「この空は・・・
青すぎるぅ~~~!!」
2007年9月8日、
デビュー20周年記念イベント『BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE』
横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージに、
『ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)』が、
タイムスリップして来たかのような一幕であった。
【ウッドストック・ロック・フェスティバル】は1969年8月15日から17日までの3日間、
アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた、大規模な野外コンサート。
このような、ロック・フェスティバルの草分け的存在で、
30組以上のロックグループが出演し、入場者は40万人以上であった。
このロック・フェスティバルは、
アルスター郡ウッドストックにおけるアート・ムーブメントに関連して名付けられたが、
アルスター郡内では、周辺住民の反対運動のため適当な開催地が決まらず、
近郊のサリバン郡ベセルの個人農場主マックス・ヤスガ所有の農場が会場となった。
当初、主催者側は、1万人から2万人程度の入場者を見込んでいたが、
事前に18万6000枚のチケットが売れ、当日入場者は20万人を超えると予想された。
実際はそれをはるかに上回る40万人以上が参加し、
半数以上が入場料金を払わなかったため、事実上無料イベントの様相を呈した。
会場への高速道路は、会場に向かおうとする人々でごった返し、
この週末は雨の上に、施設は人が混み合い、参加者は食べ物やアルコール、ドラッグを分け合っていた。
しかし、暴力事件などは報告されていない。
これは来場者自身が自警団を組んで、未然に防いでいたためといわれている。
度重なる雨による中断のためプログラムが遅れてしまい、
最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリックスが登場したのは明け方であった。
それまでに大多数の人が帰ってしまったため、
現在でも名演と称されるヘンドリックスの演奏を実際に見た者は少ない。
この時のヘンドリックスの演奏は、
1999年にほぼ全曲がアルバム『ライヴ・アット・ウッドストック』として発表された。
ウッドストック・フェスティバルは、カウンター・カルチャーを集大成した、
1960年代のヒューマンビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、
音楽イベントとしてのみならず、ヒッピー時代の頂点を示す象徴と捉えられている。
このフェスティバルはプロモーターにとっては金銭目的ではなかったが、
レコードと映画化のため、最終的には収益にも結びついた。
ウッドストックの会場では2名の死者と2件の出産があった(人数については諸説あり)。
このコンサートの模様は、『ウッドストック』というドキュメンタリー映画として公開された。
マイケル・ウォドレー (Michael Wadleigh) 監督、マーティン・スコセッシ編集の
この映画は1970年に公開され、アカデミー賞 ドキュメンタリーフィーチャーを受賞した。
このウッドストック・フェスティバルを、当然、僕もリアルタイムでは体験していない。
遠藤ミチロウの項で述べたが、“ロック”は、いかがわしくも暴力的な側面が、
満ち満ちていた時代の最高点が、この1969年という年で、あった可能性は高い。
それは、巨星ザ・ビートルズ(The Beatles)の解散と共に、
それまで、鬱積していた“ロック”の魂が、全方向から放射されるような年であった。
1969年9月には、メンバー間でのミーティングの席上、ジョン・レノンが脱退の意思を表明したが、
当時のマネージャーのアラン・クレインはキャピトルレコードとの契約更新が間近であったことから、
ジョンの発言が公にならないようひた隠しにしていた。
翌1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で
ザ・ビートルズからの脱退を発表し、
同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、
ザ・ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。
翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したため、
