「頬に濡れ出す赤い雫は せめてお別れのしるし
今夜 奇麗だよ月の雫で 汚れたこの体さえも」
聖母マリアは、哀しみで“血”の涙を流す。
「Long Distance Call 」では、これを“慈愛の母の涙”と・・・
しかし、なぜ、万能であるはずの“女神”マリアは、
人間のように、嘆き、悲しみ、涙を流すのか?
聖母マリアは、女神に昇格したのでは、なかったか?
キリスト教会カトリック信仰において、イエス・キリストは人間ではない。
彼は受肉した神の子であり、我々、人間を創造した神を変わることにない絶対的な超越者と見なされる。
そのイエス・キリストと同様、ほぼ神と等しい超越的存在と見なされる信仰対象に、
イエスの母マリアは“聖母マリア”となった。
こうした考えのルーツは2世紀の『ヤコブ原福音書』まで遡る。
長い間子に恵まれなかったマリアの母アンナは、神に祝福されて受胎し、マリアを出産した。
マリアは人の世から隔離され、エルサレムの神殿で、
「鳩のように保護されて、天使の手から食物を受け取って」
育ち、処女のままイエスを身篭った。
こうしたマリア像が、後世のフィクションであることはいうまでもない。
最初期のイエスの弟子たちによる福音書では、
師イエスの母マリアにほとんど興味が示されていない。
最古の「マルコによる福音書」が
神聖受胎どころかイエスの誕生のエピソードまで欠いていることからも伺える。
このように常に偶像は、祭りあげられていく宿命を持つ。
それは、“生きる”という事柄自体が、“魔”を内包しているからかも知れない。
そうして、辻褄合わせの論法が、更なる偶像を構築していく宿命を持つのだ。
ヴィラド伯爵が如何に残虐に串刺し王であったとしても、
吸血鬼として、人間の生き血を吸って400年も生きながらえたというのも、
人間の“妄想”=“夢魔”の造りあげたフィクションである。
だと、すれば、常に“ROMANCE”というものは、
人間の脳内の“妄想”=“夢魔”によって作り上げられるフィクションなのかも知れない。
息子のイエスがそうであったように、マリアという女性も、
すでに初期キリスト教の段階から神話世界の住人である“必要”性があった。
彼女の役割は、当時、ローマ文化圏にあまねく広がっていた地母神信仰の女神たちのポジションや、
キリスト教会でも異端とされたグノーシス派の神話における女神のポジションに、
取って代わることであった。
古代世界においては、女神は、欠くべからざる信仰上の中核であった。
彼女には、地上の豊饒と繁栄をもたらす男神の「死と再生」の仲介者、
“女司祭”としての役割があった。
たとえば古代エジプトでは、全能の女神イシスが、死んだオシリスを甦らせた。
イスラエルの人々に大きな影響力を保持していたメソポタミアのバアル神は、
女神アナトによって再生された。
女神が男神を復活させるのは、万物を生み出す大地が女性と考えられていたからで、
世界各国の地母神は、いずれも死を克服して生を授ける力をもった「生命の神」として描かれた。
たとえば、シュメールのイナンナ、エジプトのネイトやイシス、シリアのアナトなどである。
キリスト教において、言うまでまでもなく、
死んで甦る「死と再生(復活)」の神は、ほかならぬイエス・キリストであった。
彼は、明らかに異教の死と再生の神々とオーバーラップしていた。
そうであれば、彼にも何らかの“女神”が介在していることが望ましかった。
否、そうでなければならないはずであった。
かくして、ふたりの“マリア”が、その女司祭役に昇格する。
ひとりは、いうまでもなく聖母マリア。
彼女に冠せられた「天の女王」や「海の星」の称号は、
元来、エジプトの偉大な“聖処女”イシスの称号であった。
