「あなたが在るなら 私も在りたい」
「すがるものを亡くしてしまった人には何かしてあげられるのかな…
優しい言葉をかけてやること…
厳しい叱咤……
私は誰かにそばにいてほしかった」
キャスカ(『ベルセルク』第12巻)
◆◇◆◇◆
ただ、ただ、あなたのそばに、存在したかった。
それは、側に咲く“花”のように。
いつも、見守る“空”のように。
そして、あなたを優しく包む“夜”の“闇”のように。
そんな、小さな“命”を慈しむかのように…。
たしかに、あなたは“存在”したのだ。
僕が、それを、証明しよう。
アルバム『十三階は月光』で唯一の“愛ノ歌”ともいえる「Passion」。
破壊と誕生の間に存在する“恋人”という段階を、
“愛”という“情熱”に摩り替えるのならば、
この星野英彦による渾身の大作にのせた、
櫻井敦司の歌詞は、畏怖すら感じるほどに、“美しく”、
そして、その純粋なる“想い”は、
欲望という“夢の残骸”すら、その宿命のみに価値を見出すような…、
そんな、“愛”をモチーフにした一曲と言えるだろう。
もちろん、アルバムのトータル・コンセプトは忠実に守られ、
星野流のクラッシックを思わせる重荘な張り詰めた緊迫感の中で、
美しいメロディが、物悲しくも響き渡る。
すべてが“甘美”な世界観に包み込まれているが、
その歌詞の内容は、“美”すらも食い破るような、根源的な“愛の形”であった。
櫻井敦司は、アルバム『十三階は月光』のクライマックスの一曲にこの「Passion」を挙げ、
ここで、一旦、物語的な終止符を打ち、その後、衝撃的なフィナーレに向っていく…
というようなことを語っている。
そして、この「Passion」に於いて、訴えられる叫びは、
もうすでに、生とか、死とかの次元ではなく、
“思惟”“想い”の世界へ突入している。
もう肉体としての自分すら、意識の外へ、
ただただ、愛おしき者への“想い”を叫んでいる。
「あなたの隣に 居させて下さい」
その為ならば、もう自分は、“思惟”だけの存在となっても構わない。
これぞ、
ゴシックに彩られた究極の“愛の形”である。
“Passion”と名付けられたこの一曲に込められた“想い”。
◆◇◆◇◆
追加公演【13th FLOOR WITH MOONSHINE】のNHKホールでも「Lullby II」が終わると、
続く楽曲は、“愛”のBT流賛美歌「Passion」。
前奏が始まると、ステージバックや、階段の両側に置かれた、蝋燭が一斉に灯る。
ドラマチックな星野英彦作の前奏の中、櫻井敦司とバレエリーナ=ベッキーが、
ふたり手を取り合って、ゆっくりとステージ中央へと進む。
バレエリーナ=ベッキーが孤を描くように仰け反ると、その胸に顔を埋めるように抱きしめる櫻井敦司。
まさしく“耽美”な抱擁の姿に溜息が洩れる。
そう、櫻井敦司は正確には、バレエリーナ=ベッキーに触れていないのだ。
寸での所で、届かぬこの“想い”は、悲劇的で、美しさが、凄味を増すシーンだ。
やがてスルリと櫻井の腕から、滑り出るかのように離れるベッキー。
そして、ゆっくり、櫻井の元から離れて、遠ざかって逝く。
魔王=櫻井敦司は、彼女を追うように、彼女の方に片手を伸ばし、離れて行く彼女を…見つめ砕け落ちる。
この交差するふたりのシルエットは感動的である。
そして、星野渾身の壮大なイントロは終了し、この「Passion」を櫻井敦司は歌い始める。
「あなたの隣に 居させて下さい・・」
と。
◆◇◆◇◆
「生きる喜び それは悲しみ
命は爆ぜる それならば」
“Passion”とは、情熱、激情などを意味する言葉の他に、
「受難曲(passion)」として、
新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に基づく
“イエス・キリストの受難”を描いた音楽作品をいう。
「受難曲」はキリスト教の聖週間における典礼と密接に結びつき、
中世以来の長い伝統を有しており、現代においても、典礼用の受難曲が新たに創作されている。
“イエス・キリストの受難”とは、文字通りジーザス・クライストの磔刑(たっけい)を指す。
これはキリスト教の聖典である『新約聖書』の「四福音書」に書かれているエピソードの一つで、
ナザレのイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、
死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、
その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、
公開処刑の死刑である十字架ないしは杭に“磔”になって処刑された。
処刑の中でも十字架刑はその残忍性のため、ローマ帝国でも重罪の反逆者のみが受け、
指導権を有するローマ市民権保持者は免除されていた最も重い刑罰であった。
1世紀前半の30年頃に、当時のユダヤ教の偶像崇拝のあり方を批判し
人々に「神」の教えを説くなどしていたユダヤ人の巡礼者的人物イエス・キリストとされる人間が、
処刑されたというのは恐らくは史実であろう。
キリスト教の教義においては、救世主(メシア)であるイエス・キリストが、
すべての人類をその「罪」から救うために、身代わりに磔になったものとされる。
「覚めない夢を 嘘で飾れ
毒を食らわば 皿まで」
宗教史を紐解けば、キリスト教の母体がユダヤ教であることは明白である。
イエス・キリスト自身ももともとはユダヤ教徒であり、幼少期からユダヤ教の教えや律法を学んでいる。
イエスの出現でユダヤ教から分派したキリスト教は、様々な国と民族に広がり、
今や最多の信者を擁する世界宗教へと発展した。
2005年時点で、キリスト教の信者数約21億人、対するユダヤ教は約1400万人と大きな差があるのが現状だ。
ルーツを同じくする宗教でありながら、なぜ、このような違いが生じたのか?