ザ・ビートルズの解散が法的に決定された。
何かが変わろうとしていた。
ドアーズ(The Doors)は1969年3月1日のフロリダ州マイアミでのコンサートで、
ジム・モリスンがステージ上で性器を露出したとして逮捕される。
モリスンは軽犯罪および重犯罪容疑で起訴され、軽犯罪容疑での裁判は引き続いた。
判決前にモリスンは語った。
「僕はマイアミ事件での裁判でおよそ一年半の多くの時間を浪費した。
しかしそれは価値のある経験だったと思う。
なぜなら裁判前僕はアメリカの司法制度に対して非常に非現実的な学生のような態度を取っていたからだ。
僕の目は少し開いたよ」
レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)の1969年10月に発売された
セカンドアルバム『レッド・ツェッペリン II(Led Zeppelin II)』は、
ザ・ビートルズの『アビーロード』を蹴落とし英米共に7週連続1位、
1970年10月発売のサードアルバム『レッド・ツェッペリン III(Led Zeppelin III)』も
英米共に1位となった。
1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベストグループ1位となった。
その後も解散するまで全てのアルバムが巨大セールスを記録、
コンサートツアーでの観客動員数もトップであった。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)は1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、
レコーディングが間に合わず、
ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。
その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は
結局ノン・タイアップでリリースされたが、
澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。
これらの超メジャー級アーティストが、【ウッドストック・フェスティバル】の出演を断ったが、
新星の如く登場したジミ・ヘンドリックスが、彼らの穴を十二分に埋めイベントは、
伝説のフェスティバルとなった。
ジミ・ヘンドリックス(James Marshall "Jimi" Hendrix)はアメリカの黒人ロックギタリストである。
死後40年近く経った現在でも、
「天才ギタリスト」として多くのミュージシャンに多大な影響を与え続けている、
現代的ロックギターのパイオニアの一人で、
右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。
(※今井寿も一時ストラトキャスターを真似して構えていた)
ギターを歯で弾いたり、背中で弾いたり、ギター自体に火を放ったり、破壊したりする
パフォーマンスも超有名で、後進のギタリストは、一度は真似をしたいと願うカリスマ。
ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて
第1位に選ばれるなど、史上最高のロックギタリストと評されることが多い。
繰り返すが【ウッドストック】でのジミ・ヘンドリックスの演奏は当初の予定から大きく遅れて、
明け方になってからの登場であったため、多くの来場者が既に帰った後であった。
しかし、そこでの演奏は今でも語り草となっており、
特にアメリカ国歌"The Star-Spangled Banner"の演奏は泥沼化するベトナム戦争への批判のため、
爆撃機が空を飛び投下された爆弾が落ちて炸裂する音、
逃げ惑う人々の悲鳴を混ぜ合わせてギター一本のみで演奏しきっており、
現在でもロックミュージック史上屈指の名演として記憶されている。
この演奏はその意味合いから広く物議を醸した。
時は流れる。
2007年9月8日、
デビュー20周年記念イベント『BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE』
横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージに、
このジミ・ヘンドリックスの化身がギターをかき鳴らしていた。
決して、オーバーな表現では、ない。
この会場にも、ようやく風も心地良くなってきた頃、THEATRE BROOKのセッションが始まる。
