「可愛いあの娘を
俺のものにしたくて」
2004年6月9日の“ロックの日”にアルバム『ROCKAROLLICA』で衝撃のデビューを飾った
BUCK-TICKのギタリスト・今井寿率いるロックバンド=Lucy。
2006年の【Lucy Show 002~Shout,Speed,Shake your ROCKAROLLICA~】から、
6月18日に東京代官山UNITで行われたライヴのアンコール。
今井寿ヴォーカルのザ・ルースターズの「C.M.C」に続いて、
Kiyoshiの熱いヴォーカルでプレイされたのは、ザ・ロッカーズの「可愛いアノ娘」。
前年2005年の10月30日のイベント
【Lucy Show~Shout,Speed,Shake your ROCKAROLLICA~】Shibuya O-East公演でも、
アンコールを飾ったノリノリのロック・チューン。
この夜も、Kiyoshiのハイトーン・ハスキー・ヴォイスで、熱く歌い上げられた。
今井寿チョイスのザ・ルースターズと、
このザ・ロッカーズは、同じ福岡出身のライバル・バンドと言われた。
ジャパニーズ・ロックの歴史を紐解くと、
古くは、ジャズ喫茶から始まったロカビリー・ブームで、
1958年2月8日に開催された第一回日劇ウエスタンカーニバルで一気に広まった。
ロカビリー三人男と呼ばれたミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎などの
日本のロカビリー・シンガーたちが、アメリカ合衆国のロカビリーを英語や日本語でカヴァーした。
その後、1960年代のエレキ・ブームとグループ・サウンズ=GBを経て
ジャパニーズ・ロックのメジャー・シーンは1970年代に入ると、
今井寿のスーパースター=RCサクセションなどが活躍した。
日本のバンド黎明期のGSサウンドの象徴・元ザ・タイガースの沢田研二はカテゴリに囚われることなく、
ロック色を携えたシングル・アルバムをリリースし出す。
今井寿の始めて購入したレコードは、沢田研二の「勝手にしやがれ」だという。
しかし本当に意味でジャパン・ロック時代を変えたのは、キャロルから独立した矢沢永吉であろう。
BUCK-TICKの先輩格BOOWYのカリスマ・ヴォーカリスト氷室京介が、
ロックの魅力に取りつかれたのもこの矢沢永吉の影響が大きく、
日本のロックミュージシャンに与えた影響は、広範囲に及び、計り知れない。
「ロック御三家」と呼ばれた、世良公則&ツイスト、原田真二、Charなども、
海外のロックから大きな影響を受け、それぞれの個性をジャパン・ロックに変換して言った。
また、今年無期限活動停止を発表したサザンオールスターズも1978年にデビューである。
彼らやTHE ALFEE、沢田研二等の作品は海外のロックを日本人流に味付けし直し、
お茶の間にロックを浸透させたものといえよう。
また、当時のアイドル山口百恵なども積極的にロックを大胆に取り入れ始め(主に宇崎竜童作品)、
歌謡曲とロックとの融合に一役買っていたのも事実である。
1970年代末から1980年代初頭にかけてRCサクセションの第二次黄金期とテクノの大物YMOの活躍、
ロック色を強めたオフコース、甲斐バンド、浜田省吾らが大ヒットを飛ばす。
1980年には、ジャパン・ロックのフロンティアを切り開いた佐野元春がデビューしている。
1980年前後からパンク/ニューウェイヴ、テクノポップのバンドや
パンクロック、ハードロック、ヘヴィメタルといった様々な分野にロックは派生して行く。
この時期に、今井寿は、ニュー・ウェイヴ、パンク。
Kiyoshiは、ハード・ロック、へヴィメタルをその彼ら音楽的ルーツに挙げている。
まずは、今井寿のルーツと言えるニュー・ウェイヴ、パンク。
日本でのニュー・ウェイヴ・パンク・ロックの歴史は、
1970年代後半、英国においてセックス・ピストルズの成功を始めとして起こった。
そして、今回、大々的にLucyでもフューチャーした「めんたいロック」ムーブメントとともに、
鮎川誠率いるシーナ&ザ・ロケッツ、THE MODS、A.R.B.、ルースターズ、ザ・ロッカーズ、
といった九州勢が、ロックのスターダムへ登りつめる。
それに続く名古屋出身のTHE STAR CLUBなど、関西ノーウェイヴと呼ばれるバンドが誕生。
そして、1980年代に入るとジャンパン・パンクも本格的に始動する。
1978年に結成され、ヤマハ主催のコンテスト「EAST WEST」にて優秀バンド賞を獲得し、
1980年にビクターよりメジャーデビューを果たしたアナーキーが登場。
彼らは和製セックス・ピストルズとも呼ばれ、髪を逆立てたヘアースタイルや、
国鉄の鉄道員の制服を着用するなどファッション面でも話題を呼び、
またイギリスのパンク・ロックバンド、ザ・クラッシュの楽曲に独自の日本語詞を乗せて歌うなど、
独創的な活動でファーストアルバムを10万枚以上売り上げ、