これは、このキリストの受難の末に、確立したと言えるだろう。
それは、「罪」「赦し」「愛」。
人間の犯した「罪」は、イエスの「愛」によって「赦」されたのだ。
◆◇◆◇◆
キリストの教義の中で、もっとも重要なポイントは何か?
それは「罪」と「赦し」である。
ここでいう「罪」とは犯罪のことではなく、神に背くことを指す。
それを人類の祖であるアダムとイヴが、エデンの楽園から追放されたときまでさかのぼる。
ふたりの行為は、人間の“原罪”として伝えられ、唯一神ヤハウェは、“罰”を定めることとなった。
だが、それでも人々は神が定めた掟を破り、その都度に厳しい処罰を受けてきた。
そこで登場したのが、イエスである。
彼は「罰する神」ではなく、「愛し赦す神」を説いたのだ。
人間の想いや言葉、行いの中で、「罪」を犯すことは避けられない。
だが、そんな「罪」は、悔い改めることによって「赦」される。
イエスが命を捧げて“原罪”を償ったことで、神は愛し赦す存在となった。
だから人間も他人を赦すべきという考え方がイエスの教えの中核を成しているのだ。
「今夜砂漠に 雪が舞い散る
何処から来たか知らずに」
イエスが説いたものは、究極の“愛の形”だった。
「福音書」に描かれたイエスと律法学者との議論の中で、「愛」に関する議論がある。
律法学者の
「あらゆる掟の中で、どれがもっとも、大切か?」という問いに対して、
イエスはふたつの掟を示している。
一つ目は
「心を尽くし、精神を尽くし、想いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい」
というもので、
二つ目は
「隣人を自分のように愛しなさい」
というものである。
これは、まさに自らを犠牲にして「愛」の模範となったイエスならではの教えといえよう。
また、イエスは『マタイ福音書』において、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
という、新しい“愛の形”を説いている。
こんな教えは、それまでイエス・キリスト以外に唱えた者がいなかった。
キリスト教の教義の根幹には常に「愛」があることは、疑う余地のないことである。
◆◇◆◇◆
様々な物語に引用されるほど、裏切り者の代名詞となったユダ。
彼こそが、その「罪」の代名詞といえるのではないだろう。
その「罪」もイエスの“愛の形”を示す道具であったのではないか?