リズム隊とキーボードが場を温めていくと、ヴォーカル兼ギターの佐藤タイジが登場。
空気感のあるリフを乗せながら
「THEATRE BROOKです」
と朴訥に挨拶し、ブレイクからファンキーなインストナンバーに突入する。
オーディエンスは、それまでのノリとの格差に驚愕しながらも、自然に踊らされてしまう。
太陽が雲に隠れると涼しい秋の風が音楽に揺れ、
佐藤タイジは空に向けて気持ち良さそうにチョーキングを決める。
濃い顔つきを隠すように、
ぐりんぐりんのスパイラルパーマと巨大なサングラス、
サイケデリックにフィットとした白いジャケットがこんなに似合う人は彼以外いない。
カッコいい。ものすごい存在感を感る。
MC時も、礼儀正しく独特のフィーリングで、まるで唄っているかのようにしゃべる。
そんな当代随一のロックンロール野郎・佐藤タイジ率いるアーシー&ブルージー・ロック・バンド。
それが、THEATRE BROOK(シアター・ブルック)だ。
年季の入ったルックスからか、野暮ったい印象に見られがちな彼らであるが、
その音世界は非常にスタイリッシュ&エモーショナルだ。
ブラック・ミュージック特有のまったり感、ロックのもつダイナミズムなどが、
THEATRE BROOKという名のメルティング・ポッドを通過することにより、
メロウ&グルーヴィなグッド・ラヴィン・ミュージックへと昇華される。
1986年結成というから、この日の主役=BUCK-TICKより一歳年下のバンド。
1988年12月にミニアルバム『Theatre Brook』(セルフィッシュ・レコードより)をリリース。
1990年にはRed Hot Chilli Peppersの初来日公演のサポートを務める。
下積みの時間は長くライヴを重ね、
1995年6月にデビューミニアルバム『CALM DOWN』(エピックソニー)をリリースし、
メジャーデビューを果たす。
以来、コンスタントに発表されるハイ・レベルな作品、エナジー爆発のライヴ活動で、
着実に支持層を拡大していった。
佐藤タイジの描き出す世界は、嘘偽りのない世界である。
そして、それは彼自身が望んでいる世界であると考える。
ロック、ソウル、ファンク…様々なジャンルが含まれており、音楽性は素晴らしい。
邦楽で唯一無二の存在であるといえよう。
2000年4月19日にリリースされた4枚目アルバム『I AM THE SPACE,YOU ARE THE SUN』において、
佐藤タイジは、とうとう誰も成し得なかった、ある「高み」に到達した。
極上のグルーヴ、ブチ切れたギター。
このスペイシーさは、まさに天国のロック。
THEATRE BROOKだけの唯一無二。
こんな音を出し、こんな唄をうたうのはTHEATRE BROOKだけだ。
そんなサウンドを確立した。
その3年後の2003年6月4日、バンド名をそのままタイトルにした『THEATRE BROOK』をリリース。
通算5枚目となる3年振りのアルバムリリースとなり、
4thアルバムリリース後、あえてライヴ活動をメインに置いてきた佐藤タイジが、
その3年間に書きためた膨大な楽曲からレコーディングし、
アルバムタイトルもズバリ『THEATRE BROOK』と名付けられた。
テーマは「me,we」。
あのモハメド・アリがパーキンス病にかかった後の大学講演会で、
学生から「詩」を読んで欲しいとのリクエストに応えてただ一言答えた言葉。
この言葉にインスパイヤされ
「オレと。そしてオレタチ」
「人は決して独りじゃない。みんな助け合って生きている」
そんなシンプルなメッセージが佐藤タイジのギターと共に心の中に飛び込んでくる。
続く翌2004年3月10日、ベストアルバム『The Complete Of THEATRE BROOK』をリリース。
エピックレコード在籍期間(1995年~2003年)までの100曲近くにものぼる楽曲の中から
メンバー自らのセレクトによる完全コンプリート・ベスト盤リリースとなる。
音源は、全ヒットシングル+過去リリースされた全音源の中から厳選されたものを
DISC1(1995-1997)、DISC2(1998-2003)にパッケージした。
付属のDVDは、全シングル・クリップと秘蔵ライヴ映像をまとめたもので見応えがある。
同時にブックレットも40P以上のボリュームで写真集ともいえるフォト・ブックもパッケージされた。
また佐藤タイジは、保田卓夫監督の劇場公開作品『アートフル・ドヂャーズ』(97年)に主演したり、
パンク作家・町田康と2002年に「ミラクルヤング」というユニットを結成したり、幅広く活躍する。
「続いてのバンドは,シアターブルックです.
