連載〈勇気の源泉 創立者が語った指針〉 千年先へ 人材の「黄金の連鎖」を2024年7月17日

  • 古代ギリシャ 大哲学者の「最後の事業」は教育

第21回栄光祭で学園生を励ます池田先生。“地味であっても着実に日々「進歩」と「向上」の意義ある学園時代に”と望んだ(1988年7月17日、東京・小平市の創価高校で)

第21回栄光祭で学園生を励ます池田先生。“地味であっても着実に日々「進歩」と「向上」の意義ある学園時代に”と望んだ(1988年7月17日、東京・小平市の創価高校で)

●1988年7月 東京・創価学園の第21回栄光祭

 〈1988年7月17日、創価学園創立者の池田先生は、創価中学・高校の第21回栄光祭に出席した。冒頭、古代ギリシャの都市国家アテネの黄金期を築いた指導者ペリクレスの少年時代について語りつつ、若き日に決意を固める重要性を訴えた〉
  
 かつてエーゲ海のほとりに、絢爛たるギリシャの古代文明が花開いた。そのことは諸君も、歴史の授業で学んだにちがいない。オリンピックのルーツ(起源)も、この古代ギリシャにある。
 その中心となった都市アテネが、もっとも繁栄したのは、今から約2500年前の“ペリクレスの時代”である。つまり、当時の指導者ペリクレス(紀元前495年―前429年)のもと、アテネは、民主政治の完成期を迎え、建築、彫刻、文学、哲学等の文化も頂点をきわめる。ペリクレスこそ、アテネの「黄金期」を築いた最大の功労者といってよい。
 そのペリクレスが、美しき文化の都としてアテネを建設していこうと誓ったのは、いつのことであったか。一説によれば、15歳のころに彼の誓いの出発点があったという。15歳といえば、ちょうど、諸君と同じ年代である。
 ペリクレスの少年時代、ギリシャには、東方の大国ペルシャが、繰り返し侵入してきた。その戦乱の渦中、アテネは、ペルシャ軍に焼きはらわれ、痛々しい荒廃の姿となった。諸君と同じ年代に、故郷を無残に破壊されたペリクレス。胸中は、いかに悔しく、悲しい思いであったか――。
 しかし、ペリクレス少年はくじけなかった。焼け野原に一人立ち、彼は心中深く決意する――今に見よ、この焼け跡に、いつの日か世界中が仰ぎ見るようなすばらしい都を建設してみせる、と。
 そしてペリクレス少年は、このみずから定めた大いなる理想にむかい、まさに“炎のごとく”情熱を燃やし、学びに学んでいくのである。
 私の少年時代も、戦争の真っただ中にあった。4人の兄は、すべて出征し、老いたる父母の悲しみは、今も私の心に深く残っている。それに空襲と疎開。最悪の環境であり、しかも、私は肺病に苦しんでいた。
 私は、「戦争」を憎んだ。戦争をもたらす「野蛮」と「誤った思想」への怒りを、多感な心にきざみつけた。そして生涯を、「平和」のためにささげようと決心した。そうした思いをかためたのが、ちょうど十五、六歳のころであったと記憶している。
  
 〈池田先生は、ペリクレスが師である哲学者アナクサゴラスから徹底して薫陶を受け、弁論の力を磨いたことを強調した。そしてペリクレスの逸話を通して学園生に毅然とした人格を磨こうと呼びかける〉
  
 師アナクサゴラスが、弟子ペリクレスにきざみこむように教えたなかに、“いかなることがあろうとも、決して動揺してはならない、たじろいではならない”という一点があった。
 ペリクレス少年が教えこまれたこの一点は、人間の根本を形づくるものであった。こうして彼は、みずからの人格の確固たる「芯」を鍛えていったのである。(ペリクレスの少年時代については、鶴見祐輔『新英雄待望論』太平洋出版社を参照)
 後年になるが、ペリクレスには、次のようなエピソードがある。ある日、ペリクレスは、公会場で、急ぎの事務の仕事に集中していた。その時、一人のならず者から一日中、悪口を言いたてられた。しかし、彼は“私には成すべき仕事がある”と、見むきもしないで、黙々と仕事を続けた。そして、仕事を終え、夕方には家路についたが、その男はあい変わらずペリクレスにつきまとい、道々悪罵し続けた。
 だが、ペリクレスは、相手にもせずに、悠然と歩いていく。彼がわが家に着いた時、日も暮れ暗くなっていた。そこで、使いの者に灯をもたせ、その男が無事帰宅できるよう送らせたという。(『プルターク英雄伝』鶴見祐輔訳、潮文庫を参照)
 つまりペリクレスには、人の悪口しか言えないような卑しい人間など、はじめから眼中になかった。ゆえにいちいち反論も、言いわけもしない。ただあわれに思うだけのことであった。
 しかし、ペリクレスは、いざという時には、獅子のごとき雄弁家として、民衆に自分の信条を堂々と、また誠実に訴え、そして行動した。このことは、わが学園の校訓の第4項「自分の信条を堂々と述べ、正義のためには勇気をもって実行する」にも通じる。ともあれ、学園生の諸君は、今は、しっかり勉学に励み、こうした毅然たる、骨の太い人格の一人一人に成長してほしい。