マリアはイシスの属性の中から、主として処女と母性を引き継ぎ、
また、イエス誕生にまつわる秘儀を受け持った。
ちなみに、もうひとりの女司祭役のマリアは、
より性的な部分と、イエスの死にまつわる秘儀的な部分を担当した。
そのマリアとは、異端派グノーシスに語られるイエスの妻で、
彼の遺体に途油の秘蹟を施すために出かけたと福音書に記されているマグダラのマリアだ。
(※彼女についてはいずれ語ろう)
聖母マリアの神格化は、あからさまに進む。
「至聖なる神の母にして、永遠の処女」と呼ばれ、
イエスを「ユダヤ人の王」とする根拠となった「ダビデの血脈」も、マリアに帰される。
『マタイの福音書』などには、明らかに、ダビデの家系につらなっているのは、
イエスの父ヨセフのほうであったが、イエスを神の子として、性交なしに生まれたとする場合、
ヨセフの血はイエスに流れようがない。
したがって、イエスをダビデの血脈ということも不可能となる。
神聖受胎というフィクションをお導入したが故の矛盾が、ここに生じる。
これを処理するために『ヤコブ原福音書』では、
イエスの“義父”ヨセフではなく、マリアを、
「ダビデ部族の出であって、神の前に汚れなき者」とする。
かくして、「永遠の処女」は「神の母」であり、
かつメシア=救世主ダビデの裔の母となった。
ローマカトリックでも、マリア信仰は、その後も着実に拡大し、豊饒の女神、狩猟の女神であり、
かつ処女神でもアルテミスと神聖受胎マリアの信仰が重なっていくのも、
さほど長い時間は要しなかった。
正典福音書では、イエスを産んだということだけをその唯一の存在意義としていたマリアだが、
マリア信仰の高まりの中で、彼女は固有の役割を獲得していくことになる。
11世紀から十字軍の時代にかけては、マリアは、修道女の女神として、
妊婦やちの女神として、また、愛の女神、罪人の女神と祭られ、
時には、戦争にまで、関与してお告げを下し、様々な奇跡を表した。
預言、救済、癒し、しばしばマリアの名によって行われた。
フランスより贈与された独立国家アメリカの象徴“自由の女神”が誰なのか言うもが名だ。
要するに、マリアは子イエスと同格の“神”となったのである。
彼女は神イエスを宿し、彼を地上に送り出した。
それによって、神の“再創造”が完成し、人間が神の生命を取り戻す“型”を示した。
それは終末―――つまり過去の創造の清算と新たなる創造の先取りであり、
「聖霊の摂理の成就」にほかならない。
マリアはそれを成し遂げ、神の命をわが命とすることに成功した。
で、あればこそ、彼女にもはや人間的な形式の死は訪れない。
彼女の肉体は、キリストがそうであったように、魂とともに天に昇天したに違いないというのである。
この「聖母被昇天」は、1950年にカトリックの正式な信仰箇条になった。
つまり、クリスチャンを標榜するなら、けっして疑ってはならない信仰上の真実となったのだ。
こうして、マリア信仰は、神秘性と超越性を深め“真実”となった。
“母”の象徴は“神”となったのだ。
信仰の正当化の為に、神格化された“女神”聖母マリアは、
だた、愛しき我が子の受難の一つも拭い去ること出来ずに、
ただただ、慈愛の涙を流していた。
我が子の受難に手を差し伸べることが叶わない“母”は、
人類の“慈愛の神”に祭り上げられた。
でもね。
それで、いいのだ。
すべては、“宿命”という名の罠。
仕組まれた“罠”。
だから、それに翻弄され、生きていくこととにも、
“意味がある”はずなのだ。
進歩と調和。
和解と完成。
なんでも、いい。
しかし、自分の為に、己の嘆きに、ともに“涙”してくれる存在。
それ以上の者があろうか?