人気ありますね。
徳島で結成された,佐藤タイジさん率いるバンドなんですけれども。
去年,佐藤タイジさんは映画に出ましたね。
「アートフル・ドヂャース」.サントラを作らせて欲しいということで出たらしいんですけどね。
その後,もう一本「タイフーン・シェルター」というね映画のサントラも作っているようですけども。
あの,シアターブルックというと,僕,三宿のWebというところで毎月DJをやっているんですけれも,
そこで彼等もよくイベントとかやっていて。
あのターンテーブルやってるとか,よくフライヤなんかでお見かけして。
そういう意味じゃなんか親しみを持っているバンドではありますけれども。
じゃあ,拍手をもってお迎え下さい。シアターブルックです」
とは、ピチカート・ファイヴの小西康陽のTHEATRE BROOKの紹介だ。
こんな風に、ミュージシャンズ、ミュージシャンとして、業界内で高い評価を得ているTHEATRE BROOK。
佐藤タイジをサポートするメンバーもまた、スゴ腕揃いのスーパーバンドと言える。
中條卓(なかじょうたかし)ベース。
野球選手を夢見ていた中学時代に「ウッドストック」の映像を見て
ボブ・ディランやローリング・ストーンズに強い影響を受けバンドを始める。
最初に組んだバンドメンバー3人中2人が先にギターを購入してしまった為、
ギター購入を諦めてベースを購入したことがきっかけでベーシストになる。
初めてコピーした曲はビートルズの「COME TOGETHER」だった。
高校時代にはヤマハ主催のコンテストで毎回のように地元代表バンドに選ばれ全国大会にも出場。
地元小田原で有名なバンドになるが、大学生の頃にはメンバーの就職活動などによって自然消滅する。
1987年からKING BEESに入り活動を始める。
新宿のライヴハウス・ロフトなどでTHEATRE BROOKと度々対バンしたことをきっかけに、
THEATRE BROOKにサポートメンバーとして加入。
1995年よりTHEATRE BROOKに正式なメンバーとして加入し現在に至る。
作曲家で元Virgin Berryの浅野ケンは従姉弟の子にあたる。
エマーソン北村(えまーそんきたむら)キーボード。
元MUTE BEAT、JAGATARA。
JAGATARA(ジャガタラ)は、江戸アケミを中心とする日本のパンク・ファンクバンドである。
1979年より活動開始。
1979年3月8日、【新宿ガソリンアレイ】にて初ライヴを行う。
この時の名称は『江戸&じゃがたら』。
後に【財団呆人じゃがたら】、【財団法人じゃがたら】と名称は変化していく。
この頃は江戸アケミは、遠藤ミチロウとはるようなの過激なパフォーマンスで名を馳せる。
ニワトリやシマヘビを生きたまま食う、などのパフォーマンスでエログロ的な関心を集め、
週刊プレイボーイなどの一般誌にも取り上げられる。
当初は、こういったパフォーマンスでも注目を集めていたが、
1981年にOTOが参加し音楽面での向上を計り、同年【暗黒大陸じゃがたら】に改称する。
翌1982年リリースした『南蛮渡来』が中村とうようや渋谷陽一らに絶賛され、音楽面での評価を獲得する。
【じゃがたら】への改称を経て精力的な活動を繰り広げるが、1983年に江戸アケミが精神疾患を患う。
バンドは解体の危機に瀕するも江戸アケミを欠いた形で【じゃがたら2世】として活動を続行。
故郷の高知県で静養に努めていた江戸アケミは、映画監督・山本政志の尽力もあり1985年には復帰。
以後山本政志の映画「ロビンソンの庭」サントラ製作を始め矢継ぎ早に作品を発表し、観客動員も上昇する。
1989年にはアルバム『それから』でついにBMGビクターよりメジャーデビューを果たす。
またこれを機に『JAGATARA』に改称する。
同年末には僅か3曲入りの実験作『ごくつぶし』を発表するが、
明けて1990年1月27日、江戸アケミが入浴中に溺死するという事件が発生。
中心人物の欠落によってバンドは解散した。
なお江戸アケミは死去直前にバンド脱退を申し出ていたという。
1990年以降、数度に亘ってメンバーが参加するイベントが開催されている。
近年は未発表映像のDVD発売など、再評価の機運が高まっている。
そんな伝説的バンドに席を置いた経験もあるスゴ腕セッションミュージシャンだ。
EGO-WRAPPIN'、斉藤和義、LEYONA等のサポートメンバーとして活動している。
沼澤尚(ぬまざわたかし)ドラム。
彼もセッションミュージシャンとしても活動中。
THE BLUES POWER、安藤裕子、スガシカオ、Leyona、井上陽水、奥田民生等多岐に渡る。
父親は元プロ野球選手の沼澤康一郎。
大学卒業後、米国の音楽学校(Percussion Institute of Technology)に留学、卒業後同校講師に就任。
