「ようこそ、愛の惑星へ。
逢えて嬉しい……
楽しんでってくれ」
櫻井敦司ソロライヴ【EXPLOSION 愛の惑星 Live 2004】
3曲目に登場するのはSCHWEINでも共演した、PIGのレイモンド・ワッツが提供、
インダストリアル・サウンドのブリティッシュ・テイストが、
櫻井敦司の濃厚な日本語と科学融合を魅せるその名も「YELLOW PIG」。
相変わらずのへヴィ機械サウンドが重く襲い掛かる。
藤井麻輝に続いて、登場する精鋭メンバー
川瀬昌知(CLOUDCHAIR)、三代堅のギター・サウンドが、
レイモンドの楽曲をより精密に再現する。
松田知大(WRENCH)、阿部耕作(THE COLLECTORS)の重厚なグルーヴが、
櫻井敦司を揺らし始める。
この音の洪水の渦のなかで、櫻井敦司は、ややハスキーな調子で、
重たいシャウトを重ねている。
「がなる」と表現してもいいほどの唄声を、
櫻井敦司は、身体全身で、放っているようだ。
実際、この楽曲のレコーディング時の櫻井は、喉の調子がイマヒトツで、
搾り出すように声を出すことで、独特の臨場感を持つヴォーカルになった。
この攻撃的な重低音の波の中で、その大波を力いっぱい足掻きながら、
生きることを選択した櫻井敦司の姿が、思い浮かぶ。
「我、宙吊りになって」
どす黒い、この渦に蹂躙されながらも、
決して、“生きること”
そして、“唄うこと”への“希望”を捨てはしない。
そんな、タフネスな、櫻井敦司の姿が、僕の脳裏には浮かぶ。
もう、繊細で、脆いだけではない櫻井敦司。
彼の生き様は、唄い続けること。
そう知った“宿命の唄い人”櫻井敦司。
ここに、相棒:今井寿の庇護はない。
BUCK-TICKという長年の最も頼りになる組織もない。
素っ裸の“櫻井敦司”という一人の“唄い人”があるだけだ。
それ以上、どんな意味が必要だろうか?
“歌を唄うこと”
それ以上、彼に、なにが必要だというのだ?
詩人:櫻井敦司
彼の紡ぎ出す言葉の螺旋は、独自の美学に彩られ、
美しくもあり、醜くもあり、どす黒くもあり、そして希望の光もある。
彼の心の“叫び”を表現するのに、これ以上のものはないであろう。
しかし、違うのだ。
櫻井敦司は、その“叫び”を訴えたくて、作詞をするのでは、ない。
彼は、それを、“唄う”ために、密室の“叫び”を探求し、
それを、表現し得る言葉を構成して、詞を紡ぎ、詩のカタチを創るのだ。
そう。
すべては、“唄う”ためなのだ。
彼は、一個の“唄い人”なのだ。
それ以上でも、
それ以下でも、
存在しえない。
(以下、『UV』誌より引用抜粋)
――アルバム・タイトルの『愛の惑星』について訊かせて下さい。
惑星という単語が何かひとつの鍵になったんでしょうか?
「いや、それはもう、その「惑星」という曲に限ったことで、
そもそも単純に惑星の人が書いてくれたから「惑星」なんですけど(笑)。
アルバム・タイトルのことは、
タイトル決める時期が迫ってるときにデレクターの田中さんから『愛の惑星』がいいんじゃないか
と言われて、いろいろ考えるまでもなく“それでいきましょう”って感じでした。
たいしたこと答えられなくて悪いんですけど(笑)」
――いえいえ。
しかし少なくとも櫻井さん自身、その言葉を聞いたとき、
作品象に似つかわしいものだと感じたわけですよね?
