2006年5月29日、BUCK-TICKのニュー・シングル『蜉蝣ーかげろうー/空蝉-ウツセミ-』が
8月2日に発売決定と公式発表される。
同時に『DEATH NOTE TRIBUTE』参加決定も発表された。
6月6日、音楽情報誌『音楽と人』に、
2004年、唯一表面化しなかった星野英彦のソロプロジェクト“dropz”始動についての記事が掲載された。
メンバーは
星野英彦が、トータルプロデュースを行い、ギター・プログラミング・キーボードを担当。
CUBE JUICE(長尾伸一)が、櫻井敦司のソロ・プロジェクトに続いて参画し、
プログラミング・エレクトロを担当する。
注目の女性ヴォーカリストはKELLI ALI(ケリー・アリ)。
スニーカー・ピンプスの初代ヴォーカリストである。
(※アルバム『SWEET OBLIVION』を翌2007年4月4日にリリースする
初回限定盤はBryan Black、CUBE JUICEによるリミックス・アルバムを含む2枚組で発売された )
6月9日、ロック・フェス【SUMMER SONIC 2006】にBUCK-TICKの出演決定が発表。
東京(千葉)と大阪で2日間に渡って行われる夏イベントであった。
BUCK-TICKが出演したのはは8月12日の大阪と8月13日の東京公演のエントリーしていた。
6月21日、トリビュート・アルバム『DEATH NOTE TRIBUTE』リリース。
BUCK-TICKは、アルバム『十三回は月光』から「DIABOLO~Lucifer~」が収録された。
6月30日には、ソロ・プロジェクトが進行中の星野英彦が、
オフシャル・サイト【BUCK-TICK WEB SITE】にて結婚した事を発表した。
さて、ニューシングル「蜉蝣ーかげろうー」にカップリング収録された「空蝉-ウツセミ-」。
前々シングル「幻想の花」に続く、星野英彦作曲シングル作品である。
自由人で、独特のマイペースな感覚で生き抜いてきた星野英彦。
結婚後の第一弾楽曲となった「空蝉-ウツセミ-」。
多種多様なBUCK-TICKの20年以上のキャリアの中でも、異質な存在感を持つ一曲となった。
それは、星野の初シングル楽曲「JUPITER」で、
いきなり、BUCK-TICKの新境地を開拓してしまった星野英彦×櫻井敦司の掛け合わされたマジックだ。
「JUPITER」で、挿入された最愛の母へのレクイエム(鎮魂歌)という、
楽曲のクオリティーだけでは、計り知れない“思惟”が注入された上に成り立つ特異性。
そして、「蜉蝣ーかげろうー」で展開された『十三階は月光』の“ゴシック”の継承とも異質でありながら、
不思議と「蜉蝣ーかげろうー」⇒「空蝉-ウツセミ-」のカタチで聴くと“一体感”を感じる様な、
誠に、独特の展開を持つ楽曲であった。
それは、「JUPITER」「ドレス」「ミウ」「幻想の花」といった星野お得意の美麗なバラードではなく、
「ナルシス」「六月の沖縄」「君へ」「ASTYLUM GARDEN」のような意欲的な挑戦的楽曲でもなかった。
独特の“空気感”に、どこか“寂寥感”漂うような楽曲であった。
心にリフレインするようなメロディ…。
空蝉、空蟬(うつせみ)とは、この世に生きている人間を指す。
古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもので、転じて、生きている人間の世界、現世(うつせ)の事。
また、蜉蝣(カゲロウ)同様、
卵⇒幼虫⇒成虫という不完全変態をする昆虫の蝉・蟬(セミ)の抜け殻を指し、
またはセミそのものを指す夏の季語でもある。
成虫は、 カゲロウ同様に、短命の“儚さ”を表現するものであろう。
この「空蝉-ウツセミ-」には、櫻井敦司が“蝉の一生”のような“儚さ”を注入している。
よって、傑作ゴシックアルバム『十三階は月光』に続くシングル盤『蜉蝣ーかげろうー/空蝉-ウツセミ-』は、
「seraphim」で描いたような、短い人生の夏の“ひととき”を、
淡く脆く儚く表現したシングルとなった。
そこに乗った櫻井敦司の歌詞は、今井楽曲「蜉蝣ーかげろうー」とは、また違った意味で、
特別な重要性を持つように感じられた。
なんだろう?