一躍日本のパンク・ロックシーンに進展をもたらした。
また、1980年に結成され、爆竹などを投げ込み、全裸になるなど過激なパフォーマンスで脚光を浴びた
遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンも登場。
この「ザ・スターリン」の登場以後、過激なライヴパフォーマンスを主としたバンドが次々に誕生して、
観客が暴動を起こしライヴハウスを破壊するなど問題を起こす事も多々あった。
そんな暴力的な嗜好に溢れていたパンクシーンにおいても、
パンク・ロックの持つ攻撃的な音楽性を持ちながらも、
ポップなメロディーを持ち合わせた楽曲を演奏するパンクバンドLAUGHIN' NOSEなども現れ始める。
BUCK-TICKの先輩格BOOWYも、当初「暴威」と名乗るパンクロックバンドであり、
「BOOWY」に名を変えて、ビート・ロックというパンク・ロックに進化系を志した。
特にその中でも、1987年にメジャーデビューを果たしたTHE BLUE HEARTSは、
パンク・ロックを基調としながらも、青春的メッセージ性のあるシンプルな歌詞によって
圧倒的支持を集め、それは一般においても知名度を獲得する事となった。
THE BLUE HEARTSは、BUCK-TICKとは、今や、会いまみえぬ音楽性といえるが、
同時期の音楽シーンを飾ったパンクバンドだ。
その後日本の音楽シーンにおいても空前のバンドブームが訪れ、
様々なロックバンドが台頭するようになる。
一方、Kiyoshiのバックグラウンドとなるハードロック・へヴィ・メタルは、
1980年、アイドルグループだったレイジーから火が付いた。
「ヘヴィメタル宣言」をしアルバム「宇宙船地球号」をリリース。
高崎晃のプレイは当時まだ19歳ということもあって、若さ溢れる荒っぽいプレイではあった。
しかし、そのアイドルという方針に限界を感じたレイジーは1981年に解散し、
高崎晃と樋口宗孝は本格的なヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」を結成し、
1981年11月にアルバム「誕生前夜」でデビュー、
12月には浅草国際劇場にて日本初のへヴィメタ・デビュー・ライヴを開く。
このラウドネス同様、営業面の問題から歌謡曲路線を取らされていたBOW WOWが、
元のヘヴィメタルバンドに戻ることを宣言し、
1982年 - 1983年には海外のロック・フェスティバル(レディング・フェスティバル)に参加した。
こうしてジャパニーズ・メタルが、ハードロックのメイン戦場となった日本シーンは
1983年にはアースシェイカー、44MAGNUM、マリノ、X-RAY、MAKE-UP、
と言ったヘヴィメタルバンドが次々とデビューを飾り、
1984年にBLIZARD、AROUGEがデビューを果たした。
この頃、BOW WOWはメンバーチェンジを機にバンド名をVOW WOWに代え、
ラウドネスと共に海外を中心に活動開始していく。
先に積極的に海外に進出したのはラウドネスであり、
1983年にはアメリカ、1984年にはヨーロッパを中心にライブ活動を行い、
夏には海外へのアピールとして「撃剣霊化」の英語ヴァージョンをリリース。
翌年、1985年には『THUNDER IN THE EAST』で世界デビューを果たす。
1985年には聖飢魔IIは、アルバム「聖飢魔II~悪魔が来たりてヘヴィメタる」でデビュー。
また同年8月にメンバー全員女性のバンドSHOW-YAがシングル「素敵にダンシング」でデビュー。
初期は秋元康が楽曲を手掛けたりと「歌謡メタル」テイストな部分があったが、
だんだんサウンドにハードさが増して1989年に限界LOVERS」がブレイクし、
日本のヘヴィメタル界に新風を巻き起こす。
他方、この時期にバンドブームが起きる。
ヘヴィメタルバンドも例に漏れず、
例えば関東ではプロージョン系と鹿鳴館系と呼ばれ(ライヴハウス名から来る)
どのライヴハウスも観客で溢れ返った。
そして、1989年にプロージョン系の一番人気であったXがメジャーデビューを果たす。
当初はヘヴィメタルの範疇として扱われていたが、これが後々のヴィジュアル系に繋がってゆく。
中心人物であるYOSHIKIは当時、ロッキンfやBANDやろうぜ等の音楽雑誌に
「Xがテレビに出演する理由」という内容のFAXを各音楽誌編集部に送っていたが、
そのXのパフォーマンスが音楽的知識を持たないテレビや女性週刊誌などで
興味本位的に取り扱われた事が原因で、
それまでヘヴィメタルという言葉さえ知らなかった世間一般に浸透を果たした。
このLucyでは、そんな今井寿とKiyoshiという異なるルーツを持つミュージシャンの
テイストが融合している。
今井寿テイストのパンクロックとKiyoshiのHR/HM。
バックグラウンドは違え、彼らの大元ロックの“魂”は共通だ。
悪魔のサウンド=ロックの神様との契約/代価とはなんだろう?