尊い“涙”だ。
長々と聖マリアについて語ったが、この「JUPITER」は、聖母マリアそのものじゃないか。
同じように、この楽曲「JUPITER」も神格化する。
はじめは、櫻井敦司のパーソナルな母への報いの唄。
その喪失感を埋めるものは、意外にも、自分の中にあったと知ることで、
櫻井は、それを、己の覚醒に向けた。
それは、自己利用という“罪悪感”を伴いながらも、大きく成長し、
多くの人の、多くの嘆く人々の糧と勇気と成り得た。
しかし、己に突き刺さったままのナイフは、
時を経てもなお、この胸に深くしまい込まれている。
グレゴリー聖歌団のコーラスが挿入されるこの年の「JUPITER」は、
『殺シノ調ベ ~This is NOT Greatest Hits~ 』ヴァージョンでパフォーマンスされ、
櫻井個人の感情だけを鎮魂するバラードではなくなった。
シングル盤「JUPITER」発売当時、櫻井が語っていた【ことば】が、胸のナイフを震わせる。
「そうですね。あれを書いた時、書いてる段階では……
恥ずかしいですけど、純粋、に書いたつもりですから。
どう捉えようが、その時の感じがあるから、まあいいか、と思っちゃう」
「……矛盾してますね。
わかって欲しくないって気持ちと、そういう優しい気分になって欲しいって期待と。
すごく矛盾してるんですけど。
裏返しって感じですね」
2006年12月29日、日本武道館の【THE DAY IN QUESTION】の2回目アンコール。
万感の“想い”を込めて、今宵も櫻井敦司は「JUPITER」を唄う。
日本武道館が暗転すると、ステージには、15本の松明が灯り、
上がったままの緞帳スクリーンと天井には、天使達が舞い降りる。
その天使達が、上へ上へと昇天し、我々のあたたかき“母”の処へ誘ってくれる。
櫻井敦司の唄と星野英彦のアコースティックのランデヴゥー。
バックでは、今井寿が遥か銀河の彼方まで、届け!とばかりに、
シューティング・スターをスタビライザーで飛ばしている。
樋口“U-TA”豊が、「JUPITER」の旋律を奏でると、
日本武道館の天井には、沢山の“天使の羽根”が降りそそぐ。
まるで、クラッシック・ショウを堪能するような「JUPITER」…。
やはり、“母”は“女神”と転生したのだろう、という気持ちになる。
2006年の【THE DAY IN QUESTION】の最後のアンコールは、
この神聖なる空気感のままフィニッシュを迎える。
“天使の羽根”が舞い散る中、「ANGELIC CONVERSATION」へ。
気が付くと今井寿は、グレーのハットを被っている。
この一曲が、翌2007年のロード・サーキット【TOUR PARADE】のオープニング・ナンバーへと繋がる。
舞い散った“天使の羽根”は「さくら」の花弁に変わる。
武道館の天井の真ん中あたりに、水紋のような、白い円がどんどん広げるような映像が現われる。
そして、それが消えると、満開の桜。
母よ、この“櫻”見えるかい?
櫻井敦司のMC。
「今夜は、寒い中、本当にどうもありがとう。
これで終わります。
良かったら、口ずさんで下さい」
ラストナンバーは「COSMOS」。
そう、母の愛は、子へ、孫へ、引き継がれていく。
“愛”だけが、ここにある。
スクリーンと天井に、櫻からコスモスへと、
命の華は、“Loop”する。
「どうもありがとうございました。 また会いましょう。良いお年を」
【THE DAY IN QUESTION】
ENCORE 2 SETLIST
JUPITER
ANGELIC CONVERSATION
さくら
COSMOS
2007年。“天使たち”が、舞い降りる。
JUPITER
(作詞:櫻井敦司 / 作曲:星野英彦 / 編曲:BUCK-TICK)
歩き出す月の螺旋を 流れ星だけが空に舞っている
そこからは小さく見えたあなただけが
優しく手を振る
頬に濡れ出す赤い雫は せめてお別れのしるし
初めから知っていたはずさ 戻れるなんて だけど。。。少しだけ
忘れよう全てのナイフ
胸を切り裂いて 深く沈めばいい
まぶた 浮かんで消えていく残像は まるで母に似た光
そして涙も血もみんな枯れ果て
やがて遥かなる想い
どれほど悔やみ続けたら
一度は優しくなれるかな?
サヨナラ 優しかった笑顔
今夜も一人で眠るのかい?
頬に濡れ出す赤い雫は せめてお別れのしるし
今夜 奇麗だよ月の雫で 汚れたこの体さえも
どんなに人を傷つけた
今夜は優しくなれるかな?
サヨナラ 悲しかった笑顔
今夜も一人で眠るのかい?