星野楽曲に櫻井が歌詞を載せる時に感じる、「JUPITER」以来の母親の“ぬくもり”と、
郷愁の想いの様な、ノスタルジックを込めて書くような感覚がある。
この「空蝉-ウツセミ-」がそうである。
歌詞中に、「ママが呼んでいる」と「母が笑ってる」という言葉が、同時に存在している。
また「君を抱いて」「手を繋いで」という表現が幼い子供を連想させる。
これが、櫻井敦司の子供を指すものか、また、結婚を発表した星野英彦の子供を指すかは不明であるが、
これまで、BUCK-TICK楽曲では、登場したことのない“家族”存在が思い浮かぶ。
真夏の陽炎の中に、セミが鳴き、蜃気楼が見えそうな風景の中に、
幼い子供を抱いた男が歩いている。
ちょっと前に、スコールのようなどしゃ降りの雨は降ったが、
それが、嘘みたいに、晴れ上がっている。
アスファルトに、眩暈のしそうな蒸気があがり、僕は、少し昔の事を思い起こしていた。
今はもう、亡くなってしまった両親が、僕にも、あった。
そうして、今、僕がこうしているように、抱き抱えられたり、手を繋いで一緒に歩いたりした夏。
あれは、記憶の片隅に追いやられていて、現実かどうかさえ、思い出せない。
でも、あの時の父親の大きな手の感触だけは、憶えてる。
あれから、僕は、随分と遠くまで独りで歩いてきたものだ。
ロックだ、夢だと、無我夢中で走り続けた、この人生。
僕は、それまで、明日、もし、死が訪れても後悔しないように、生きてきたつもりだ。
時には、“泣きながら笑って”“笑いながら泣いて”
傘なんか差さずに、さっきのスコールのような雨を浴びながら、
狂ったこの世界の夜を、唄いながら潜り抜けて来た。
そして、多くいた戦友たちの屍の踏みしめて、生き残って来た。
挫折し、去っていったヤツらもいた。
もう、ロックなんかやってる時代じゃない、と人生の方向を変更したヤツもいた。
ストイックに、自分の夢を追い求めながら、死を迎えたヤツもいた。
そんな、この狂った世界の夜の果てで、必死、もがきながら、足掻きながら…。
そして、朝を迎えた時、僕は、自分の胸の“密室”に、燃え盛る“炎”を見つけた。
以外にも、求め続けた“幻想の花”は、こんなにも近くに咲いていた。
こんな、自分の欲望だけで生きて来た僕にも、“花”はしっかり咲いていた。
僕は“原罪”を背負って生きている。
僕の渇望は、僕の最愛の母を、看取ることを許さなかった。
そんな僕にも「赦し」をくれるのかい?
そんなことを想いながら、幼い我が子と手を繋いで、この道を歩いている。
一瞬、頭を過る、この幸福はすべて、夢の“残骸”かも知れない。
夢か、現実か、少しわからなくなる……、でも……。
この手に感じる「小さな手」の“ぬくもり”が、現実に戻してくれる。
これは、幻想ではない。
こんな、空蝉みたいな頼りない僕を信頼しきって、頼り切って握りしめる「小さな手」。
小さな“ぬくもり”。
僕は、この「小さな手」を守らなくっちゃならない。
こんな、セミの抜け殻のような僕に、この「小さな手」を両立出来るだろうか?
フト、気がつくと、路肩の猫が、フッと笑ったような?そんな気がした。
「ふふふ。そんな事悩んでるのか」僕に、嗤いかけたのか?
ガラスのような丸い目で、こっちジッ見つめている。
「俺は、このままでいいのかい?」
狂いながら歌っているのは、僕だけじゃない。
この世の中は、誰もが皆、バランスを崩しながら、必死に生きている。
それが、誰もが当り前のような顔して、平気で、他人の心の中に土足で上がり込み、
勝ち組だ、負け組だ、と他人と自分を比べ、少しでも他人を出し抜き、
社会が勝手に決めた価値観の上位に這い上がろうとしている。
相変らずの「アレ」のカタマリがのさばる反吐の底の吹き溜まりに、
跋扈する魑魅魍魎のこの世界。
そこで、僕は今も唄い続ける。
そして、その僕の手を握りしめるこの手……。
今ある自分のどれが真実なのか?幻なのか?
まばたきの一瞬に全てが消える。
過去も、未来も、今も、消えた・・・?
気がつくと、辺りはもう、日が沈んでいる。
いつの間に、夜が訪れたのだろうか?
どのくらい、この子と歩き続けたのか?
「ねえ、パパ、もう、帰ろう」
「そうだね。ママが待ってるからね」
そうだ。帰らなきゃ。雨あがり虹の彼方へ。
現人(うつせみ)の僕にも、帰る場所があるんだ。
雨上がりの夜空に、幾千の星や、愛が、降りかかってきそうだ。
君のこの小さな手に、目に、降りかかってきそうだ。
その時、誰かが、僕を呼んだような気がした。
「え!?」
振り返ると、月の螺旋の上で、母が微笑んでいる。
「そうか……。これで、いいんだね。
うん。俺も帰るよ。
いつか綺麗な場所で、逢おう」
「ねえパパ? 誰に話しかけてるの?」
「え……。内緒(笑)……」
空蝉-ウツセミ-
(作詞:櫻井敦司 / 作曲:星野英彦 / 編曲:BUCK-TICK)
笑いながら鳴いている どしゃ降りの雨の現人(ウツセミ)
狂いながら歌ってる 君を抱いて
鳴きながら嗤ってる ずぶ濡れのままの現人
狂いながら歌ってる 君を抱いて
まばたきの間に 僕も 君も 誰も 消えた
幻だろう 猫が嗤ってる
空に舞って 降りそそいで
幾つもの 夢や 愛が 君の手に
夜を待って 降りそそいで
幾千の 星や 愛が 君の目に
ママが呼んでいる 帰ろう 雨あがり虹の彼方へ
狂いながら歌ってる 手を繋いで
振り向いたその時 過去も 未来も 今も 消えた
幻だろう 母が笑ってる
空に舞って 降りそそいで
幾つもの 夢や 愛が 君の手に
夜を待って 降りそそいで
幾千の 星や 愛が 君の目に