バンド活動としてもCat Gray,Karl Perazzoと"13CATS"を結成し、
1996年までに4枚のアルバムをリリースしている。
チャカ・カーン、Sing Like Talking、吉田美奈子、岩崎宏美、角松敏生、大貫妙子、スガシカオ、
そして、今回のフェスにも参加している清春などのバックミュージシャンを務めるほか、
CHICKENSHACK、土岐英史CRUISING、AGHARTA、J&B、FOUR of a KIND、椎名林檎、くるり等の
サポートミュージシャンで参加している。
まさしく、助っ人外人的なスぺシャル・ドラマーである。
1999年に初のソロアルバム"THE WINGS OF TIME"をリリース。
近年では2002年に本田雅人、塩谷哲、青木智仁と【フォー・オブ・ア・カインド】結成。
2005年までに2枚のオリジナルアルバムをリリースしている。
2005年に、長らくサポートを務めてきた佐藤タイジのTHEATRE BROOKへエマーソン北村と共に正式加入。
THEATRE BROOK正式加入後も、様々なミュージシャンからの依頼は殺到していて、
サポートドラマーを続けている。
平井堅のヒット曲である「瞳をとじて」も、彼のドラム・プレイである。
そんなスゴ腕ミュージシャンの仲間を引き込んだ佐藤タイジのTHEATRE BROOKは、
“無敵のロック・ファンク集団”といえるだろう。
まさしく、“敵無し”だ。
そんな、圧巻ミュージシャンの中でも、佐藤タイジの独特なフィーリングは、
群を抜いて、“ロック”が、一番、熱かった時代へと、僕らをタイムスリップさせる。
ベストアルバム『The Complete Of THEATRE BROOK』をリリースした後、
佐藤タイジ、中條卓に、正式加入したエマーソン北村、沼澤尚のゴールデン・メンバーで
2005年フォーライフ・ミュージックエンタテインメントに移籍。
2005年6月22日、待望のニューアルバム『Reincarnation』がリリースされる。
2005年6月でメジャー・デビュー10周年を迎えるTHEATRE BROOKが、
鬼に金棒の正式メンバーに沼澤尚、エマーソン北村を加え、遂に本格始動開始した。
オリジナルとしては約2年ぶりとなるニューアルバム『Reincarnation』は、先行シングルを含む全12曲を収録。
王道ロックからファンク・ソウルまで、
THEATRE BROOKの真骨頂が随所に散りばめられた最高傑作といえるだろう。
このベスト・ラインナップが、
BUCK-TICKのトリビュート・アルバム『PARADE~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~』では、
6枚目のシングル「ドレス」カップリング楽曲「六月の沖縄」をカバーした。
これは、櫻井敦司のソロ・プロジェクト『愛の惑星』で、
「胎児」という名曲を、櫻井に贈った佐藤タイジからのオマージュであると共に、
選曲の独特さが、彼の性格を表している、といえよう。
残念ながら、「六月の沖縄」は、
この横浜みなとみらい 新港埠頭特設野外ステージでは披露されなかったが、
この一曲が、BUCK-TICKファン必聴のアイテムであることは間違いない。
その後、佐藤タイジと中條卓は、BUCK-TICKの初参加した北海道の一大ロックイベント
【RISING SUN ROCK FESTIVAL '07】にも参加している。
迎える2007年9月8日、横浜。
騒然とアコースティック・パンクを奏でた遠藤ミチロウの【M.J.Q】に、
エレクトリックな叫びを再び注入した堕天使:今井寿との結合は、
【ザ・スターリン】の復活を彩るエキセントリックなパンク・ショウとなり、
イケイケの熱狂の中に、このフェス【ON PARADE】も呑み込まれていたが、
THEATRE BROOKのファンキーな心地よいギター・サウンドが、
焼かれたような身体の披露を癒してくれる。
まるで、海に向かって叫ぶような特設ステージで、
海風に吹かれて、素晴らしい演奏に聴き入り、
夕方16時を廻って【ON PARADE】も折り返し地点を迎えたような、そんな彼等の登場であった。
演奏終了後、櫻井敦司も
「唯一、南半球から来た感じ」
と表現したTHEATRE BROOKは、
個々の楽曲を演奏するのでは、持ち時間25分間をフルに使って、
「One Fine Morning」という1つの大きな楽曲をパフォーマンスした。
これは、この日のステージでは、本当に異色の存在感を示していた。
佐藤タイジが演奏の途中でMCを挟む、
まるで、それが、楽曲の歌詞の一部であるかのように。
「Yaeh!大丈夫!」
あっけに取られているオーディエンスに向けて、
佐藤タイジが続けて話す。
「大丈夫だから!