なぜ学園を創立したか

 〈続いて先生は、古代ギリシャの大哲学者プラトンの生涯に言及。プラトンが学園「アカデメイア」を創立した背景に、師のソクラテスを無実の罪で処刑した当時の指導者と社会への怒り、そして変革の思いがあったと語る〉
  
 さて、古代ギリシャの大哲学者プラトン(紀元前427年―前347年)の名は、諸君もよくご存じと思う。彼の多くの業績のなかで、ひときわ高く評価されているものの一つは、学園「アカデメイア」の創立である。アカデメイアは紀元前387年ごろ、アテネの北西の郊外につくられた。
 アカデメイア創立の時、プラトンは40歳であった。ちなみに私がこの創価学園を開校したのも、昭和43年(1968年)、ちょうど同じ40歳の時である。プラトンは以後、80歳で亡くなるまでの40年間、このアカデメイアで「教育」とみずからの「著述」に全力をそそぎ続けた。
 彼が、この学園を創立した理由は何か。じつは、そこには師ソクラテスに対する弟子としての深き誓いがこめられていた。すなわちソクラテスは、まったく無実の罪で死刑に処された。
 プラトンは師を不当に逮捕し殺した当時の指導者と社会に対し、すさまじい怒りを発した。その無念の思いは彼の生涯の原点となり、また横暴な権威と権力への糾弾の念は、彼の全著作のすみずみにまで強く脈打っている。
 プラトンは決意した。“ソクラテスのごとく正しき善き人を迫害する社会は、大きくゆがんでいる”“この誤れる政治と社会を断固、革命し変革せねばならない”。そのためには、正しい意味での「哲学」によって、正しき人間と正しき社会をつくる以外にない――と。
 そして彼は、その誓いのままにアカデメイアを創立し、多くの人材を育成していった。このようにアカデメイア誕生の淵源には、生死を超えた崇高な「師弟の精神」と、「社会変革への理想」が、厳としてあった。
 プラトンの最後の著作『法律』には、「その仕事(=教育)こそ、すべての人が生涯を通じ、力のかぎり、やらなくてはならないもの」(森進一訳、『プラトン全集13』所収、岩波書店)とある。彼は自身の後半生をかけて、この「人間教育」の実践に取り組んでいった。私もまたつねづね、人生の総仕上げの事業は「教育」にあると思っている。

ラファエロの名画「アテナイの学堂」をモチーフにつくられた東京・八王子市の創価大学池田記念講堂の緞帳。中央で語り合う2人はプラトンとアリストテレス、その左の傍らで青年たちと対話するのがソクラテスとされる

ラファエロの名画「アテナイの学堂」をモチーフにつくられた東京・八王子市の創価大学池田記念講堂の緞帳。中央で語り合う2人はプラトンとアリストテレス、その左の傍らで青年たちと対話するのがソクラテスとされる

皆が縁深き草創の人

 〈結びに先生は、アカデメイアが900年以上にわたって、人材を輩出した史実に触れつつ、創価学園、創価大学もはるかな未来を見据えて創立したと述べ、皆が自分らしく立派な道を開いていってほしいと語りかける〉
  
 アカデメイアの人材輩出の歴史は、紀元前387年の創立から、紀元後529年の閉鎖まで、じつに900年以上にわたって滔々と続いていく。後継の陣列がとぎれなく続いた、その輝かしい歩みは「黄金の連鎖」(=黄金の鎖が、とぎれなくつながっていること)と呼ばれ、たたえられている。(アカデメイアについては、廣川洋一『プラトンの学園 アカデメイア』岩波書店などを参照)
 わが創価学園もまた、「千年」をひとつの単位とし、人類のはるかな未来を見つめて創立したものである。この精神は創価大学も同様である。
  
 その意味で、諸君は、まさに縁深き「草創の人」である。私にとってももっとも大切な人々である。どうか、限りなく続くであろう後輩のために、「学園草創」の誇りも高く、この人生を尊き「先駆の人」として生き、活躍していっていただきたい。
 世界の、あらゆる分野で、学園生らしく、自分らしく、立派な「道」を切りひらき、人材の「黄金の連鎖」を見事に、つくっていってほしい。

 ※スピーチは、『池田大作全集』第57巻から抜粋し、一部表記を改めた。
 
 
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