「LOVE & PEACE 死神にKiss」


2004年6月9日、ロックの日、
Lucyはファースト・アルバム『ROCKAROLLICA』でデビューした。
その一枚目に収録された「GAGA DISCO」も、岡崎達成と今井寿の“フィーバー・ダンス”とともに、
【Lucy Show 002~Shout,Speed,Shake your ROCKAROLLICA~】でプレイされた。

今井色の強いこの「GAGA DISCO」の印象的なギター・フレーズは、
後に、BUCK-TICKのデビュー20周年記念イベント『BUCK-TICK FEST 2007 ON PARADE』で、
披露されたKEN ISHIIをフューチャーした「Baby, I want you.」の間奏に取り入れられ、
その後のライヴ・パフォーマンスで、継続してプレイされている。

まさに、今井寿、お気に入りの“ワン・フレーズ”と言えるだろう。


「さあ今 踊れよこの世で お前のこしがSWEET
 可愛い あのむ娘を抱いて踊れ」



この「GAGA DISCO」は、今井寿によると、“しょぼいディスコ”で、ロックを奏でるイメージという。

ディスコの語源となったのはフランス語のdiscothèqueであり、
マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。

形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブで、
レコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり、
第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現した。


「最上階 衝動的 ギリギリ イケないNO NO BOY」


この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が
本格的な発展を遂げたのは60年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。

掛けられる音楽はファンクやソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる、
滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。
こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割と
アンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。

当時のディスコとして有名なものに
パラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。
いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリーのディスコである。
(※女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場する事ができた)

ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、
流行の発信地でもあった。
やがてゲイが社会的に認知されると社会の多方面に堂々と進出すると同時に、
このディスコ音楽も表舞台へと登場し、ゲイ以外の一般のリスナーにも聞かれるようになる。
1970年代にはアメリカのテレビ番組『Soul Train』の人気が沸騰した影響で、
ほぼ同時多発的にディスコ・ブームが世界的に巻き起こり、
大都市のみならず全米でディスコ・クラブが登場し、一般人が押し寄せるようになり、
ヒットチャートの上位を独占するようになる。


「急上昇 挑発的 GO GO GIRLも悪くない」


日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や
新宿の「ジ・アザー」が最初とする説がある。
しかし一般的には1968年に赤坂に出来た「ムゲン」「ビブロス」がディスコの走りといわれている。
当時、生バンド演奏にあわせてダンスを踊るゴーゴークラブやゴーゴー喫茶が流行しており、
ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、
それらの店とは一線を画して主に芸能人やモデル、富裕層や外国人客を主な客層としたことで、
一気に時代を先んじた存在に上りつめた。

当時の「ムゲン」は、川端康成、三島由紀夫、三宅一生などの
時代の先端を行くそうそうたるメンバーで賑わっていたという。
この頃は生バンドとレコードの両立だったのが、
1971年六本木にオープンした「メビウス」が日本で最初にレコードのみで営業した。
これは生バンドの人件費を抑える為におこなった行為だったが、
結果としては現在のディスコやクラブと同じくレコードのみのスタイルとなっている。


岡崎達成と今井寿の“フィーバー・ダンス”の原型とも言える
ジョン・トラボルタ主演の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が大ヒットし、
新宿、渋谷、上野、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業し、
夜遊びの趨勢は完全にディスコに移った。

1970年代終わりから1980年代初めにかけては、ディスコの定番音楽となる名曲が数多く生まれた。
ABBAやBee Gees、Chic、Boys Town Gangなどが歌うこれらの曲は、
後にはディスコクラシックと分類され、根強いファンを持つようになる。


「Hail Psycho Bitch Rise Abobe Yourself」


また、この時期には、日本の音楽シーンでは、
YMOのもたらしたテクノブームが新宿のディスコにも多大な影響を与え、
一時期はテクノカットと呼ばれる、YMO風にもみ上げを水平にカットした散切り頭に、
JUNやROPEのモノトーンスーツがフロアのダンサーの大半を占める潮流もあった。
また後には、マッドネス、スペシャルズなどのツートンスカもやや流行った。

音楽面で、“ロック”と同様に、YMOの“テクノ”から、
多大な影響を受けている今井寿が、
この「GAGA DISCO」で、表現したのは、このYMO時代ではないか、と推測される。

この頃の日本では、新宿の「ツバキハウス」、「ワンプラスワン」、
上野の「ブラックシープ」、浅草の「シャトー」などが有名であった。

原宿の歩行者天国(ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。

この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビル。
地下2階から10階までの1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。
中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」が有名。
六本木スクエアビル以外では、六本木「エリア」の前身である「マジック」、
伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」「ナバーナ」、
外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などがあった。
新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が有名。

六本木を震源地に広がったディスコブームであったが、
当時の流行偏差値の高かった六本木地域から、
徐々に渋谷、新宿と偏差値の低い地域に文化が移転するにあたり、大衆化が進み、
そのパワーは次第に廃れていった。


「もう壊れそうか

 もう潰れそうか

 It's All Right」



代わって1980年代中期から六本木周辺では、
比較的大規模で豪華な内装を売り物にした高級ディスコが隆盛し、
NOVA21グループの麻布十番「マハラジャ」、青山「キング&クイーン」は全国展開を果たす。
六本木「エリア」「シパンゴ」なども人気店になった。

カリスマと言われた“黒服”スタッフが、登場し、ブームを巻き起こしたのもこの頃で、
今、ホスト・クラヴ的な集客も導入されたが、
僕の個人的知り合いの某元“黒服”氏は、
「ホストと黒服の違いは、個人営業と組織的営業の違い」
と語っていた。

1980年代中期からのディスコ・サウンドは、よりポップス調を強め、、
デッド・オア・アライブ、リック・アストリー、カイリー・ミノーグ、バナナラマに代表される
ストック・エイトキン・ウォーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、
マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、
コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。

ここにも、今井寿に大きな影響を与えたニュー・ウェイヴのポップ感覚が跋扈する。

歌謡曲に似たメロディータッチに単調なリズムとビートを強調した
超アップテンポなこれらの楽曲が日本人にマッチし大人気となり、
これがいわゆる第一次ユーロビートブームで、
日本でも多くのアーティストがユーロビート楽曲をカヴァーしてヒットを記録している。
そしてこのユーロビートから生まれた振り付けダンスが“パラパラ”である。

この“パラパラ”、今井寿が考案した、
BUCK-TICKのサード・アルバムのオープニングに収録される「ICONOCLASM」のライヴでの振付など、
まさに、この“パラパラ”の先駆けで、あったようにさえ感じる。

このように、ディスコ文化からも、今井寿と岡崎達成は、多大な音楽的影響を受けているのだろう。
で、なければ、この「GAGA DISCO」の“フィーヴァー・ダンス”や、
コミカルなグルーヴによって加速する“ロケン”の誕生はなかったといえる。

また、今井寿独特の“マイマイ・ダンス”は、
同郷の先輩ギタリスト、布袋寅泰のライヴ・アクションを参考に形成されていったという説があるが、
このアクションも、布袋寅泰が、上京したての時期に、
新宿「ツバキハウス」に、よく出掛けていき、踊っていたダンスをそのまま、
ステージ上で、再現していた、と語っている。

タテノリのビート・ロックとヨコノリのディスコ・ミュージックの融合が、
BOØWY、そして、BUCK-TICKが、初期に目指した“ロック”の正体なのかもしれない。



そして「GAGA DISCO」は、そんな今井寿流ディスコ・サウンドの集大成である。




【ROMANCE】

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