ザ・ロッカーズのコテコテのロック・ナンバーをKiyoshiが、骨っぽく歌い上げている。
間違いなく、この「可愛いアノ娘」は、【Lucy Show】のクライマックスだ。
ΨΨΨΨΨΨ
1996年に、ザ・ロッカーズのギタリスト谷信雄がバイク事故により死去した。
黒い大きなサングラスが特徴のギタリスト。
ロッカーズ解散後は、スタジオミュージシャンとして活動していたが、
目が非常に悪く、手術をしなけば失明するとさえ言われていた程であった。
2003年に、俳優:陣内孝則はかつて出版した自伝をベースに自らメガホンを取り、
谷信雄との友情、ロッカーズの飛躍を描いた自伝映画『ROCKERS』が制作された。
元々は陣内孝則の谷信雄への思いから、自伝的映画を製作しようとしたのが始まりであったが、
「映画にするのなら観客を楽しませる内容でなければならない」
との考えから、こだわったライヴシーンと笑いあり涙ありのストーリーへと方向転換を決めた陣内。
ここに“ロック”の真髄がある。
どんなに、悲しいこと、辛いことがあっても、
“ロックンロール”は、エンターテイメントなのだ。
俳優となっても、陣内孝則の骨の髄までロッカーだ。
この『ROCKERS』には、ジン(陣内孝則)役の中村俊介、 タニ(谷信雄)役の玉木宏を始め、
岡田義徳、佐藤隆太 塚本高史 玉山鉄二など当代の人気俳優が、ライヴシーンに挑戦していて、
この「可愛いアノ娘」や「チャッキー」など
ザ・ロッカーズの名曲ロック・ナンバーがフューチャーされている。
制作発表記者会見の際、陣内孝則役を中村俊介が演じることに関して、
監督の陣内は
「昔の自分に似ていると思う。
NHKドラマの『精霊流し』では坂口憲二がさだまさしを演じていたくらいですから」
と記者の笑いを誘った。
この“ウィット”こそ、ロックンローラー!
ザ・ロッカーズのメンバー
陣内孝則(ヴォーカル)=中村俊介、谷信雄(ギター)=玉木宏
船越祥一(ドラム)=岡田義徳、穴井仁吉(ベース)=佐藤隆太、鶴川仁美(ギター)=塚本高史
と各キャラクター設定も個性豊かで、
ライバル・バンドの“セクシー桜井”を演じる玉山鉄二など、櫻井敦司を思わせる魅力だ。
玉木宏はこの映画で初めてギターに挑戦し、その後、歌手活動をスタートさせるきっかけになった。
映画撮影時の玉木宏へのギター指導はギタリストでもある俳優の三原康可がおこなった。
ロッカーズの5人は劇中のバンド「ザ・ロッカーズ」として、音楽番組にも出演。
陣内監督も応援に駆けつけた。
佐藤浩市、鈴木京香、小泉今日子といった大物俳優の他、
伊佐山ひろ子や松重豊といった地元福岡出身の俳優がゲスト出演しているのも大きな特長で、
大杉漣にいたっては「恋の確定申告」という劇中フォークソングを披露している。
谷信雄と親交のあった深町健二郎が出演している事でも話題になった。
機会があれば、是非、ご視聴頂きたい作品だ。
今井寿やKiyoshi、そして、多くのBUCK-TICK世代のミュージシャンが、
夢中になった“ロック”の輝きと青春のノスタルジック、そして、無鉄砲な感情が描かれている。
[追記] memento mori
星になった“ROCKers”よ。
それでいいよ。
今は、やすらかに眠れ。
今井寿も言っている。
「BOYS & GIRLS Baby don’t cry ダイジョーブさ
俺達は愛と死」
悪魔のサウンド=ロックの神様に魅入られし“魂”よ。
“愛”の契約は、取り交わされた。
あんたの“ロック”は、“愛”だ。
バラの花一輪持って。
あんたの“ロック”は死なない。
うん。あえて言おう。
“ロック”は死なない。
可愛いアノ娘
(作詞:山部善次郎、陣内孝則/作曲:板倉嘉秀)
可愛いあの娘を
俺のものにしたくて
毎日あのこの娘のところに通って
バラの花一輪持って
だけどあの娘は他人行儀で
あいさつだけですませる
可愛いあの娘を
俺のものにしたくて
毎日あのこの娘のところに通って
バラの花一輪持って
だけどお前はとても移り気で
ウインクだけすませる
可愛いあの娘を
俺のものにしたくて
毎日あのこの娘のところに通って
バラの花一輪持って
だけどあの娘は他人行儀で
あいさつだけですませる
だけどあの娘は他人行儀で
あいさつだけですませる
だけどあの娘は他人行儀で
あいさつだけですませる