例えこう、オレたちが何をやっているかとかが、判んない!?
OK!全然問題ない!
大丈夫、大丈夫だから!」
ナニが何だか、わからないけれど、ジミ・ヘンドリックスと化した佐藤タイジが言っている。
「ああ、ダイジョウブなのか」
安堵感と共にオーディエンスから笑い声が零れる。
バックで、中條卓、エマーソン北村のグルーヴィな演奏は継続されている。
この観客の向こうでは、BUCK-TICKのメンバーも、
クルージング船からこのパフォーマンスを眺めているだろう。
なにやら、佐藤タイジからのBTメンバーへのメッセージと取れなくもない。
「見ろ!今日の青空を!・・・青すぎるよ!
この空は・・・青すぎるよ!
愛してるの、よ!
愛~~してるぅ~~~!」
そう、これは、佐藤タイジが、櫻井敦司に贈った名曲「胎児」の一節。
それを、BUCK-TICKがいるであろう観覧船に向けシャウトする佐藤タイジ。
オーディエンスからは、拍手が巻き起こる。
「この空は青すぎるぅ~~!
この空はーー青すぎるぅ~~!」
「愛ーーーーしてーーーーるぅ!!!」
「愛ーーーーしてーーーーるぅ!!!」
と気持ち良さそうに連呼する佐藤タイジ。
会場は何か、不思議な光景を目にするように、ぽかぁ~んと口を開けて見つめている。
が、端々から、「ひょっとして、あっちゃんが、また・・・でるの?」
そんな妄想に駆られたオーディエンスもいたであろう。
しかし、このグルーヴに耐え切れず、手拍子が始まる。
思わせぶりな佐藤タイジは、不敵な笑みを浮かべると、
ドラムの沼澤尚がシャッフルを刻み出す。
エマーソン北村の響き渡るエフェクト。
中條卓は、クールに、しかし凄みのあるベースを唸らせている。
「ダイジョウブですよ!ダイジョウブなのです!
なぜならば・・・キメテいるのです!
“死ぬまで、生きると!”
“死ぬまで、生きるよ!”
“死ぬまで、生きましょう!”
“死ぬまで、は、生きましょう!”
Yaeh! Yaeh! Yaeh!」
リズム隊の演奏がスリリングに交差する。
それに合わせるかのように、佐藤タイジのシャッフル・カッティングが、
サンバーストのレスポールから回転し始める。
徐々に音量が上がり素晴らしいカッティング刻み出す。
ブレイクが弾けると、リズム隊は一旦演奏を止める。
変調した佐藤タイジのギター・カッティングがヴォーカル・メロディを紡ぎ出す。
ドラムの沼澤尚が、観衆に手拍子を急かすように、カウントを鳴らす。
特設会場の全員が、手拍子でひとつになる一瞬・・・。
本当に青い空と海が一つになる。
そして、音楽がある。
「死ぬまでは、生きましょう」
そんな、メッセージを、このアニバーサリー・イベントに贈ってくれたTHEATRE BROOK。
それが、彼らなりの祝福の言葉だ。
「空が青すぎるから・・・
愛してるから・・・
だから、ダイジョウブ。
人生は愛と死。オレ達は愛と死。
死ぬまでは、生きましょう」
リズミカルな「One Fine Morning」は、一瞬の刹那が、永久に続くような楽曲だ。
或る晴れた日に、不図、想う「死」。
それこそが、「memento mori」。
そんなデジャヴュを魅せられているようだ。
野外ライヴ特有の光景。
確かに、タイム・スリップして、【Woodstock Music and Art Festival】が、
この横浜に出現したような、そんな錯覚に捕らわれる。
そして、楽曲の最後は、壮絶な佐藤タイジのギター・プレイで締められた。
豪快なチョーキングが始まると、
リズム隊の演奏がまた、ストップする。
佐藤タイジのギター・プレイを引き立たせる為には、彼らは高等な演奏テク=空白を利用する。
その、空白スペースを埋め尽くすが如くに、タイジの
軽快なシャッフル・プレイからワウ・エフェクトのチョーキング・プレイ!!