裏切り者の烙印を押されたユダであるが、彼は経典『新約聖書』の4つの福音書、
『使徒行伝』に登場する、イエスの弟子のうち特に選ばれた12使徒のひとりである。
そうした極めて重要な弟子のひとりであったにも関わらず、ユダはイエスを裏切る。
反イエス派の祭司たちと通じて、銀貨30枚と引き換えに、イエスの引き渡しを請け負ってしまったのである。
ただ、その裏切りに際し、イエスが取った行動がやや不可解なのである。
“イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。
それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。
そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼にいわれた”
「お前が在れば 悪魔にもなろう
君を食らわば 骨まで」
サタンに魅入られたユダに対し、
「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」
とは、これいかに。
要するに、この場面だけを見れば、
イエスがどうもユダの裏切りをあらかじめ知っていたのではないかと思えるのである。
果たして、その真相はいかなるものなのだろうか。
ユダの裏切りを知りながらも、それを受け入れたイエス。
イエスは、この裏切りによって、十字架に架けられてしまったのだから、非常に奇妙な話である。
しかし、人によってはユダの裏切り行為自体は罪ではなく、
むしろその罪は、「自殺」という最悪の形で終息させたことにあるという意見もある。
いずれにせよ、イエスとユダの間には、ふたりだけの秘密がありそうだ。
◆◇◆◇◆
イエスがユダにいったとされる
「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」
という言葉。
イエスが彼の裏切りについて予め知っていた事を差し引いても、愚行を唆しているように聞こえる。
イエスはユダの裏切りに気付きながらも、それを唆して、
そして、結果として裏切られ、十字架に磔になる道を自ら選んだのである。
20世紀後半になってから発見された『ユダの福音書』にもはっきりと
「ユダの裏切りはイエスによって指示されたもの」
と書かれているといわれ、イエスの不可思議な行動についての謎は深まるばかりである。
「覚めない夢を 嘘で葬れ
毒を食らわば 皿まで」
しかし、イエスはなぜそんなことをしたのだろうか?
実はこの行動の裏には、イエスのキリスト教を想う気持ちが隠されていた。
ユダヤ人によって12使徒が逮捕されるようなことがあっては、
キリスト教の布教活動に大きな支障が出かねない。
イエスはそうした状況を嫌って、ユダを半ば利用する形で裏切らせてから、
自ら十字架を背負い、その身を犠牲にしてまでキリスト教の布教を願ったのである。
ただし、ユダはこの裏切りの後に自殺しており、釈然としないものが残るのは否めない。
それでも、使命だったとはいえ、師を死に至らしめた自身の罪を償う為、と考えれば説明は付く。
◆◇◆◇◆
イエスを逮捕する時に行った『ユダの接吻』のシーンは非常に有名で、
後世にも映画『ゴッドファザー』において、イタリアンマフィアが裏切り者を始末する際、
この行動を真似るという風習が描写されている。
他にも日本では、太宰治が、短編小説『駆込み訴へ(1941年、月曜荘) 』において、
イエスを裏切る際のユダの複雑な心理葛藤を描いている。
ユダの裏切りをモチーフにした物語が、後年後を絶たず、数えきれないほど編まれているのは、
イエスとユダの不可解な行動があったからこそ、であろう。
「今夜砂漠に 月は見えない
這いずり往く当て所無い」
そして、そのユダの自殺の後、イエスは復活の日を迎える。
このエピソードなどは、後年イングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアによる戯曲。
『ロミオとジュリエット』(Romeo and Juliet )の悲劇的なラストシーンにも適用された可能性がある。
ジュリエットに助けを求められた修道僧ロレンスは、
彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てる。
しかし、この計画は追放されていたロミオにうまく伝わらず、
ジュリエットが死んだと思ったロミオは彼女の墓で毒を飲んで死に、
その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットもロミオの短剣で後を追う。
事の真相を知り悲嘆に暮れる両家モンタギュー家とキャピュレット家は、
血で血を洗う抗争にピリオドを打ち、ついに和解に至る。
この二人の美しき“Passion”の為に。
この“受難”を聞いた聖母マリア象は、目から血の涙を流したという…。
◆◇◆◇◆
「Passion」も終盤を迎える。
道化師CLOWNの灯した三叉の燭台の蝋燭に手を翳す櫻井敦司。
“受難”こそ“愛”。
犠牲の“FLAME”が、その身を焦がすかのように…。
今夜砂漠に、月は…見えない……。
しかし、僕は、あなたのそばに。
◆◇◆◇◆
「私にも1つくらい
おまえのつけた傷がほしいよ」
キャスカ(『ベルセルク』第9巻)
◆◇◆◇◆
Passion
(作詞:櫻井敦司 / 作曲:星野英彦 / 編曲:BUCK-TICK)
あなたの隣に 居させて下さい
生きる喜び それは悲しみ
命は爆ぜる それならば
覚めない夢を 嘘で飾れ
毒を食らわば 皿まで
今夜砂漠に 雪が舞い散る
何処から来たか知らずに
あなたが在るなら 私も在りたい
お前が在れば 悪魔にもなろう
君を食らわば 骨まで
覚めない夢を 嘘で葬れ
毒を食らわば 皿まで
今夜砂漠に 月は見えない
這いずり往く当て所無い

