップのシャウトと混ざり合っていく。
絶妙なギターコンビネーションの後ろではリーダー岸利至のコーラスをシャウトする姿が、
頭上のモニター・スクリーンに映し出される。
そのスマートな印象からは、かけ離れた“叫び”!
「Don't Cry 壊れそうなほど抱きしめたら
君が震えていた Oh…
そっと 翳す掌に触れてみせて」
確かに、演りたいロックと“売れ筋”とは、別物かもしれない。
が、ハード・ロックとポピュラー・ミュージックの融合を試みて、
進化を遂げてきたジャパン・ロックの真髄が、ここに爆発する。
面白すぎるトーク術の裏で熱く燃えるFLAMEを、
今宵も垣間見せる西川貴教の本領発揮は、この伸びやかなラスト・パート!
横浜の特設会場をも饒舌で爆笑の渦に巻き込んだ西川貴教。
しかし彼の本当の姿は、ここから、だ!
「このギャップに、皆、ヤラレル・・・」
そんな事を思いながらBUCK-TICKのメンバーもそろそろ自分達の出番の事を、
考え始める時間だろう。
「西川くん(笑)。今夜は寝かせないよ」
もしくは、今井寿の頭にそんなことが浮かんでいたかも…。
横浜の夜は終わらない…。
“ロック”のFLAEMと消えないように…。
「きっと 探してたんだ色褪せない 君という名の奇跡を
もっと 強い掌で僕に触れて Ever and never end~~~」
西川貴教のSHOUT!が、どこまでも横浜の夜空に舞い上がっていく!
「Hey!ヨコハマ!!!Hey!!!Yo!」
「Hey!ヨコハマ!!!Hey!!!Yo!」
「Hey!!!Yo! Hey!!!Yo! Hey!!!Yo!・・・」
気が付けば・・・
ヨコハマが、夜に包まれていた・・・。
真っ赤な・・・夜に。
【abingdon boys school SETLIST】
SE
1.ドレス
2.HOWLING
3.STAY AWAY
4.INNOCENT SORROW
INNOCENT SORROW
(作詞:西川貴教 作曲:柴崎浩 編曲:abingdon boys school)
裂けた胸の傷口に 溢れ流れる PAIN In the dark
重ね逢えた瞬間の 繋がる想い 融かして
醒めない熱に惑わされて 最後の声も聴こえない
Don't Cry 壊れそうなほど抱きしめたら
君が震えていた Oh…
そっと 翳す掌に触れてみせて Never…Untel the end
零れ堕ちる砂のように 儚い願いを Close to the light
閉じた君の面影に 涸れない涙 滲んで
ほどいた指の隙間から 祈りが深く突き刺さる
どのくらい 果てない痛みと悲しみから
君を救えただろう Oh…
もっと 強く掌に触れてみせて Ever and never end
刻む命の翼で 生まれ変わる来世(とき)を 待ち焦がれて
Don't Cry 壊れそうなほど抱きしめたら
君が震えていた Oh…
そっと 翳す掌に触れてみせて
きっと 探してたんだ色褪せない 君という名の奇跡を
もっと 強い掌で僕に触れて Ever and never end
