「夢見たはずが ブザマを見るのさ 」
映像のパフォーマンスでは、この印象的なフレーズの一節がカットされている。
『期間限定ピカピカ天王洲ライヴ』テレビ東京系列にて、
2000年10月1日放映の回にBUCK-TICKは出演。
彼等の大ヒットナンバー「惡の華」を披露している。
ヴァージョン的には、『殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits』時リメイクされたものに近い。
思い返せば、元祖ヴィジュアル系の雛型楽曲として、ベスト・ヴィデオ賞を受賞したこの楽曲から、
日本のヴィジュアル・ロックの方向性は決定付けられたように感じる。
ヴィジュアル系の黎明期としては、
1980年代中期、インディーズのHR/HMシーンでは、X、COLORといった、
それまでのロックバンドの常識とはかけ離れたスタイルのバンドが、
ほぼ同時期に関東と関西で一際目立った活動を始めた。
彼等の活動内容は、当時としてはとても画期的で、自らインディーズレーベルを設立、
音源の無料配布GIG、メディアへの宣伝広告の掲載等の斬新なプロモーションを展開するなど、
後のインディーズシーンでの主流となる戦略を、誰よりも先駆けて行いその礎を築き上げた。
この両バンドは、とても交流が深かったが、実際のサウンドはメタル系とパンク系、
音楽性重視と精神性重視と相反するものであった。
当時はこの現象を以って「東のX、西のCOLOR」と言われた。
以降、Xは万人も知る所となるが、COLORはライヴ中に発生してしまった観客の死亡事故により、
大々的な活動ができなくなった。
これ以降、彼らの活動を参考に、様々なミュージシャンが自身のレーベルを設立するようになる。
これとは違いBUCK-TICKの出所は、先輩格BOOWYの後を追い、大手レーベル・ビクターからメジャー・デビュー。
楽曲も日本の歌謡シーンを引く次ぐ、キャッチーでメロディアスなもので、
なかばアイドル扱いのバンドというのが正直な印象である。
当然、マーケティングと販促予算は膨大であったが、ルックスだけが先走りして売られ、
彼等の志す“ROCK”とは、そして敬愛するBOOWYとは別路線を歩むことになるが、
BUCK-TICKは、そういったフラストレーションを正のパワーに変換していった。
1990年代初頭には、バンド・ブームの終焉の一方で、
根強いファンがいたヴィジュアル系ロック・バンドがメジャー、インディーズ を問わずに台頭し、
ロック・バンドの主流となった。
そんな時代にBUCK-TICKの「惡の華」は誕生した。
時同じくして、BOOWYの遺産と言われる空前の“バンドブーム”のバブルは完全に弾け、
奇しくも日本経済のバブル自体も破滅へ向かっていた時代である。
このバンドブーム“バブル”の崩壊とともに
ハードロックやビートロック、ヘヴィメタルのバンドとして活動していたものでも、
当時はこれらのジャンルがヴィジュアル系の隆盛に押される形で人気が下火となり、
流行に応じた当人の意思や、
或いは所属事務所やレコード会社などによる販売戦略、商業的な要求などの要因により、
音楽性も含めて、形態の移行をせざるを得ない状況に追い込まれていったと見られるケースもある。
その後、ほとんどのバンドは商業的要素が強くなり、ロックとしての精神性は薄められることとなった。
その辺りが影響してか、この時期からヴィジュアル系バンドに男性ファンの姿はほとんど見られなくなった。
※この辺りの状況こそが、今井寿が、BUCK-TICK裏の代表曲と言われる
「相変わらずの「アレ」のカタマリがのさばる反吐の底の吹き溜まり」(アルバム『Six/Nine』収録)
で表現されている。
一方でヒットしたバンドの中でも、知名度や人気が高くなったり、音楽性の評価が高かったりと、
広く世間に認知されたバンドについては、
その後は化粧の濃さなどヴィジュアル系としての特徴が薄れていったものが多い。
そこには元々の純粋なロックバンド、メタルバンドなどへの回帰、パンクなどへの方向転換、
より強いロック色を出す為といった音楽の方向性の変化による理由が一般的である。
或いは、売らんが為に強いられたヴィジュアル系路線や、
ヴィジュアル系という言葉 (枠組への分類) そのものへの反発など、
それぞれのバンドやミュージシャン毎に様々な理由があったものと考えられる。
そんな時代の潮流の中で、今尚、BUCK-TICKは再度、雄叫びを上げる。
それは、消え去って行った仲間たちへのレクイエムか?
はたまた、新たなる挑戦への“覚悟”だろうか?
まさに
「夢見たはずが ブザマを見るのさ 」
と供にキラメキの中を疾走した仲間たち捧ぐ
惡の華
(作詞:桜井敦司/作曲:今井寿/編曲:BUCK-TICK )