「ええ、もちろん。それは言われたら他に言うことないよなっていう感じ」
――実際、愛にあふれた作品ですよね。
歌詞に“愛”という言葉が出てこない曲は少ない。
歌詞は書き手を写し出す鏡だと言う人もますけど……。
「わかんないですね。そういうのはむしろ。
単純に曲の中のもんだと思ってもらいたいんですね。
自分としては、そういうのを捉えて“この人はこうだ”っていう聴き方もあるんでしょうけど、
あんまり分解されてしまうと、こっちも何も言いようがないというか」
――人格だとかモノの考え方が歌詞に反映される部分があるにしても、
それがすべてではないし、間違っても私小説を書くような感覚で取り組んではいないということですね?
「ですね。
あくまで自分の場合、詩というものは音楽に引き出されるものですし」
――つまり“歌い手である以前に詩人”ではあり得ないってことですか?
「ええ。
それに、書き上がった詩がそこにあったとしたら、それはもう、その物語でしかないというか。
“ここでこう言ってるから櫻井敦司はこうなんだ”っていうんじゃなくて。
人がパラパラっと見てくれてその世界を気に入ってくれたなら、もうそれでいいですし」
――なるほど。
同時に生死だとか生命感といったものについての表現も目につく気がしますが、
そういった発想も、あくまでも音楽から引っ張り出されたものと見るべきなんでしょうか?
「そうですね。
音楽がなかったら、こういう作業自体がなかったわけですから。
やっぱりCD、音楽を作るっていう大前提があったからこそ……。
理由だったり意味だったりっていうのは、
こちらから口で説明するのは、なんかちょっと違う気がするんですね。
こういう場を設けてもらっていながら申し訳ないですけど、
“聴いてもらって、どう感じてもらえるか”ってことでしかない。
“どうしてこういう歌詞になったんだ?”と言われても……
どうしてもこうしても“こうなっちゃいました”としか言いようがないので(笑)」
――ええ。
ま、僕もそれを訊き出したあとで、心理学的に分析できるわけじゃないですし。
「……(笑)。
でも、ま、わかりやすいんじゃないですかね。
聴いてみて、“ああ、こういうことがあったんじゃないかな”とか想像できるところもあるだろうし、
そういう聴き方もアリと言えばアリなんだろうし」
――聴き手の多くは歌の主人公を櫻井さんと重ねて聴く傾向にあると思うんです。
そこには妄想も誤解もあるはずですけど、逆にそうした部分も含めて楽しんでくれればいい、と?
「ええ、そういうことになりますね」
――要するに櫻井さんの場合、“歌うこと”は目的なんですね。
何か別の目的のために歌うのではなく、歌うために何かする。
「そうですね。
だから歌詞なんかはもう、誰かに書いてもらっても全然いいと思ってたんです。
ただ、いざ書いてもらったらピンとこないなっていうのも
多分出てくるだろうなっていうのも
予測があったので自分で書いたわけですけども。
あとはもう、こういう機会自体があまりないものだと思いましたし、
だからこそ今回は自分ができることをやったっていう感じで。
来年またこれをやりますって言われたら、
また改めていろんなやり方を考えるかもしれないですけど」
(以上、引用抜粋)
ここで語られてるとおり、このBUCK-TICKレヴューBLOG【ROMANCE】にも、
何の意味も無い。
櫻井敦司は、分析されるために、作詞をしている訳ではないのだ。
彼は、“歌うたい”であり、ただただ、歌を唄うためにに作詞をしている。
そして、僕のように、それに勝手な解釈を付けるのは、
聴き手の勝手な妄想であり、彼の“領分”では、有り得ない。
「俺の線 このライン、
啼き哂い 響く
どす黒く 叫ぶ
救いは ないと 啼いている」
しかし、何かを感じずにはいられない。
これは、送り手の問題ではなく、受け取り手の問題なのだ。
だから、櫻井敦司の紡ぐ言葉の渦に、
皆、勝手に自分探しの冒険に、皆、勝手に心を見つけ出掛けて行くのだ。
櫻井敦司は、そのキッカケを創る、ただただ、唄うだけ。
歌を唄うためだけの為に、
彼は、此処に在る。