このギター・プレイを観ていると、もう一人の偉大なるロック・ギタリストを連想させる。
1985年に結成されたアメリカのロサンゼルスを拠点とするロックバンド。
全米で4200万枚、全世界で1億枚以上のアルバムセールスを記録するバンド。
怪物ガンズ・アンド・ローゼズ (Guns N' Roses)。
そのバンドのメジャー・デビューはBUCK-TICKと同じ1987年の20年前・・・。
当時は、速弾き・ライトハンド奏法・アーミングなどのテクニカルなプレイスタイルと
ド派手な衣装がもてはやされる時代でもあった。
そのようなメジャー・ロック・シーンへ、ブルーズを基調とした
エモーショナルでセンス溢れるギタープレイやストリートスタイルのルックスが特異な存在感をアピールし、
ギター雑誌のインタビューでは、自らを「ヘヴィメタルに影響を受けたブルースギタリスト」と称した。
そんな1990年代を代表するギタリスト=スラッシュ (Slash)。
彼はイギリス出身で、ロンドン郊外のハムステッドにて、
白人でイギリス人の父アンソニーと黒人の母オーラの間に長男として生まれる。
父親は、ニール・ヤングやジョニ・ミッチェルのアルバム・ジャケットをデザインした、
グラフィック・デザイナー。
母親は、ジョン・レノンやダイアナ・ロスのステージ衣装、
1975年に、デビッド・ボウイが主演した映画『地球に落ちて来た男』の衣装をデザインした、
ファッション・デザイナーである。
一時期、スラッシュの母親がデビッド・ボウイと同棲していたため、
「義理の父親状態だった」と本人が語った事がある。
デザイナーである両親からの影響か、本人も絵などを描くのが得意である。
カリスマ・ヴォーカリスト、アクセル・ローズと仲良くなったのは、
スラッシュが書いたマンガ(エアロスミスを茶化したもの)を見て気に入ったから、
というエピソードもある。
アクセルが所属していたバンドのフライヤーにデッサンを書いていたこともある。
ちなみに、右腕上腕の刺青の図柄は、スラッシュ本人が描いたもの。
僕はヘアースタイルやサングラス、
そしてトレード・マークとも言えるギブソンのレスポールだけを観て言っているのではない。
たしかにスラッシュのレスポールらしい艶やかな音色とワイルドなプレイは、
当時衰退していたレスポールの人気を再燃させた。
なお、スラッシュは、レスポールのピックガードを取り外して愛用していたため、
以降雨後の筍の如く、プロ・アマ問わず多くのギタリストが、
彼を真似たピックガードなしのレスポールを手にする事になる。
その影響からか、最初からピックガードが付いていないレスポールもギブソンから売り出されたくらいだ。
スラッシュとレスポールについては諸説存在する。
スラッシュが、ガンズ・アンド・ローゼズ の初期から使用しており、
現在もレコーディングのメインにしているレスポールは、正規品ではなく、いわゆる“レプリカ”である。
これは、ガンズ・アンド・ローゼズ のデビューアルバム『Appetite For Destruction』の
プリプロダクション中、音作りに悩んでいたスラッシュに、
バンドのマネージャーであったアラン・ニーブンが買い与えたものである。
シリアルナンバーは、90607。
この個体は何故か「マックス製」という説が根強くあったが、
スラッシュがこのギターの入手した時の事を詳細に語ったインタビュー記事には、
「クリス・デリッグ」というルシアーが制作したものだ、と記されている。
しかし、スラッシュ本人による自伝「SLASH」では、その中の172ページに、
このギターについて語られている箇所があり、
それによると、このギターを製作したのは、レドンド・ビーチというところに工房を持つ、
ジム・フットという人物であり、
彼は約50本のハンドメイドのレスポール“レプリカ”を制作した、とのこと。
“レプリカ”が“オリジナル”を超える瞬間を演出したと言えるスラッシュの
印象に残るギター・プレイの数々の中でも、
最も影響を強く受けたというジミ・ヘンドリックスのギター・サウンドを再現する為に、
ワウ・エフェクトを使用した演奏。
そこには、ブルーズの哀愁と寂寥感と共に、ファンキーな躍動感があった。
テクニカル志向のギタリストには、到底、到達できない領域・・・。
そんなサンクチャリ(聖域)が存在するとしたら、ハードロック・バンド・ガンズ・アンド・ローゼズを、
その他の数多くのロックバンドから、独特の存在感を浮き立たせた要素のひとつに、
このスラッシュのワウ・プレイがあるのは、間違いない事実といえよう。
そして、そんなブルージーなギター・フィーリングが、
THEATRE BROOK佐藤タイジにも充満しているじゃないか!
それは、櫻井敦司のソロ代表楽曲「胎児」のギター・プレイでも、
余すところなく発揮されていた。
スラッシュ (Slash) は1994年に結成して1995年にデビューした
自身のソロ・プロジェクト、【スラッシュズ・スネイクピット】や
レニー・クラヴィッツ、マイケル・ジャクソン、クイーンなどのプロジェクトに参加するなど、
ソロ活動も精力的に行い1990年代のスターダムに駆け上がった。
一方、1996年には、奇跡のヴォーカリスト、アクセル・ローズとの不和や音楽性の違いが原因で、
ガンズ・アンド・ローゼズを脱退した。
現在はヴェルヴェット・リヴォルヴァーのギタリストとして、
同じくガンズ・アンド・ローゼズを脱退したダフ・マッケイガン(ベース)とマット・ソーラム(ドラム)、
ストーン・テンプル・パイロッツのスコット・ウェイランド(ヴォーカル)、
そして、hideの結成した元zilchのデイヴ・クシュナー(ギター)と共に活動している。
変わらないルックスは長いアフロヘアーとトップ・ハット、咥え煙草が特徴だ。
櫻井敦司に提供した楽曲「胎児」の一節を巧妙に挟んでいく間奏のファンキーなMCヴォーカルと、
時代の変遷を感じさせるブルージーなギター・プレイは、
遠く栄光のロック時代を彷彿させるジミ・ヘンドリックスと、
1990年代、奇跡的な活躍で、ロック・シーンにブルースを復活させたスラッシュを、
思い起こさせる壮絶なライヴ・アクトであった。
脇を固める、スゴ腕ミュージシャン達が、担ぎあげたこの“神輿=佐藤タイジ”は本物である。
ドラムの沼澤尚もキーボードのエマーソン北村も笑みを浮かべながら、
このギター・ソロを盛り上げる。
「タイジ!飛んで行け!どこまでも、この青空を!!」
クールなベースの中條卓も、少し感慨深げに目を伏せる。
「お前の好きなトコへ行けよ、オレが何処までも相手をしてやるよ」
そんなセリフは聴こえてきそうだ。
THEATRE BROOKは、気付けば25分の持ち時間を1曲に費やすという偉業を成し遂げ、
会場にいた全員を笑顔にしていたことは言うまでも無い。
左に目をやれば、空よりも青い水面。
右手には、横浜みなとみらいの観覧車とインターコンチの半月を眺める。
横浜の街も壮大なキャンパスとして、この奇跡の空間に貢献している。
野外フェスならではの楽しみ。
景色が、自然が、最高の演出効果だ。
時計は17時を周り、日が落ち始め、“夏の終わり”のような空気感が充満する。
さあ、折り返し地点だ。
THEATRE BROOKのファンキーで、ブルージーなライヴ・アクトを目撃し、
もう、この後、何が起ころうと不思議ではない、そんな気持ちに、皆なったことであろう。
【THEATRE BROOK SETLIST】
1.One Fine Morning
